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少女の通過儀礼から無我の境地までも描く 『若おかみは小学生!』がもたらす極上の映画体験

リアルサウンド

18/10/13(土) 12:00

 素晴らしい映画だ。快活で、情緒豊かで、含蓄がある。少女の通過儀礼というありふれた物語設定から、「森羅万象に神が宿る」とする神道的な精神性に加え、仏教の無我の境地まで描く離れ業をやってのけている。一流の職人たちの丁寧な技術も堪能できる、極上の映画体験である。

参考:『若おかみは小学生!』による極上の映画体験

 内容に触れる前に一つだけ、本作を巡る、「この映画は子供向けか大人向けか」という議論について書いておきたい。

 結論から言うと、この映画は特定の年齢層に向けられた作品ではない。アニメーションが誰のための技術なのか、所詮子ども向けであり大人が観るものではないのではないか、という物言いは昔からあった。ウォルト・ディズニーはそれをくつがえすために『ファンタジア』を作って、アニメーションも芸術になれることを見せようとした。

 日本でも同様の問いは長いことあり続けたが、スタジオジブリはこの問いに真っ向から答えてみせた。宮崎駿は『天空の城ラピュタ』の企画書に以下のように記している。

「アニメーションはまずもって子供のものであり、真に子供のためのものは大人の鑑賞に充分たえうるものなのである」

 スタジオジブリはそれを実践し続け、実力でもってそのことを証明した。

 宮崎駿監督作品の多くで作画監督を務めた高坂希太郎が監督した『若おかみは小学生!』も、上記の宮崎駿の言葉を忠実に実践した作品だ。これは老若男女が楽しめる作品で、決して特定の年齢層だけに向けられたものではない。春の湯の温泉と同じだ。このアニメーション映画はだれも拒みはしない。
 
 本作は死が身近な物語だ。主人公おっこの両親が事故で亡くなるシーンから始まり、おっこは幽霊とコミュニケーションが取れる。近しい者の死は誰にとっても大きな喪失だが、おっこはそれを喪失だと受け止めきれていない。なまじ幽霊とも生きているように会話できるせいもあってか、両親もまだ生きているのではという錯覚を持っている。

 おっこの周囲も、おっこの心の内側も、生と死の境が曖昧になっているのは本作の特異な点だ。そして死の匂いが色濃い作品にもかかわらず、重たさを感じさせない。

 どうしてこんな描写が可能なのかといろいろ考えてみたのだが、二度目の鑑賞で本作にまつわる死の存在は、おっこの両親や幽霊たちだけではないことに気づいた。おっこが温泉で死んでいる蛾をすくい取る時に、ウリ坊が「手ぐらい合わせとき」とおっこを促すシーンがある。他にも終盤でおっこがお客様のために厨房に春の湯牛の肉を運んできた時、仲中居のエツ子さんがさりげなく肉に手を合わせていたりする。

 このさりげない描写が実はとても重要なのではないかと筆者には思えた。死は大きな喪失だが、実はそこかしこにある。牛肉にも虫にも生命があり、それは我々の生活のいたるところで失われている。

 作品に死の重さが感じられないからと言って、それは生命を軽く見積もるということではない。万物の生命に価値があると考えるからこそ、蛾の死骸にも、食材にも手を合わせるのだ。「ピンフリ」こと真月が旅館の庭のライトアップのセッティングをする際、草木の眠る時間を考慮する台詞があるのも、万物に生命があることを認識させるのに一役買っている。小学生にしてそのことに気づいている真月はすごすぎる。尊敬しかない。

 死は悲しいけれど特別なことではない。だからこそ、死の匂いが色濃いにもかかわらずこの映画は「悲しすぎない」のではないだろうか。このことは、おっこが両親の死を受け入れ、成長するための遠景としても非常にうまく機能していて、物語と世界観が絶妙に噛み合っている。万物に命が宿るとする考えは、アニメーションが技術として追求してきたものであり、宮崎駿作品の中心的思想でもあり、日本の神道の信仰のあり方でもある。

 本作の物語は、オーソドックスな通過儀礼ものだ。少年少女の成長を描く上で、普遍的な題材である。本作においては、おっこが両親の死を受け入れる過程を、通過儀礼の期間として用いている。

 通過儀礼は分離、移行、合体の3つの段階からなると言われる。両親が亡くなったことで新しい土地にやってきて(分離)、若おかみになるための修行に励み(移行)、ただの小学生であり一人娘だったおっこが「私は春の屋の若おかみですから」と自覚する(合体)。とてもきれいに整頓された構成だ。

 アニメーション映画で少女の通過儀礼を描いた作品といえば、『魔女の宅急便』を思い出す(高坂氏は奇しくもこの映画には参加していない)。魔女のキキは13歳になり魔女修行で新しい街にやってくる。その街で意欲的に働いているが、やがて飛行能力を失い、黒猫のジジの言葉も分わからなくなる。そんな今までの自分を喪失し、親友の危機を前にデッキブラシで飛行するという新しい能力を得て成長する。ジジと会話する能力は失われるが、成長とはこれまでの自分の喪失とセットであり、通過儀礼とはその喪失を受け入れる過程でもある。(余談だがバンジージャンプは成人するための通過儀礼が起源だ。そして、本作の印象的な挿入歌の曲名は「ジンカンバンジージャンプ」である。

 『若おかみは小学生!』でおっこが喪失するものは、言うまでもなく両親である。しかし、おっこはその喪失を受け入れることができない。両親がすでにいないことは知識としては分かっている。しかし、実感することと、知識として頭に入れるということには大きな違いがある。映画は、この差異を“おっこが見る夢”として見事に描いている。

 幽霊と会話できる能力は、『魔女の宅急便』のキキが黒猫・ジジと会話できるということと同様の発想だ。そしてその能力は、通過儀礼期間の終了に伴い、失われる。成長とは喪失であり、古い自分の死でもある。

 本作の白眉は、おっこの成長がある種の「無私」的な価値観とともに描かれる点だ。関織子と本名を呼ばれた時におっこは、自分は春の屋の若おかみだと主張する。自分ではない何者かになることで、彼女は喪失を受け入れ成長する。自己の固有性を捨て去り(本名を呼ばれて「いいえ」と返す)、所属にアイデンティティを委ねる(春の屋の若おかみ)のは、むしろ自分を見失う愚かな選択だと思う人もいるかもしれない。

 この点については、高坂監督が公式サイトで明瞭に語っている。

「この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある」

 仏教には無我の境地というものがある。人はたいてい自己意識や自由意志が存在すると思っているが、それらは全て実体のない錯覚に過ぎない。自己や我の意識はかえって束縛であり、それから自由になることこそ、人間の本質に近づくことである。

「私は春の屋の若おかみですから」

 なんてことのないシンプルな台詞である。しかしこの台詞の含蓄はとてつもなく深い。この台詞は、おっこが両親の死という大きな喪失を乗り越えたことの証でもあり、同時に自己意識という束縛から逃れた瞬間でもある。さらにそれが私欲を捨ててお客様のために尽くす、旅館の仕事として提示されることで、「無私」の精神をも描いている。無私とは我欲を捨てた状態のことで、他者を判断する際の私的な基準を配して他者と接することができる状態を指す。映画の序盤、おっこの祖母が、「普通のお客さんがいい」と不満を漏らすおっこに対して、普通なんて曖昧な基準で人を測るなと諭すシーンがある。「普通」などというひどく個人的な基準では、他者の苦しみを推し量ることなどできない。おっこは、祖母の言ったことの本当の意味に、最後にたどり着いているのだ。

 あらゆる生命を慈しむことの大切を知った時、人は本当に優しくなれる。生命の尊さを描いた映画は多々あれど、これほどの深度で、この軽やかさで描いた映画はそうそうない。高坂希太郎監督は本当にすごい仕事をした。 (杉本 穂高)

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