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10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 映画ナタリー編

ナタリー

21/3/11(木) 14:46

「10年前の今日、何をしていましたか? ~ 東日本大震災10年特集 映画ナタリー編」ビジュアル

2011年3月11日の東日本大震災の発生から、本日で10年を迎えた。

国内観測史上最大となったマグニチュード9.0の地震と、あらゆるものを飲み込んだ巨大な津波、そしてそれにより引き起こされた福島での原発事故──ちょうど10年前に発生したこれらの災害は、東日本の太平洋岸一帯に甚大な被害をもたらした。時間の経過とともに人々の関心は徐々に薄れつつあるが、被災地の復興は今もなお道半ばの状況だ。

震災の記憶をこれからも語り継ぐべく、このたび映画ナタリー、音楽ナタリー、コミックナタリー、お笑いナタリー、ステージナタリーは5媒体合同で「10年前の今日、何をしていましたか?」というテーマの横断企画を展開。各ジャンルで、さまざまな人々に地震発生前後の出来事やその後の生活を振り返ってもらう。

映画ナタリーでは、ドキュメンタリー作品を通じて被災地を見つめ続ける小森はるか、監督作に被災地への思いを込める園子温と廣木隆一、子供時代に震災を経験した宮世琉弥と山谷花純に、自ら体験した震災の記憶をつづってもらった。

構成 / 小澤康平、佐藤希

映画ナタリー編

小森はるか / 園子温 / 廣木隆一 / 宮世琉弥 / 山谷花純

音楽ナタリー編

新井ひとみ(東京女子流) / 石田亜佑美(モーニング娘。'21) / 菅真良(ARABAKI PROJECT代表) / 橘花怜(いぎなり東北産) / 本田康祐(OWV)

コミックナタリー編

いがらしみきお / 井上和彦 / ひうらさとる / 菱田正和 / 安野希世乃

お笑いナタリー編

赤プル / あばれる君 / アルコ&ピース平子 / ゴー☆ジャス / レイザーラモンRG

ステージナタリー編

柴幸男 / 長塚圭史 / 萩原宏紀(いわき芸術文化交流館アリオス) / 長谷川洋子 / 横田龍儀

小森はるか

東京に暮らす大学生だったわたしは、喫茶店のアルバイトを辞める前日の勤務中、地震に遭った。夜になると電車が止まって帰れない人たちが続出し、お店は小さな避難所になった。上がっていいよと言われて帰ったが、次の日、結局朝までお店を開けていたという店長の顔を見て、手伝わなかったうしろめたさを抱えながら最後の勤務を終えた。何もすることがなくなり、非常事態であることを更新しつづける情報を、ひたすら追う日々が始まった。なんでもいいから何かしたかったが、自分ではその「何か」が一つも思いつかない。学生なりにも作品をつくるために使っていたビデオカメラと、ニュースで被災地を映しているのも同じくビデオカメラだということに、なぜかすごく戸惑った。自分に何ができるのか、という自問自答を多くの人がしている。バイトを辞めずにいたら、目の前のやるべきことに助けられたかもしれないが、一方で今までと同じように生活や制作をすることにも抵抗があった。そんな時に同級生の瀬尾夏美(現在もともに活動を続けている)から、ボランティアに行ってみないかと誘われ、震災から3週間後に2人で東北へ行くことになる。

“被災地”として名前を知った茨城から青森までの沿岸の町々を、ボランティアをしながら10日間かけて訪れた。津波がまちごと奪い去った惨状以上に、その渦中で続いている一人ひとりの生活があるということこそ、自分の目で見なければ実感できなかった現実だった。“被災地”で出会った人たちは、突然やってきたよそ者をあたたかく、ある意味普通に、迎え入れてくれた。物資を車いっぱい積んで行ったはずが、また来なさい、と逆に物をもらう。家にあがってご飯をいただくこともあり、窓の外には瓦礫が積み重なっている状況だった。笑っている時も、黙り込んでしまう時も同じようにある。そのどちらもが本当のことだった。いろんな場面や感情を切り離すことができない日常を、そのまま忘れずにいたいと思った。ある避難所で出会った方から「カメラを持っているなら代わりに故郷を撮ってきてほしい」と頼まれたのをきっかけに、こっそり持ってきていたビデオカメラを手にした。とても撮ることなどできないと思った風景も、誰かがいつか見たいと思う時がくるかもしれない。出会った人たちの顔を思うと、そんな未来がくるだろうと自然に思えた。今ここにいられない人の代わりに記録をしておく、いつか返せる時まで預かっておく。それが役に立つのかもわからないが、ここに来た自分の役割だと思い込んで撮影を始めた。月に一度は東北へ行くようになり、時間が経つにつれ、通うのではなく暮らしながら記録をしたいという思いに変わっていった。

震災から1年後、瀬尾とともに岩手県陸前高田市の隣町、住田町に引っ越した。陸前高田という町にどっぷりと居させてもらう3年間を過ごした。通っていた頃は個々のお宅に訪問していた中で目にした日常だったが、暮らすという経験は町全体の日常というものを自分自身もその一部になって体感することだった。目には見えないけれど、人々の記憶の中に、風景の中に存在し続けるものがあり、生きている人たちだけではなく、失われたものたちにも営まれていく時間があるのだと知った。10年が経とうとする今、両者のつながりは、変化しつつも途切れることはない。復興工事によって新しくできた風景には、見えないものがあるという手触りさえもなくなったが、それでも町の人たちは、震災前に流れていた時間を現在と並行するように持ち続けている。それが日常になっている。

記録をすることが目的でも役割でもなく、どれだけカメラに映らないものが立ちはだかっても、町の人たちの営んでいく日常が、次にカメラを向ける先を教えてくれる。だからわたしは撮り続けている。これまでいくつかの作品をつくり、遠くの誰かの手に渡っていくという機会にも恵まれた。けれどお返しするという地点には未だ至っていない。それが10年という自分自身の実感だ。だからこそ、もう少し先の未来というものを想像し始めるようになった。きっとこれから出会うものも、失うものもあるだろう。日常の中にある矛盾するような現実が、いつか本当に分からなくなってしまった時がきたら、この記録が土地に返っていくのかもしれない。

プロフィール

小森はるか(コモリハルカ)

1989年静岡県生まれ。映像作家。映画美学校12期フィクション初等科修了。東京藝術大学美術学部先端芸術表現科卒業、同大学院修士課程修了。2011年に、ボランティアとして東北沿岸地域を訪れたことをきっかけに、画家で作家の瀬尾夏美とアートユニット「小森はるか+瀬尾夏美」での活動を開始する。翌2012年、岩手県陸前高田市に拠点を移す。監督作に「息の跡」「空に聞く」がある。瀬尾と共同制作した新作「二重のまち/交代地のうたを編む」が現在東京・ポレポレ東中野、東京都写真美術館ホールで公開されており、特集上映「映像作家・小森はるか作品集 2011-2020」が3月19日までポレポレ東中野で行われる。

特集上映「映像作家・小森はるか作品集 2011-2020」
小森はるかの記事まとめ

園子温

実際のところ、私はあの日、あの時間、特に何も感じなかった。というのも、その日、その時、私は名古屋にいて、名古屋で公開する私の新作の宣伝のためにラジオ番組に出演していたから、ほんの少し揺れたくらいで何か大きな事が起こったとは思えなかった。昨晩、ちょっと飲んだ二日酔いなのかな? それとも疲れからくる目眩?かな、と思った。ラジオ局のスタジオが多少、グラグラしたような気がしたからだけど、すぐに地震だと誰かに教えてもらった。その辺、まったくたいした記憶がない。いつもの、微震と思っていた。それからしばらくして今からやってくる津波の高さが尋常ではないと言っているスタッフの言葉を覚えているが、それもよく意味がわからなかった。

そのまま、ラジオが終わり、すぐ近くの店に入ってコーヒーを飲んでいた。その時も店は静かで、TVもないから、震災の情報も入らず、そのまま夕方になっていた。つまり、同じ本州で起きていた地獄に全く気が付かずに、まったりのんびりとお茶を飲んでいたのだ。

当たり前といえば当たり前だが、同じ時間が流れていたのに、一方では阿鼻叫喚のむごたらしい世界になっていて、もう一方では、その間ゆっくりと茶を飲んでいたのだ。人間とは、一体、何だろう。最近は本当にそう思うようになった。

私の場合、震災による様々な悲劇は、時が経てば経つほどにつらくかなしく、呆然としてしまうくらい重くなってきた。

本当にあんな、ひどい事が起きたのだろうか……いや、私は覚えている。津波の1ヶ月後に現地に立っていた。路上に落ちている家族写真、哀しく横たわる子供用の人形、何だって覚えている。あれは、もうない。全て片付けられた。東京オリンピックを招致する際に、「アンダーコントロール」と言われてしまったあの記憶の上を、聖火が走る。未だ行方不明の人々が埋まっているかもしれない道の上を。果たしてそれでいいのかな?

私は、あの時は「ヒミズ」と「希望の国」という作品の撮影をその年に終え、翌年、公開した。

この2本とは違う視点で「ひそひそ星」というSF映画だが風景は全て震災で被害を受けた場所、という映画を撮った。

出演者の多くが被災地の人々。そして当時、原発で働いていた人々。自分は、あの日「あの時」をまったく「その時」に体験していないのに、10年経った今、ますます「あの時」がスローモーションのようにゆっくりと何度もリピートされるようになってきた。

もし、震災が起きてなかったら、まったく違う人生を生きていたに違いない。死を身近に感じるようになってきた。2年前に心筋梗塞で倒れて、1分間、心臓が止まっていた。その間に、暗い闇の宇宙を漂っていた。「あの日」、亡くなった人々のいる海の近くまで、あとわずかでいけた。

みんな、どうしているのかな。もう、少しは楽になっているのかな。だといいね。でも、やっぱり悲しいね。いつも、とても、悲しいね。

プロフィール

園子温(ソノシオン)

1961年12月18日生まれ、愛知県出身。1987年、「男の花道」でPFFグランプリを受賞。2009年公開の「愛のむきだし」で第59回ベルリン国際映画祭フォーラム部門カリガリ賞・国際批評家連盟賞を受賞したほか、「冷たい熱帯魚」「恋の罪」「ヒミズ」「地獄でなぜ悪い」などで各国の映画賞に輝いた。近年はAmazonの「東京ヴァンパイアホテル」、Netflixの「愛なき森で叫べ」など、配信作品も監督。ニコラス・ケイジを主演に迎えたハリウッドデビュー作「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」が2021年初夏、「エッシャー通りの赤いポスト」が2021年秋に公開される予定だ。

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廣木隆一

10年前の今日、僕は実家がある郡山に向かう新幹線の中にいました。地震発生とともに新幹線は宇都宮を過ぎたあたりで急停車しました。その後、詳しい状況も分からずに夕方まで車内におりました。地震が起きたことは分かっていたのですが、その後の津波の情報は避難した体育館までの道すがらに知りました。原子力発電所が爆発したということも避難所で知り、東京に戻ることも郡山に行くこともできずに一晩を過ごすことになりました。

翌朝、やっと見つけたレンタカー屋さんに頼み込んでたまたま空いていた軽自動車を借りて郡山に向かいました。郡山に向かったのは父親の葬儀、告別式があったからです。一度、葬儀の準備をしに郡山に行き、撮影のために東京に戻り、前日実家へ向かってる途中に地震が起きたんです。車で朝出れば式には間に合うだろうと。ところが地震の凄まじさは郡山へ向かう車の中で実感していきました。高速は通行止めで、一般道路は所々アスファルトがめくり上がり、迂回迂回の連続で到着したのは式の最後でした。安全を考慮して住職・親戚の方々には早々に帰宅してもらっていたところだった。

その後、私は4本の映画で福島のことに触れている。当日のこの出来事もそうだがその後知ることになる事実にうまく自分の気持ちがついていけないのを感じる。そんな時「RIVER」という映画で被災地に行った時の感情が蘇る。撮影の準備をしている時に世間ではこんな時に映画なんてという空気が巻き起こっていて、僕の中でも「そうかも知れない」という気持ちが産まれていた。でも、テレビや新聞などで流れてくる情報でしかなく「実際はどうなんだろう?」という気持ちが強くなり、新しく被災地の映像を入れることにした脚本に書き直し、撮れるかどうかもわからないけどとりあえず行こうと、最小のスタッフと共に向かった。

水浸しになった一面が広がる道路に降り立ったことや瓦礫が散乱した漁港の町、無数に広がる民家、その時の感覚は忘れられない。言葉で言い表すことは難しいと思い僕らは次から次へと撮影した。

「それを見た人たちはどう思うのか?」

その時、僕が実感できたのは「映画はそもそも記録ということもできる。そして、そこに立っている撮影者たちの感情までも映してくれるものなんだ」ということです。

プロフィール

廣木隆一(ヒロキリュウイチ)

1954年1月1日生まれ、福島県出身。1982年に「性虐!女を暴く」で監督デビューし、日活ロマンポルノの映画を手がける。1994年にはサンダンス・インスティテュートの奨学金を獲得して渡米。帰国後に発表した「800 TWO LAP RUNNERS」で文化庁優秀映画賞を受賞した。2003年の「ヴァイブレータ」では第25回ヨコハマ映画祭の作品賞を受賞し、その後も「余命1ヶ月の花嫁」「きいろいゾウ」「さよなら歌舞伎町」「彼女の人生は間違いじゃない」「ここは退屈迎えに来て」など多数の映画で監督を務めた。2021年4月15日には、中村珍によるマンガ「羣青」を映像化したNetflix映画「彼女」が配信される。

廣木隆一の記事まとめ

宮世琉弥

震災があった当時、僕は小学1年生でした。いつも通り学校に行って、クラスメイトと下校の準備をしている最中に地震が起きたのですが、最初は何が起きているかわかりませんでした。幼かったこともあるかもしれませんが、後々あんなことになるとはまったく思っていなかったです。山の上に避難して、津波が引いたあとに家に向かったのですが、すべて流されてしまっていて。その後、避難所の上にあったいとこの家での生活が始まりました。

被災後の生活で印象的だったのは、水の大切さ。食事やお風呂、掃除など生活のすべてに関わってくるので、「水が出ないってこんなに大変なんだ」と痛感しました。水道が復帰したときは本当に感動して、今でも日付がすぐに思い出せるほど鮮明に覚えています。食料品もすぐに品切れになってしまって、水や電気などのライフラインや、今まで当たり前に接してきたものがなんでもかんでも希少になってしまったことも強く印象に残っています。

僕の場合、家族がすぐに全員集合できなかったことが一番不安でした。震災当日は父が出張で近くにいなかったので、離れているだけですごく不安だったんです。少しの時間そばにいなかっただけなのに、ものすごい不安に襲われて、「どうしているんだろう、無事なのかな」とそわそわ、モヤモヤしていました。当時電話の回線もなかなかつながらなかったので、連絡が取れたときの安心感は今でも覚えています。友達とは当時、あえて地震のことを話題にせず、勉強の暗記大会や、将棋、オセロなどをして、楽しいことだけを考えて前向きにいるようにしていましたが、会えない友達はどうしているんだろうという心配も常にありました。そのときの気持ちは今でも覚えています。

今のお仕事をするきっかけとなった出会いも、震災後の生活の中で経験しました。ももいろクローバーZの皆さんが僕の地元でライブをしてくださったんです。「テレビで観ていた人たちが目の前にいる!」という感動ももちろんありましたが、震災で落ち込んでいる中、会場が盛り上がっている様子を見て「こんなにも元気をもらえるんだ」ということに驚いたんです。そのときに「僕もこんなふうに皆さんに元気を与えられるお仕事がしたい!」と思うようになり、その数日後にたまたま今の事務所からスカウトされて入所を決めました。

僕の名字は、2年前にファンの皆さんからプレゼントされたもので、「宮城から世界へ羽ばたく」という意味が込められています。ふるさとの宮城を背負って活躍したいという気持ちはもちろん自分の中にあり、「亡くなった方の分まで生きたい」という思いも重なって、とても素敵な名前だと思いました。震災から10年が経過し、あの頃に比べていろんなことができるようになったなと思いますし、特に2020年は本当にたくさんの経験をさせていただきました。あの日見たももいろクローバーZさんたちの姿に、追い付いてはいなくても少しずつ近付けているんじゃないかと思っています。

最後に、このコラムを読んでくださった皆さんにお伝えしたいことがあります。人生は本当に一度きり。自分がこうしたい!と思うことや、叶えたい夢は絶対にあきらめないでください。無理に目標を作ろうということではなく、ときどき「自分は今やりたいことができているのかな?」と振り返るだけでもいいと思います。挑戦してみて、もしも難しい目標であれば少し方向や見方を変えてみてください。僕も、小学1年生だった自分に自信を持ってこれからの姿を見せられるように、たくさんの経験を積んで努力を続けていこうと思っています。

プロフィール

宮世琉弥(ミヤセリュウビ)

2004年1月22日生まれ、宮城県出身。2019年に俳優デビュー。近年の出演作として、映画「夏の夜空と秋の夕日と冬の朝と春の風」、ドラマ「ねぇ先生、知らないの?」「恋する母たち」がある。現在、ドラマ「青のSP(スクールポリス)─学校内警察・嶋田隆平─」「FAKE MOTION -たったひとつの願い-」に出演中。3月14日には初のスタイルブック「RB17 りゅうびセブンティーン」が発売される。

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宮世琉弥の記事まとめ

山谷花純

震災が起きたときの記憶は、今も薄れることなく残っています。当時私は中学3年生になる寸前で、体育館で先輩の卒業式の準備をしていたんです。地震はそのときに起きました。怖くて動けなくなってしまった子の首根っこを先生がつかんで、「逃げろ!」と誘導していたのを覚えています。お母さんが迎えに来てくれたんですが、なぜか正露丸と通帳だけ持って来ていて。焦って家を出てきたようで素足で靴を履いていました。そのとき宮城はすごく寒かったので、羽織るものなどを取りに一度家に戻り、体育館に避難しました。でも、お父さんの安否が確認できていなかったんです。大丈夫かなと心配していたんですが、夜に体育館を歩き回っているお父さんを発見して、無事に家族全員がそろいました。先のことなんて考えられず、家族がけがなく生きていたこと、顔を見られたことに、とにかく安心しました。

避難所で過ごして実感したのは、いろんな人がいるんだなということです。泣いている子供に怒ったり、「明日仕事なのでラジオを切ってください」と言う人がいたり。助け合いももちろんあったんですが、やっぱり信頼し合って手をつなぎ続けられるのは家族だと思いました。

小学6年生のときから芸能の仕事をしていて、実は震災の翌日も新幹線で東京に行く予定だったんです。でも仕事は全部キャンセルになって、学校にも行けず、本当に何もすることがない。心にぽっかり穴が開いてしまいました。避難所から戻ったあとは、地盤が安定しているひいおばあちゃんの家で1週間ほど暮らしました。そこに持って行ったのが、2010年に出演させてもらった「告白」の台本だったんです。ほかに持って行くべきものはたくさんあったのに、無意識に手に取っていた自分がいて。地震が起きた当日は未来のことを考える余裕がなかったんですが、その頃には自分の経験を女優という仕事を通して誰かに伝えたい、勇気や感動を与えたいという思いが生まれていました。

宮城でご近所の方に助けていただいたことは上京した今も忘れられません。携帯は便利ですが、電波がつながらなくなったらただの機械なんです。そんなときに「あそこの銭湯が開いてるよ」といったことを教えてくれた方たちがいました。2019年に「みやぎ絆大使」に就任させていただいたのですが、地元には恩返しをしたいと思っています。「子供の頃に被災したけど今私はがんばっているよ!」ということを、テレビや映画を通して伝えていきたい。新型コロナウイルスの影響で今はできることが限られていますが、今後恩返しになるような仕事を積極的にやっていきたいと考えています。

自分が大きな地震に遭うなんて思っていませんでした。でも、そういう現実が不意に立ちはだかることがある。それを頭に入れておくだけで、いろいろなことが変わってくると思います。防災グッズを準備したり、耐震を気にしたりするだけでなく、昔お世話になった人やしばらく会っていない友達に連絡をしてみたり。「寒いね」とか「今何してるの?」だけでもいいと思います。その一言をきっかけに、しばらくの間断たれていた関係が復活することもあると思うので。

プロフィール

山谷花純(ヤマヤカスミ)

1996年12月26日生まれ、宮城県出身。2007年にエイベックス主催のオーディションに合格し、翌年にドラマ「CHANGE」でデビュー。その後、連続テレビ小説「おひさま」「あまちゃん」、特撮ドラマ「手裏剣戦隊ニンニンジャー」などに出演した。映画「シンデレラゲーム」「フェイクプラスティックプラネット」では主演を務め、「劇場版コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-」「人間失格 太宰治と3人の女たち」「さくら」にも参加している。2021年はドラマ「遺留捜査」第6シーズンや「アノニマス~警視庁“指殺人”対策室~」に出演。3月19日には出演映画「まともじゃないのは君も一緒」の公開を控える。

山谷花純 - avex management Web
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