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田中泰の「クラシック新発見」

“夭逝の天才ピアニスト”ディヌ・リパッティ

隔週連載

第21回

ディヌ・リパッティ

12月2日は、ピアニスト、ディヌ・リパッティ(1917-1950)の命日だ。筆者がナビゲーターを務める「J-waveモーニングクラシック」では、11月29日(月)から命日にあたる12月2日(木)までの4日間に渡って、“伝説のピアニスト”リパッティを特集する予定だ。なぜリパッティは伝説となったのだろう。まずはその生涯を辿ってみたい。

1917年3月19日、ルーマニアの首都ブカレストに生まれたリパッティは、優れた才能に恵まれ、11歳にしてブカレスト音楽院入学を許される。1933年に行われた第1回「ウィーン国際ピアノ・コンクール」において第2位となるが、審査員を務めていた名ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877-1962)がこの結果に抗議して審査員を辞任。まさにコンクールならではの天才伝説の始まりだ。

そのコルトーの薦めによってパリ音楽院に入学し、ピアノはコルトー、指揮をシャルル・ミュンシュ、そして作曲をナディア・ブーランジェに学ばせるという破格の英才教育を施したことからも、コルトーのリパッティにかけた期待の高さが窺える。1936年にパリで本格的なデビューを飾り、将来を嘱望されていたリパッティだったが、不治の病(ホジキンリンパ腫)に侵されて、1950年12月2日、33歳の若さでこの世を去ってしまうのだ。コルトーの落胆は想像にあまりある。

1952年に来日したコルトーがレセプションの席で若い世代のピアニストについて聞かれた際に「ディヌ・リパッティが天才だった。彼が若死にしてしまった今、他に誰をあげてよいか知らないし、誰について語るべきかわからない…」と悲しげに答えた状況を、その場に居合わせた音楽評論家・吉田秀和(1913-2012)が記している。さらには、20世紀アメリカを代表する音楽評論家ハロルド・C・ショーンバーグ(1915-2003)の著書『ピアノ音楽の巨匠たち』には、「ディヌ・リパッティの33歳の死は、今世紀最大の1人になったかもしれないピアニストを連れ去った」と書かれている。どちらも短いながら、リパッティの価値を裏付けるとても印象的な言葉だ。

そのリパッティが遺した数枚のアルバムが存在する。1947年に録音されたシューマンとグリーグのピアノ協奏曲や、バッハ、モーツァルト&ショパンなどの名演奏、そして極め付けが、1950年9月16日にブザンソンで行われた最後のリサイタルのライブ録音だ。病状の悪化によって医師からコンサートの中止を勧告されたにもかかわらず、死期を悟っていたリパッティは聴衆との約束を果たすためにリサイタルを敢行。当日会場に集まった人々は、目の前の若き天才が死に直面し、彼の演奏を聴くのはこれが最後であろうことを理解していたという壮絶なライブだ。

ディヌ・リパッティ『ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル』

疲れ切り、息も絶え絶えのリパッティは、最後に予定されていたショパンの「ワルツ第2番」を演奏できなかったという事実に胸が詰まる。にもかかわらず、レコードに刻まれた音楽のなんと美しく生気に満ちていることだろう。リパッティは自らの生きた証をこの演奏に込めたのだ。そしてこの世に別れを告げたのだ。コンサートから約2ヶ月後の12月2日にリパッティは亡くなり、彼の生涯と最後のリサイタルは伝説となった。

リパッティ夫人マドレーヌの手記には、「あの時彼にはショパンの14曲のワルツを弾き通す力はもはやありませんでした。しかしそのことをショパンでさえも非難しないだろうと思います」と記されている。

「J-waveモーニングクラシック」
https://www.j-wave.co.jp/original/tmr/classic/

プロフィール

田中泰

1957年生まれ。1988年ぴあ入社以来、一貫してクラシックジャンルを担当し、2008年スプートニクを設立して独立。J-WAVE『モーニングクラシック』『JAL機内クラシックチャンネル』などの構成を通じてクラシックの普及に努める毎日を送っている。一般財団法人日本クラシックソムリエ協会代表理事、スプートニク代表取締役プロデューサー。

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