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チェット・ベイカーの“愚かな魂”の深淵 『マイ・フーリッシュ・ハート』が湛える“音楽そのもの”の魅力

リアルサウンド

19/11/7(木) 16:00

 「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」――この映画を観たあと、ふと頭に浮かんできたのは、意外にもそんなニーチェの有名な言葉だった。言わずと知れたジャズ界のレジェンド、チェット・ベイカー。その“最期”に焦点を当てたオランダ映画『マイ・フーリッシュ・ハート』(2018年)。それは、毀誉褒貶の激しいチェットの生涯を描いた“伝記映画”ではなく、その“最期”へと至る数日間を描き出すことによって、現在もなお人々を魅了してやまないチェット・ベイカーというミュージシャンの“愚かな魂”の深淵をのぞき込むような、そんな一本となっている。

参考:『マイ・フーリッシュ・ハート』にピーター・バラカン、片寄明人、澤部渡ら著名人が絶賛コメント

 1950年代、マイルス・デイヴィスと並び称される清冽なトランペットの音色と、“天使の歌声”と言われた中性的で柔らかなヴォーカル、そして“ジャズ界のジェームズ・ディーン”の異名を持つ端正なルックスによって、一世を風靡したチェット・ベイカー。しかし、その後程なく、ドラッグ依存によって心身を蝕まれ、一時は再起不能とまで言われたのは、周知の通りである。そして、薬物依存の治療を経た1973年、彼はディジー・ガレスピーの計らいによって、ニューヨークで再び表舞台に返り咲く。ちなみに、イーサン・ホークがチェットを演じ、2016年に日本でも公開された映画『ブルーに生まれついて』(2015年)は、どん底の状態から復活を遂げた、このあたりのいきさつを描いた映画になっていた。

 しかし、チェットの物語は、そこで終わらない。その後、ヨーロッパに拠点を移した彼は、依然としてドラッグにまつわる数々のトラブルを起こしつつも1986年、初めて日本を訪れ、奇跡の来日公演を行うのだ。かくして再び注目を集めるようになったチェットだが、写真家ブルース・ウェーバーによるドキュメンタリー映画『レッツ・ゲット・ロスト』(1988年)の制作が進められるなか、その完成を待つことなく1988年5月、オランダ、アムステルダムのホテルの2階の窓から転落して、謎の死を遂げるのだった。それが自殺なのか事故なのか……あるいは他殺なのか。その真相は、いまだ明らかにされていない。映画『マイ・フーリッシュ・ハート』は、まさしくこの瞬間から物語がスタートするのだ。

 「この物語は実際の出来事から着想を得たフィクションです」という但し書きが画面に現れたのちに始まる長いモノローグ。「ブルースは俺たちの人生のまさに一部だ。ブルースなくしては生きられない。ブルースがなかったら何にすがればいい?」、「誰しも問題を抱えている。問題がなくならない限り、ブルースも死なない」。舞台は1988年5月13日、アムステルダム。地元の刑事ルーカスは、深夜に起きたある事件の現場を訪れる。頭から血を流して路上に倒れている初老の男。その身元は不明だ。そして、ふと見上げたホテルの窓に一瞬映った怪しい人影。しかし、ホテルの部屋には誰もいない。無造作に置かれたドラッグ関連の器具と、床に投げ出されたトランペット。「ただのジャンキーよ」。現場検証に訪れた制服警官が言う。そして翌朝のラジオでルーカスは、転落した男が著名なミュージシャン、チェット・ベイカーであることを知るのだった。

 かくして事件の捜査を進めるルーカスは、チェットのマネージャーを務めていたピーター、チェットと親密な関係だったフィールグッド医師、チェットのルームメイトであったサイモンなど関係者たちの聞き込みを続けるなかで、事件の数日前にチェットのもとを去った恋人、サラの存在を知ることになる。彼らの回想によって描き出される、在りし日のチェットの姿。それは、気分屋で気難しく、ドラッグに耽溺しながら、ときには暴力も振るう、ろくでもない男の姿だった。けれども、ひとたびトランペットを吹けば、周囲の者をうっとりさせるような音色を響かせ、ひとたびマイクに向かえば、そのロマンティックな歌声で人々を魅了する男、チェット・ベイカー。いつしかルーカスは、事件の真相以上に、天使と悪魔の両面を持つ、彼の“愚かな魂”の在り方に強く惹きつけられてゆくのだった。

 チェットの心を覆っていた“虚無”とは何だったのか。そして、彼の音楽の中心にある“ブルース”とは、果たして何を意味するのか。その探求はやがて、妻に振るった暴力によって現在別居中どころか、傷害罪で訴えられようとしているルーカス自身の“愚かな魂”と、静かに共鳴してゆくのだった。チェットが奏でる、悪魔的に美しい音楽の調べと共に。それはまさしく、深淵をのぞき込もうとするものが、自らの内面に広がる深い闇に取り込まれていくかのようだった。どこまでがルーカスの現実で、どこからが彼の幻想なのかわからない、不思議な質感を湛えた映像世界。そして、チェットの混乱する内面と激しく共鳴しながら、夜の街を彷徨するルーカスが、その最後に見た光景とは?

 本作の監督を務めたのは、オランダの新鋭、ロルフ・ヴァン・アイクだ。アムステルダムで映画を学んだ彼は、世界的なミュージシャンでありながら、自身がよく知るこのアムステルダムの地で不可解な最期を遂げたチェット・ベイカーという人物に、かねてより大きな興味を持っていたという。その伝記本や数々の記事を読み込むことはもちろん、生前の彼を知る人々に何度もインタビューを試みながら、本作を撮るためのリサーチに、実に3年もの月日を費やしたというヴァン・アイク監督。本作の“ナラティブ”であるルーカス刑事とは、チェットの音楽とその生涯についてはもとより、かの地に生きる者として、その“最期”に何よりも強く惹きつけられた、監督自身の姿を反映したものなのだろう。そう、この映画は、死後30年を経た今もなお、世界中の人々を惹きつけてやまないチェット・ベイカーというミュージシャンの“深淵にあるもの”を、現在に生きる我々の視点によって探求し、フィクションを交えながらそれを再構築しようとする、実に意欲的な作品なのだ。

 それは、本作でチェットを演じているスティーヴ・ウォールが実際に活躍するミュージシャンであり、チェットを意識しつつも、そのくたびれた見た目からは想像のつかないソフトで甘いヴォーカルを自ら披露していることも、大いに関係しているのだろう。アウトテイクに至るまで、膨大な数が残されているチェットの音源をそのまま使用するのではなく、主演のスティーヴ・ウォールが自ら歌い、そのトランペットの音色はルード・ブレールス、ピアノはカレル・ボエリー、ギターはマルティン・ヴァン・デール・グリテンという現在のジャズの第一線で活躍する“オランダ人トリオ”が、映画のなかで実際にチェット・ベイカーの楽曲を奏でているのだ。

 監督も含めた彼らが、それぞれのやりかたでのぞき込み、表現するチェット・ベイカーの“深淵”とは、どんなものなのか。いずれにせよそれは、こちらも思わず見入ってしまい、じっと耳を澄ませてしまうような、抗い難い“音楽そのもの”の魅力を、間違いなく湛えているのだった。そして、映画を観終えたあと、深い余韻と共に、本作の冒頭に置かれたチェットの長いモノローグが、よりいっそう強い説得力をもって、観る者の心に押し迫ってくるのだ。そう、「誰しも問題を抱えている。問題がなくならない限り、ブルースも死なない」──確かに、その通りなのだろう。こうしてチェットの音楽は、かつても今もこれからも、人々の心の奥底にある“愚かな魂”と共鳴し、甘美なハーモニーを奏でてゆくのだろう。(麦倉正樹)

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