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映画『キャッツ』の悪評は妥当なのか? 小野寺系が作品の真価を問う

リアルサウンド

20/1/27(月) 12:00

 猫を題材としたT・S・エリオットの詩集を基に、数々のヒットミュージカルを手がけている、アンドリュー・ロイド=ウェバーが曲をつけ、何度も上演されてきたミュージカル舞台『キャッツ』。その映画版がついに公開された。

参考:『キャッツ』メイキング映像公開 プロダンサーと俳優陣がしのぎを削る舞台裏が明らかに

 しかし本作は、登場するキャラクターたちの外見の奇妙さなどを理由に、アメリカの一部批評家の批判を契機として、日本でもインターネットを中心に、悪評にさらされているのは周知の通りだ。

 本作の監督は、アカデミー賞監督賞の受賞経験があり、同じく人気ミュージカルを映画化した『レ・ミゼラブル』を撮っているトム・フーパー監督。オリジナル作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーをスタッフにくわえ、世界的バレエダンサーのフランチェスカ・ヘイワード、さらにアーティストのテイラー・スウィフトや、ジェニファー・ハドソン、ジュディ・デンチ、イドリス・エルバ、イアン・マッケランなどなど、おそろしく豪華な布陣で臨んだ作品だ。そんな本作が、なぜこのようなことになってしまったのだろうか。

 ここではそんな騒動の起こった理由と、逆にそこから離れた、本作の映画としての内容を、できるだけ深く考えていきたい。

 映画公開前、予告編や写真が衆目にさらされ騒然としたのは、猫を演じるキャストたちの、CGを駆使した見た目の奇妙さだった。舞台版に比べて毛が薄く、裸のようにボディラインが見えてしまうところや、頭部が小さく感じるプロポーション、そして人間そのものの顔……。私自身、なぜこのような見た目になってしまったのか、疑問に感じたのは確かだった。

 だが、実際に作品を観ることで、その疑問の多くは、ある程度解消されることになった。フランチェスカ・ヘイワードをはじめとする、キャストたちのダンスシーンをはっきりと見せるためには、身体のラインが見えていた方がいいし、トム・フーパーが『レ・ミゼラブル』で行ったように、キャストの顔の表情に迫っていく演出をするためには、人間そのものの顔である方が感情が伝わりやすい。つまり、本作の“猫人間”の容姿には、そうなるだけの理由があったのだ。

 もちろん、それが無視できない数の人々の生理的嫌悪を引き起こすものであったことは、作り手側の工夫に落ち度があったということだろう。しかし、理由が分かった上で観れば、そこまで騒ぎ立てるような性質のものではないというのも明らかなのではないか。むしろ、あまりに毛が多く、さらにグラムロック風の、時代を感じる見た目だった舞台版と比べると、いくつもの点で映画版の良さが発揮できているとさえ思う。

 このように考えると、奇異な面を大げさにあげつらうだけの意見は、作品の内容と見た目の関係を無視し、作り手の工夫をわざと、もしくは無意識に曲解しようとしているように思える。もちろん、映画をどのように楽しむのかは、人それぞれ自由ではあるし、作者の意図と異なる部分を指摘する面白さも存在するはずだ。しかし、“笑いもの”にするには、本作は良いところが少なくないのだ。

 事態を複雑にしているのは、本作の悪評には「ストーリー性が希薄」だという反応もあるということだ。それが、異質な見た目とあいまって、ひどい映画だという結論に導かれることになってしまったのかもしれない。だが、そもそも、『キャッツ』という舞台作品自体が、そういう面を持ったものなのである。

 本作のストーリーは、ロンドンの片隅のゴミ捨て場に住む、自由な野良猫たち“ジェリクルキャッツ”の抗争の行方と、長老猫が天上へと昇る一匹を決めるといった、ファンタジー色の強い独特なもの。人気の舞台だからと、『キャッツ』の舞台を観た観客が、「良さが分からなかった」と語るケースは少なくない。それは、次々にいろいろなジェリクルキャットたちが紹介されていく構成が退屈だと感じてしまうからだろう。そう思うのは、物語には山場が与えられた展開が続き、登場キャラクターはすべて、ドラマを転がすような役割を担うべきだという先入観があるためではないか。

 とくに映画版となると、そのような既成概念は強くなりがちだ。とはいえ、その意味で映画版は、フランチェスカ・ヘイワード演じるヴィクトリアを主人公に据え、彼女の視点を中心とすることで、本作をドラマ性のあるオーソドックスな脚本に近づけるといった工夫が施されている。

 しかし、本作が舞台を基にした『キャッツ』である以上、もともとの魅力を受け継ぐところもなくてはならない。そうなると、観客の側もそれなりの歩み寄りをしなければならなくなる。抽象的な物語を、そのまま抽象的なものとして受け入れたうえで、歌やダンスそのものを、できるだけ純粋に鑑賞する態度が必要になるはずだ。もともと映画という表現媒体は、そのような舞台の価値観をも包含してしまえる、ふところの深いものであるはずだ。

 そして、そもそもの基には、子ども向けの詩集とはいえ、T・S・エリオットの難解な哲学が下敷きになっているのである。それを理解せずに甘く見たまま鑑賞したとしても、誤解が生じたまま評価することになってしまうのではないか。

 さて、それではこれまでの理解を前提に本作を見ると、どうなるのだろうか。まず、トム・フーパー監督の資質から考えていきたい。前述したように、『レ・ミゼラブル』において、顔をアップで撮るという、ミュージカル映画としては異質な演出が、公開時に賛否を呼んだのが印象的だった。だがその特殊な試みがミュージカルへの冒涜的なものだとする意見は、いまではそれほど支配的ではないだろう。『レ・ミゼラブル』は、良い意味でミュージカル映画の枠を壊した部分がある。その意味では、本作もフーパー演出は引き継がれている。

 面白いのは、ロンドンの路地を表現したセットの工夫である。猫の大きさを考えると、セットは相対的に大きく作らなくてはならない。しかし、実際の比率で大きくしてしまうと、今度は背景が引き立たなくなってしまう。顔を大きくとらえるトム・フーパー演出においては、セットを人間と猫のサイズの中間くらいに抑えるのが、ベターな構図を作りやすいのだ。

 このような、映画と舞台における差異において、それを異物のまま表現しているもころと、両者の壁を乗り越えようとする挑戦が、複雑に絡み合っているのが、本作の最も興味深い点である。もちろんそこには、見た目の問題も含まれているだろう。

 だが、『レ・ミゼラブル』と比較したとき、『キャッツ』という題材が足を引っ張っているところもある。ネックとなるのがダンスシーンである。『キャッツ』ではどうしてもダンスを見せることが重要になるため、カメラが引くことも多くなってしまう。そうなるとトム・フーパー監督の特徴が見えづらくなるため、本作は『レ・ミゼラブル』ほどにはフーパーの独自性が突出しているように感じられないところがある。仕方がないとはいえ、それに代わる魅力を創出できていないという点おいては、監督の“引き出しの少なさ”を示しているのかもしれない。

 本作では、様々な猫が現れる抽象的なストーリーから、各々の猫の生き様を描き出している。最後のシークエンスで、“猫は犬にあらず”と宣言されるように、猫は比較的プライドが高く、自立した態度をとる生き物だ。ジェリクルキャッツは、群れに忠誠を誓うような集団ではなく、自分の力と独自の考え方で生きる、それぞれの猫たちが寄り集まった、異端の集団なのである。だから、一匹一匹が魅力的で、個性が光っているのだ。それは、ある種の人間の生き様や美学を暗示しているともいえよう。

 そのなかで、なぜ“あるキャラクター”が天上に昇る資格のある猫として指名されたのか。それは、その猫が、集団のなかで蔑まれていた、やはり異端的な存在だったからだろう。豊かな生活や、道徳からも離れ、貧しく孤独に生きる者。そのなかに誰も犯すことのできない美しさや誇りを秘めている者こそが、ゴミ捨て場のなかで気ままに生きているジェリクルキャッツそのものを体現する存在である。それは、その歌声が誰よりも美しく響いたことが証明している。

 このようなテーマを強調するのが、楽曲「ビューティフル・ゴースト」だ。アンドリュー・ロイド=ウェバーとテイラー・スウィフトが本作のために書き下ろし、劇中でヴィクトリアが歌っている新曲である。それは、ヴィクトリアの孤独に生きる者への優しいまなざしと、人生(猫生)の素晴らしさや美しさを見出すことの重要性を表している。これによって本作の描いた、猫が示す“誇り高く生きる”というメッセージが引き立っているのだ。

 このような点を見ていくと、美点や弱点が混在する本作は、鑑賞者の見方によって評価が大きく左右されることになるだろう。とはいえ総合的には、これを上回る『キャッツ』を作りあげるのは至難の業であることも確かなはずだ。仮にジェリクルキャッツのヴィジュアルをよりナチュラルなものにしたところで、様々な障害がある題材を、前述したような挑戦や工夫を積み上げて、ここまでかたちにしていくのは、かなり厳しいはずだからである。少なくとも、見るべきものがない作品では絶対にない。

 重要なのは、極端な悪評、もしくは絶賛評が出回っていたときに、それを鵜呑みにして強い先入観を持つと、作品への理解を阻害しかねないということである。『キャッツ』は、今回の騒動も含め、その大事なことを教えてくれる映画だといえる。(小野寺系)

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