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黒沢清、10人の映画監督を語る

エドワード・ヤン

全11回

第8回

18/8/23(木)

90年代、台湾映画から受けた衝撃

 エドワード・ヤンは、自分が映画を撮る上でとても強く影響を受けた監督でした。前回のゴダールの話にも関係してきますが、80年代に入ってから、とにかく日本映画の画面はダメだと思っていました。昔はよかったんですけどね。昔というのは60年代などがそうですが、ある時期から映像的に全然ダメになってしまって。70年代を経て80年代になると、日本映画の映像的な魅力はもう全く感じられなくなっていました。

 僕が商業映画を撮り始めた頃も、画面のクオリティ――美しい画面というのはどうやって撮ればいいのかを苦心していた時代です。当時はフィルムですから、照明を焚かないと何も映らない上に、放っておくとすぐに汚いブルーがかった映像になってしまい、何とかして西洋の絵画のような(それもえらくステレオタイプな基準ですが)画面に近づきたいと様々苦心していました。

 テオ・アンゲロプロスやゴダールはもちろんですが、ヨーロッパ映画を観ると映像的には素晴らしいと素直に思いました。どうしたらあんな風な画面になるんだろうと。有名なヴィットリオ・ストラーロやネストル・アルメンドロスはもちろん、スコセッシ作品のミヒャエル・バルハウスやマイケル・マン作品のダンテ・スピノッティなど、ヨーロッパの撮影監督がハリウッドに呼ばれるようになって、その流れは未だに続いていますね。思い起こせばリチャード・フライシャーも『ラスト・ラン/殺しの一匹狼』という映画ではスヴェン・ニクヴィストという、スウェーデンのイングマール・ベルイマンの撮影監督を起用していました。

 こういうヨーロッパ映画のような映像は、日本ではどうやってもできない。理由は、建物が違う、たぶん空気も違う、生えている植物が違う、写っている人間の顔がまるで違う。そうなると、もう絶対にアジアでは不可能なことだと思っていました。そうやってほぼ諦めていた時に、90年代に入った頃ですが、突然エドワード・ヤンが出てきたんですよ。侯孝賢もそうでしたが、台湾映画は本当に衝撃を受けました。

 エドワード・ヤンで最初に観たのが『牯嶺街少年殺人事件』ですね。ひとことで言うと、「なんと!アジアでもできるんだ」と。ほとんど日本人と変わらない顔つきや、植物、家もほとんど日本家屋と変わらないような場所を使って、ヨーロッパ映画を上回るような画面が撮れるんだというのを目の当たりにしました。

 その後、日本でも『エドワード・ヤンの恋愛時代』『カップルズ』『ヤンヤン 夏の思い出』などが公開されましたが、僕なんかが90年代にVシネマを撮っていた頃に公開された『エドワード・ヤンの恋愛時代』や『カップルズ』は、全く普通の街中で語られる現代の物語なので、自分が撮っているものと、ほとんど変わらない中でこんなすごい画面を撮っている。凝った面白い長回しとカメラアングルが東アジアの街中でできちゃうんだっていうことに、ものすごく勇気づけられました。ですから、僕が作った『勝手にしやがれ!!』シリーズなどのVシネマを細かく見ていくと、いたるところにエドワード・ヤンのモノマネが出てきます。恥ずかしいぐらい真似をしていました。

 いっぽうでヨーロッパ映画の画面というのは、80年代に非常に美しい絵画的なものを目指しすぎた反動なのかもしれませんが、90年代になると、さほど美しいものではなくなっていきました。それこそラース・フォン・トリアーとかは、ほとんど手持ちのビデオカメラを使ったりしているんですが、デジタルの登場と重なるように、本当にいい加減な映像だけで作っていくようになりました。もちろんライトも焚いていないし、色彩のことも全く考えていないように見える。これが新しい映像だという風に90年代の後半からよりはっきりしてきました。こういうのに較べると、70年代の深作欣二の手持ちカメラが、何とダイナミックで美しかったことかと思い出されます。ヨーロッパ映画はどんどんそっちに行ってしまった中で、ハリウッドは相変わらずではあったんですが、それはちょっとVシネマの実作とはかけ離れていて、エドワード・ヤンに代表される本当にクオリティの高いアジア映画が、今我々が目指す映像としては世界最高峰だと思いました。

恥ずかしいぐらいエドワード・ヤンをやろうとした

 もちろん、それこそテオ・アンゲロプロスや、スピルバーグとか色んなものを無邪気に目指してはいたんですが。具体的に露骨に真似していたのは、実はエドワード・ヤンでした。それは同じアジアだからなんですけど。エドワード・ヤンのようにやれないものだろうかと色々試行錯誤するためにも、Vシネマをたくさん撮った意味があったなと思えます。

 自分のフィルモグラフィーの中では、Vシネマではない『CURE』『カリスマ』でも、映像は恥ずかしいぐらいエドワード・ヤンをやろうとしたものです。特に『ニンゲン合格』は、物語は『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』からインスパイアされているんですが、映像は露骨にそうですね。具体的にいうと日本家屋の狭い室内をどう撮るかということなんですが、60年代までの日本映画は、セットを組んで撮っていたので自由自在にカメラが置けたんですけど、70年代以降は日本家屋を撮ろうとしたらロケーションで既存の建物を借りて撮るので、狭いんです。どうしてもアップのサイズになるか、すごい広角レンズを使わないと日本の狭い室内はちゃんと撮れないとみんな思い込んでいたんです

 ところがエドワード・ヤンは、窓の外にカメラを置けばいいじゃないかって撮っているんですね。あるいは、もうひとつ別の部屋から襖越しに撮ればいいじゃないかっていうようなことをやってみせたんです。手前に障害物は出てきますけど、窓の外とか隣の部屋とか、あるいは押し入れの中とかですね。そういうアングルを探せば、昔のスタジオ時代にセットで撮ったのと、そんなに変わらない。無理やり広角レンズを使ったり、無理やり人間に近寄る必要がない適切なアングルから映画を撮れる。こうすれば素晴らしいアングルが見つかるっていうのがエドワード・ヤンの一番の教えでした。そうか、そうだよなっていう。それ以降僕は今日に至るまで、日本の建売住宅の中で撮影することが多いんですが、大抵窓の外や隣の部屋とか、そういうところにカメラを置いて撮ることが多いです。

 ただ、本当に作品が少ないですよね。初期の『恐怖分子』も後から日本で公開されましたが、それ以降だと『牯嶺街少年殺人事件』をあわせても4本しかないんですね。若くして死んでしまったので、このあと生きていたらどうしていたのか……。二度ほど会ったことはあるんですが、トビー・フーパーのように深く話し込んだわけではなく、撮影現場ではものすごく怖いとかいう話を聞きますが、パーティみたいな席で立ち話をした程度でしたが、非常にソフトな感じのいい方でした。

 『牯嶺街少年殺人事件』は、このあいだリバイバル上映された時に久々に見直しましたが、自分が露骨に影響受けてるんだなっていうのを嫌になるぐらい感じました。今でも、映画の映像はこうあるべきだと確信しているその具体的なおおもとはここから来ているんだっていう。分かってはいたんですが、改めてそれを認識しましたね。


(取材・構成:モルモット吉田/写真撮影:池村隆司)

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