Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

ぴあ

いま、最高の一本に出会える

元ビーイング名物プロデューサー中島正雄が語る「パクり」のクリエイティブ論

リアルサウンド

19/7/17(水) 12:00

 B’zやZARD、大黒摩季など数々のヒットアーティストの作品を世に送り出してきたビーイングのミュージシャン/音楽プロデューサーだったマリオ中島こと中島正雄が、定年を迎える層に向けた「定年後の遊び方指南」本、『定年クリエイティブーリタイア後の創作活動で後悔のない人生をー』を上梓した。太田裕美のバックバンドのギタリストとしてキャリアをスタートし、1978年からは音楽制作会社ビーイングの社員として型破りな音楽制作を行ってきた中島が、いかにしてクリエイティブな余生を過ごすかを、その心構えや具体的な方法論とともに解説する本書は、「人生100年時代」といわれる今、一読の価値があるといえそうだ。

 本書の中でも特に目を引くのは、『「パクる」ことから始めよう』という章。創作において、ネガティブなイメージを抱かれがちな「パクり」をあえて勧めることの真意とは、一体いかなるものなのか。また、本書で中島が提言する作品/アーティストの「絶対評価」と「相対評価」とは、どのような価値基準なのか。CDバブル時代に100万枚を超えるセールスを数多く経験してきた中島ならではの、ユニークなクリエイティブ論に迫りたい。(編集部)

「オリジナリティは完璧なコピーの後にできる」

――同書の中で特に印象的だったのが、『「パクる」ことから始めてみよう』という章です。ここに中島さんのクリエイティブに関する考え方の核があると感じました。

中島:本書はもともと、世の中の創作されたものの中に「パクり」ではないものはない、との発想から始まっています。例えば人間は生まれてから、言葉を覚えるにしても何をするにしても、まずはマネから入るわけです。まったく何もない中で人間は育たないし、コンピューターと同じで、“インプット”しないと“アウトプット”できないのは当然のことで。オリジナリティという言葉に対して、幻想を抱いている方は少なくないと思うんですけれど、その人独自の表現というのは、過去の表現を完璧にコピーできるようになって、その上に初めて成り立つものだと思うんです。今、何かしらの表現をして活躍している側の人間だって、数多くのパクりの上に成り立っているはずで、だからこそ「パクり」に関してそれほどネガティブに言う必要はないのではないか、というのが僕の考えです。

ーー音楽ビジネスにとって著作権は非常に重要な要素ですが、そこはどう考えますか。

中島:僕自身がJASRACの会員ですし、長らく著作権や著作隣接権と向き合ってきた人間です。だからこそ思うのは、音楽出版という制度は生まれてから300〜400年経っていて、世の中の変化ともに変わってきたものなので、今の時代に合わせて修正が必要だということです。もちろん、この制度には良いところもたくさんあるのですが、今の音楽業界は、自ら詩や曲を書いたり演奏したりしていない人にどうやってお金を配分するかというところが上手くできていて、肝心のミュージシャンなどへの配分が少ないんです。その一方で、別に良いんじゃないの?というところで著作権が発生したりしていて。例えば今、ユーミンが発表した曲を自分が演奏して歌ったり、ライブハウスで若手バンドがカバーを演奏したりすることに対してまで、著作権を主張したりするのは違うんじゃないかなと、僕は考えています。料理のレシピには基本的に著作権はなくて、誰が作っても自由じゃないですか? カバーに関しては、それくらいの感覚で良いのではないかと。そもそも音楽だって「パクリ」なしには生まれないのだから。

――その考えは長年、音楽業界にいて強くなっていったのですか?

中島:僕はもともとミュージシャンですからね。「パクリ」というと語弊があるかもしれないけれど、過去の音楽に学んで色々と演奏してきたわけで。だからこそ、著作権にうるさいミュージシャンには「自分を棚に上げてなに言ってるんだよ」と思っていました(笑)。

ーー過去の音楽を参照するにあたって、中島さんが意識していることはありますか?

中島:音楽はすべからくダンスをするためにある、ということですね。それはジャズでもクラシックでも、ゆったりとしたバラードでも一緒です。ダンスをするために音楽があるという前提で「パクる」ことを考えると、人気がある楽曲のリズムパターンを模倣するのが一番良いです。ポップスでいうと、コード進行なんかもそう。人が好むパターンというのがあるので、それをまずは完璧にコピーして、そこに一捻りを加える。例えば去年バカ売れしたDA PUMPの「U.S.A.」は、1992年にリリースされたイタリア人歌手ジョー・イエローのカバーでユーロビートじゃないですか。でも、今のサウンドとダンスでやるとかえって新鮮というか、おもしろおかしいし、パッと身体が動いてしまうようなキャッチーさがある。バカバカしく思えるかもしれないけれど、ヒット曲にはあれが必要なんですよね。特に、これからデビューして世の中にバーンと出ていこうとするアーティストは、一定のリズムで押していくことを意識すると良いと思います。

「ミュージシャンもスタッフも、環境が育てる」

――ビーイングが成功した最大の要因は何だと思いますか?

中島:ビーイングが上手くいった最大の理由は、会社を始めた頃、僕らが原盤権とか出版権を含めて音楽ビジネス全般について「何も知らなかった」からですね(笑)。何にどれくらいのお金がかかるのか、全然知らないからこそ、他の音楽事務所とは違うやり方に見えたというか。例えば収録ものの音楽番組に誰かが出たとき、本番撮り終わったあとに「すみません! サビのところでボーカル低くなったんで、もう1回お願いします!」と言うじゃないですか? それは何も知らないから言えることで、5分の曲でも撮り直すと30分はかかるし、そうなるとスタッフの半数はタクシーで帰さないといけない。イントロのドライアイスも1回10万円かかる。もし知っていたら「もう1回」なんて言えないですよ(笑)。でも、大したことじゃない程度のことでもこだわって「もう1回」と言うと、番組のプロデューサーとかは、「こいつらは音楽に真剣で、純粋に言ってるな」と感じてくれて、「わかった、やろう」となるんです。そういう風にして生まれる雰囲気が番組にとっても、ミュージシャンにとっても良かったんですよね。だからビーイングがうまくいった最大の理由は「知らなかった」から。

――知らなかったからこそ、大胆なチャレンジが次々とできたわけですね。

中島:しかもビーイングには、そういう大胆な発想を形にするだけの実行力があったんです。ビーイングは、音楽プロデューサーの元祖みたいな人物である長戸大幸さんが理想を抱いて始めた会社で、みんなで「これを今すぐ、こうやろう!」と考えたときに、彼はすぐにスタッフとかアレンジャーとか、スタジオのエンジニアとかも含めて実行部隊を用意できたんです。もし長戸さんがいなければ、数々のアイデアも机上の空論で終わっていたはず。

ーー長戸さんはどのようにして実行部隊を作り上げたのでしょうか。

中島:長戸さんはビーイングの唯一の営業マンだったのですが、打ち合わせで「長戸さん、こういう感じの曲がちょうど欲しかったんだよね」とか、「ここがちょっと穴あいちゃって、こういう曲ないかな?」というのに対して、「ちょうどいいのありますよ!」と言って、ただで受注してしまう人だったんです。それで僕に対して「中島、明日の昼までにこういうの作んなきゃいけないんだよ」って。本当はないのに「ある」というから、嘘にならないように必死で人をかき集めてなんとか注文通りに作り上げるわけです(笑)。つまり、僕は長戸さんの実行部隊の一人だったわけですね。そうこうしているうちに色んなスタッフが集まって、本当になんでもすぐできるようになって、タイアップもどんどん決まっていったんです。

――海外のレーベルでいうと、モータウンは自社にミュージシャンや編曲家をたくさん抱えて、次々と作品をリリースできる体制を整えていました。日本でそういったシステムを築いたのは、ビーイングが初めてかもしれませんね。

中島:そうかもしれないですね。僕らの場合は、音楽ビジネスについて何も知らないから、最初に「バードマンスタジオ」という音楽スタジオを作ったんです。80年代の後半でしたね。でも、毎日スタジオが埋まるようにスケジュールを入れても全然元が取れなくて(笑)。計算したら、1日10時間みっちり埋まっていないといけない。だったら自分達で音源を作って、レコード会社に買ってもらおうということになったんです。順番がめちゃくちゃだったから、結果的に音楽制作に関するすべてを自社で整えることになって、それが独自のシステムになっていきました。長戸さんが新しく何かを受注して、それをなんとか実現しようと四苦八苦するうちに、形になっていったのです。

――そのようなシステムから、B’zやZARD、大黒摩季さんのようなスター性のあるアーティストが育った理由はなんでしょう?

中島:ビーイングが作り出した“環境”が良かったのだと思います。僕は、人は環境で決まると考えていて。例えば日本人の両親から生まれた赤ん坊でも、ニューヨークの孤児院にぽんと預けてそれっきりだったら、英語しかしゃべれないし、逆もそうです。つまり人間は環境によって育つわけです。ビーイングは自分たちで何もかもやっていたので、「みんなで作る」のが当たり前の環境になっていました。

ーーそれで歌詞も書けて、曲も作れるようになっていくと。

中島:「みんなで一緒にやろう!」という感じでスタートするので、もともと歌詞を書いたことがない人も、作曲をしたことがない人も、制作に携わることになる。B’zの稲葉浩志も、最初は歌詞を書いていなかったのが、必要に迫られて書くようになって、結果が伴っていきました。つまり、才能を見抜いてどうのということではなくて、良い環境の中で上手くやっていくかどうかなんですよ。ただ、「馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ますことはできない」ということわざがあるように、良い環境があってもそこからどうすれば伸びるかは、人それぞれで一概には言えません。当然、そういうことに興味を持ちきれない人は、他のところに行く。ミュージシャンもスタッフも、みんな環境の中で育っていきましたね。

ーー教育方針などはありましたか?

中島:教育方針に関しては、僕はプロデューサーで人の作ったものにケチを付けるのが仕事なのですが、最低限、「あんたには言われたくないよ」と思われる存在にはならないように気を付けていました。「ちきしょう、中島に言われるなら作り直そう!」と思ってもらえたら、ほぼ100%の確率で前回より良いものが仕上がってきます。そして、もし良いものが仕上げってきても、安易に「おお、良いね!」とは言わない。そこで「もっと良くなるんじゃないの?」と言うことで、作り手はさらに先を考えるようになるのかなと。「あんたには言われたくないよ」と思われないようにするためには、しょっちゅう飯を奢るとか、たまには「なるほど」と思うことを提案してあげるとか、ちょっとしたことでも色んな方法があると思います。

「歌が上手いからといって売れるわけではない」

――本書で中島さんは、ポップミュージックの評価について「絶対評価」と「相対評価」があると書いていました。この価値基準についても、改めて教えてください。

中島:例えば新人のアイドルの女の子がいたとして、すごく下手で音程も悪いとするじゃないですか。それで「プロなのにこんなに下手くそなのか?」と顔を見てみたら、ものすごく可愛くて、「これだけ可愛いのなら許せるな」となる。歌の上手い下手、音楽的な価値基準が「絶対評価」だとすると、この「許せるな」という感覚が「相対評価」だと考えています。お客さんがポップミュージックに求めるものには、「感動したい」という気持ちと「正義感を満たしたい」というふたつの気持ちがあって、お客さんの「正義感を満たしたい」に訴求するのは、実は相対評価の部分が大きかったりするんです。ミュージシャンは若い方が有利なのは、「この年齢でこのテクニックはすごい」という相対評価が働きやすいからで、そこに「よし、俺が応援してあげよう」という正義感が発生する。この相対評価を意識するかどうか、言い換えると自分を客観視できているかどうかが、ミュージシャンにとってはとても重要です。

――ギターがすごく上手いのに売れないと悩んでいるミュージシャンは、相対評価を加味していない、ということですね。

中島:しっかり売れて、ちゃんと残っていくアーティストは、本当に自分たちを客観視ができていると思います。B’zはそのいちばん良い例です。「10代でこれができるのはすごい」があるなら、「40代でこれはすごい」もあるはずで、その相対評価を踏まえた活動ができています。僕もそうだけど、自分のことはわからないんですよ。そして、人から自分のことを色々と言われるのはみんな嫌なんです。だから、嫌なことをちゃんと言ってくれて、かつ信用できる人間が周りにいるのが大切です。良いことを言ってくれる人はたくさんいるけれど、それだけだと伸び代がなくなってしまう。でも、嫌なことを言われて、悔しいけれど図星かもしれないと、自分を客観視して改善しようとなれば、その人はどんどん伸びていく可能性がある。ビーイングなんて、嫌なことを言う人間ばかりが集まった集団でしたから(笑)。

――ビーイングは、それで実際に結果を出してきたわけですね。さて、中島さんはそんなビーイングを退社後、2002年に日本コロムビアの代表取締役社長に就任するわけですが、その頃に音楽業界のCD全盛期は終わりを迎えました。時代の変化をどう捉えていましたか?

中島:コロムビアに移った次の年かな? 2003年に新星堂、タワーレコード、山野楽器などの代表の方々と20人くらいでツアーを組んで、ニューヨークに行ったんですよ。それでソーホーにできたApple StoreでiPodを見てビックリして。「CD売ってる場合じゃない、これはやばい!」と。アメリカはすぐにデータで音楽を聴く時代になりました。日本はその後、データの時代に移り変わるまでに少し時間はかかりましたが、結局はたかだか10数年で音楽業界のあり方が大きく変わりました。今はCDの売り上げで考えると、レコード会社にとっては大変な時代だけれど、やっぱり音楽は生で聴くのが一番だから、ある意味では良い時代になったんじゃないかな。DVDとかBlu-rayでいくら綺麗に撮っても、やはり満足はできない。ビーイングの頃から、ライブの演出にはとにかくこだわってきたから、そこはちゃんと時代に先んじた発信ができていたのかなと思います。

――『定年クリエイティブ』は、そんな中島さんのこれまでの経験を定年世代に向けた指南書としてまとめたものです。今後も何かしらの発信を続ける予定でしょうか?そ

中島:定年世代なので、むしろ発信していかないとと思ってます。加えて、僕に対しても「今はこれがおもしろいよ」という情報を教えて欲しいですね。僕のためにというより、せっかく色々な経験を積んできたので、「面白おじさん」として上手く使って欲しいんです。それと個人的に今、Alrightというブルースバンドをやっていて、日本語でどうブルースを表現するかを模索しています。ステージ上でも「こっち(日本)での生活が長いんで、日本語の方が良いかな」と言っているんですけど(笑)。お客さんも日本人だから、無理して英語で歌うよりも、ダイレクトに日本語で言った方が良いのではないかと考えていて。それが今、だんだん良くなってきています。ドラムもベースも完全にプロだから、みんな上手いんですよ。そのバンドはまさに僕にとっての「定年クリエイティブ」で、これはこれとしてちゃんと成立するように色々考えています。もし僕らのバンドにも「ネットを使ってこういうことをしたらおもしろいよ」などのアイデアがありましたら、ぜひ教えてほしいです。

(取材・構成=編集部)

◼️プロフィール
1953年東京生まれ。学生時代はクラブ活動において音楽業界の実地訓練のような日々を送る。 歳の頃には渡辺プロからデビューした太田裕美のバックバンドを担当。1976年、京都のウエストロードブルースバンドに加入。1978年、音楽プロデューサー長戸大幸氏率いる、音楽制作会社ビーイングに入社し、制作・マネジメントに携わり、数々のヒット作品、ビッグアーティストに関わる(TUBE、LOUDNESS、B’z、大黒摩季、ZARD、 WANDS、T―BOLAN、DEEN等々)。2002年、日本コロムビア株式会社代表取締役社長に 就任。一青窈、平原綾香、木村カエラを手掛ける。 現在、マリオマネジメント株式会社社長として、新 人の育成、経営コンサルティング、講演会等を行っ ている。また「マリオ中島」と名乗り、「Alright」 というブルースバンドを主宰し、ライブ活動を行なっている。

◼️リリース情報
『定年クリエイティブ定年クリエイティブーリタイア後の創作活動で後悔のない人生をー』
発売中
定価:950円(税込)
発行:ワニ・プラス
発売:ワニブックス

アプリで読む