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大森南朋、長澤まさみが“生きる価値”を訴える 『神の子』が舞台化した、街中から聞こえてくる叫び

リアルサウンド

19/12/27(金) 10:00

 気がつけばこの一年も終わりに向かい、足取りの軽い者、肩を寄せ合う恋人たち、顔に疲労感の滲む者、笑顔で手を取り合う家族……街をゆく人々はさまざまだ。こんな季節に、いや、こんな季節だからこそ、“私たちに生きる価値はあるのか?”と、そう問いかける舞台『神の子』が下北沢・本多劇場にて幕を開けた。

 本作は、田中哲司、大森南朋、赤堀雅秋の3人からなるユニットによって立ち上げられた演劇作品。物語の舞台となるのは、いつも私たちの身近にある街中の、ごくありきたりな場所である。そこで私たちは、ささいな、そして同時に重大な何かを、うっかり見過ごしてもいるかもしれない。本作はそんな街中のあちこちから聞こえてくる“叫び”を、演劇のかたちで昇華させている。

 池田(大森)、五十嵐(田中)、土井(でんでん)の3人は、工事現場の警備員だ。彼らは休日にパチンコに通うのが唯一の楽しみで、スナックで酒を飲み、借金はかさむいっぽうで、煙草を吸うかどうかに葛藤している。そんなある日、池田の前に田畑(長澤まさみ)と斎藤(石橋静河)というふたりの女性が現れ、単調だった日常は少しずつ変容していく……。

【写真】下北の舞台に立つ長澤まさみ

 主演の大森が見せる佇まいには、終始孤独感が漂っている。彼が演じる警備員の池田は街に同化し、ほとんどの人間から気にもとめられず、酔っぱらいのニート男(赤堀)に「道をふさぐ権利が(お前に)あるのか?」と因縁をつけられても、彼はマニュアル通りの応対しかできない。彼は理不尽な扱いにも“いち人間”としてではなく、あくまで仕事中の警備員として対応しなければならないのだ。こういった光景は日常に氾濫している。あらゆるハラスメント問題が騒がれる昨今、それこそ工事現場もそうだが、コンビニやスーパーなどでも多いのではないか。

 ニート男の声が次第に怒声へと変わっていくにつれて、池田のことが不憫に思えて仕方がなく、彼の中に生まれているのであろう心の声を代弁し、思わず客席から怒鳴り返してやりたくなる。「(お前に)そんなことを主張する権利があるのか?」と。この感覚を持ったのは私だけではないだろう。これはこの出来事が、パッケージングされた映像ではなく、実際に“いま”目の前で起こっているからで、観客の感情を喚起させるからだ。そしてそれは私(そして、恐らく多くの方)が、似たような事態に直面したことがあるから。だが、どちらの言い分も分かるような気もする。この舞台では、こんな事象が現在進行形で発生し、観客の前に差し出されることになる。私たちは次々に「理不尽」を目撃し、体感していくことになるのだ。

 本作で大森は“受け”の演技に徹している。彼のガタイの良さも、ふだん映像で見せる存在感も本作では希薄で、つねに愛想笑いを浮かべているだけだ。物語は群像劇とあって多くの人物が登場するが、ドラマは送り手だけでなく、受け手がいないと次なる展開に進めない。同僚を演じる田中、でんでんはもちろんのこと、ほか多くの登場人物のアクションに対するリアクションを、大森は一手に引き受けている。彼が主役として引っ張っているというよりは、みなに押し上げられているような印象だ。ここで感じるのは、他者の存在なしに、自己という存在はないのだろうということである。そしてこの池田は、他者の存在があるからこそ、孤独というものを感じるのだろう。本作ではその事実がより際立ち、大森はそれを体現している。

 そんな大森演じる池田だが、長澤演じる田畑らとの出会いによって、少しずつ変化を見せていく。自ら他者に、ひいては物語(=人生)に、積極的に関わろうとしていくのだ。このヒロインを演じる長澤は、終始人形のような笑顔の貼りついた人間で、人間味といったものを欠いている。彼女の発する言葉は優しいが、どこか機械的で温かみが感じられないのだ。彼女は石橋演じる斎藤たちとともにゴミ拾いのボランティアに精を出しているが、その行為を彼女らは善的なものと信じてやまない。むろん、社会奉仕は素晴らしいことだが、彼女たちの場合はそれが手段ではなく、目的化している。それは社会をより良くする手段ではなく、“善行を積む”という目的なのである。

 池田と田畑は生きる世界のまったく違う人間だが、どちらも生きづらそうに思えて仕方がない。しかし、この二人が出会い、交流していくことで、両者ともが人間らしさを獲得していく。

 ありふれた“日常”を舞台上に乗せるうえで、“見せ物”として成立させるための赤堀作品特有の唐突な“叫び声(=怒鳴り声)”が本作にも見られた。急に大声で怒鳴ったりするのは非現実的な行為に思えるが、彼の作品には、人間の怒りや悲しみが色濃く描かれている。日々の中で誰もがこの感情を押し殺しながら生きているだろう。私たちは彼らに自身を重ね、その“叫び声”に心を同化させることによって発散させるのだ。自己を抑圧すれば、人間らしさは損なわれていく。この演出は“日常”を演劇化するための一つの手法であるのと同時に、“人間らしさ”の表象にもなっている。だからこそ、“生きる価値”についてやがて池田が、そして田畑が、声をつまらせながらも必死に訴え合う姿は人間味に溢れ、胸に迫ってくるのである。

 さて、本作は田中、大森、赤堀たち自らが各俳優への出演オファーをしたそうだが、演技巧者が一堂に会している。とくにスナックのママを演じる江口のりこは絶品だ。だらしない男たちに向かって関西弁でまくし立て、ときに発する悲哀混じりのユーモアは重苦しい展開を救う。長澤の相方役を務めた石橋静河は最年少だが、彼女の持つポテンシャルも最大限に発揮されていた印象。“かつてバレエ少女だったが挫折した”というキャラクター設定に強固なリアリティを与えている。石橋自身も実際にバレエ経験者とあって、ちょっとした所作の美しさが目を引くのだ。彼女たちもまた生きづらさを抱えた人間を演じているが、各々の得意とするところの活きた表現に、「ナイスキャスティング!」と唸ることしきりである。

 本作には「楽園」という印象的な言葉がたびたび登場する。それはパチンコ店の名前であり、また神を信じるものたちが思い描く楽園でもある。街をゆく人々がさまざまなように、彼らの思う楽園もさまざまだ。趣味であるパチンコに、楽園を見出して何が悪いというのだろう。善行を積むことによってやがて楽園にたどり着けることを夢見て、何が悪いというのだろう。

 物語は工事現場にはじまり、工事現場で幕となる。マクロな視点から見れば何も変わっていないように感じるけれど、彼らに寄り添ってみれば明らかな変化を感じる。そんな彼らは、私たちと何か大きな違いがあるだろうか。その問いかけは、果たして“私たちに生きる価値はあるのか?”という問いに帰結するように思う。

 借金まみれの男、何かの教えにすがるしかない女、酔っ払いのニート……すぐそばで見ていれば受け入れることができても、少し離れた異なる共同体から見れば受け入れがたいものもあるかもしれない。しかしみな、等しく人間であり、タイトルの示す通り、等しく「神の子」なのだろう。不器用な彼らだが、彼らには生きる価値がある。そんな彼らとのコミュニケーションをあきらめたくない。そして彼らと同じように、私にも生きる価値があるーーそんなことを思いながら下北沢の街をあとにした。

(折田侑駿)

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