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エル・ファニングと映画との蜜月はいかにして生まれた? 出演作に垣間見える独自のセンス

リアルサウンド

20/7/25(土) 10:00

コッポラ・ファミリーとの邂逅
 『I am Sam アイ・アム・サム』(ジェシー・ネルソン監督/2001年)で、姉ダコタ・ファニングの幼少期の役として、そのキラキラした天使の笑顔を記録されたときから、エル・ファニングと映画の蜜月は、すでに約束されていた。このときの撮影のことをエル・ファニングはまったく覚えていないそうだが(まだ2歳なので当然なのだが)、ほんの一瞬のショットであるにも関わらず、そのショットには、8ミリフィルムで撮られたホームムービーのようなノスタルジーを呼び起こす親しみと、カメラに向けられた、言い換えれば、私たち観客に向けられた視線のキラメキが運命的な美しさで止揚されている。

参考:動画はこちらから

 この運命的なキラメキそのものを最初に拡張させたのが、ソフィア・コッポラが手がけた『SOMEWHERE』(2010年)である。あの美しい『エレファント』(ガス・ヴァン・サント監督/2003年)を撮った天才カメラマン、故ハリス・サヴィデスによって撮られた少女時代のエル・ファニングの記録は、そのコラボレーションの事実だけで作品の価値を数段階に上げてしまうものだが、ここに少女の機微を撮らせたら右に出る者がいないソフィア・コッポラの感性が加わることで、『SOMEWHERE』は初期エル・ファニングのキラメキを記録した作品として、一人の少女の永遠性を証明する。ここでソフィア・コッポラは長編デビュー作『ヴァージン・スーサイズ』(1999年)で、いきなり極めてしまった、少女の表情や身振りの機微をファッションスナップ的に、且つ、ホームムービーのような親密さを込めて記録するという、自身の一番得意とする方法論を被写体であるエル・ファニングに向けている。

 同時に、ロ-ドムービーの永遠の傑作『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース監督/1974年)への意識/無意識的なオマージュ・ショットさえも含む『SOMEWHERE』は、その光沢感に溢れたフィルムの質感とは裏腹に、ロードムービーとしての「ざらつき」を作品自体に落とし込んでいる。ホテルの部屋に呼んだポールダンサーをベッドからひたすら眺めるシーンや、「ダディ!」と声をかけるエル・ファニングの登場シーンが、眠りから覚めた父親(スティーヴン・ドーフ)の主観ショットであることに象徴されるように、この作品はその停滞感や退屈を夢幻のロードムービーとして表象する。父親が部屋に呼んだストリッパーのポールダンスは、愛する娘(エル・ファニング)の披露する素晴らしいアイススケートのダンスに形を変換され、最終的にはイタリアの映画祭での舞台上のスピーチで、セクシーなダンサーたちに囲まれてしまう父親の間抜けな図、というハプニングを、客席の娘に笑われるという形に変換される。これらはハッキリとそれとは明示されない秘やかな伏線の回収として機能する。

 ソフィア・コッポラは、このハッキリと明示されない秘やかな感情をエル・ファニングの演技にも落とし込む。大好きなカッコいい父親に複数の愛人がいることに、恐らく娘は感づいている。感受性が豊かであるがゆえに、すべてをそれとなく知った上で、娘であることを演じるエル・ファニングの受けの演技による虚無は、父親とゲームに興じる無邪気な少女の機微と共に、11歳の少女の、そのときにしか出せない生の記録をフィルムに刻んでいる。

 続いて、『Virginia/ヴァージニア』(フランシス・フォード・コッポラ監督/2011年)では、ソフィアの偉大なる父フランシスの所有する土地で、エル・ファニング曰く「ホームムービー」のような(コッポラ家のゲストハウスに宿泊。毎晩ディナーを共にするような文字通り「ホームムービー」な撮影現場だったという)を小規模の作品を撮っている。同じ年に制作された『SUPER8/スーパーエイト』(J・J・エイブラムス)で披露されたゾンビメイクの続きを見るかのような、主人公である小説家を導く白塗りの美しき吸血鬼役を演じている。フランシス・フォード・コッポラが突如復帰して制作した「小さな映画三部作」(『コッポラの胡蝶の夢』、『テトロ 過去を殺した男』、『Virginia/ヴァージニア』。いずれも傑作)のラストを飾るこの作品にエル・ファニングが招かれたことの意義は大きい。フランシス・フォード・コッポラは大きな川をスクリーン代わりに、エル・ファニングを投射するという大胆な実験によって、エル・ファニングを映画の起源に生まれたかのような幻影の女優へと近づける。ここに『マレフィセント』(ロバート・ストロンバーグ監督/2014年)で呪いをかけられたオーロラ姫の、“浮遊するオフィーリア”のイメージを重ねることもできよう。

世界のざらつきに自身を重ねる試み
 コッポラ・ファミリーとの出会いを運命的なものとするならば、『ジンンジャーの朝~さよなら、私が愛した世界』(サラ・ポーリー監督/2012年)以降のエル・ファニングは、ショウビズの煌びやかな世界よりも、周縁の世界のざらつきに身を投じる選択をしている。エル・ファニングのフィルモグラフィーを振り返るとき、ハリウッド的なビッグバジェットの作品は思いのほか少ない。ディズニー製作の『マレフィセント』は、例外ともいえる作品なのだ。

 ここにエル・ファニングの意識/無意識的な、ある「試行」を読み取ることができる。たとえば、21世紀の傑作の一本ともいえる『20センチュリー・ウーマン』(マイク・ミルズ/2016年)において、フェミニズムに関する書物を熱心に読む思春期の女の子を演じたように、エル・ファニングは出演作品を介して、学んだことを自身のパーソナリティへフィードバックさせる。マイク・ミルズが「(わたしの)パーソナリティは、他の誰かによって形作られる」と、他者との響き合いを主張するのに倣うかのように、エル・ファニングは自身の好奇心と探求心に忠実な作品を選択している。

 ヴィンテージ・ファッションを好み、60年代~70年代のティーンエイジャーに強く惹かれるというプライベートのエル・ファニング(しかし学校に戻ると、そんな友達が周囲にいないことに気づいた、とインタビューで語っている)は、おそらく自身の趣向が周縁のパーソナリティを持っているということに自覚的だ。その意味で、小説『フランケンシュタイン』を18歳にして創作したメアリー・シェリーを演じる『メアリーの総て』(ハイファ・アル=マンスール/2017年)に出てくるセリフ、「私の選択が、私を創った」は、エル・ファニング自身の言葉としか思えないほどの強度を帯びるだろう。また、同じように『メアリーの総て』の「自分の作り上げた怪物に食われるな」というセリフは、『ネオン・デーモン』(ニコラス・ウィンディング・レフン/2016年)におけるジェシー=エル・ファニングの空洞の身体を想起させる。

 『ネオン・デーモン』はジェシーという一人の女性の身体を、「美の空洞」として、次々にメタモルフォーズさせていく傑作だ。ジェシーはモデル業界の「怪物」に囲まれながら、状況に対して常に受け身をとっているようでいながら、自身が最も強大な美の怪物であることだけを知らない。こういった周縁の世界のざらつきに自身を重ね、作品とともに成長していくエル・ファニングのフィルモグラフィーの中で、ほとんど語られることがない『ロウ・ダウン』(ジェフ・プライス/2014年)についてここでは触れたい。

 写真家ブルース・ウェーバーが手掛けた晩年のドラッグでボロボロになったチェット・ベイカーを追ったドキュメンタリー『レッツ・ゲット・ロスト』(1988年)のカメラマンを務めたジェフ・プライスによる、アメリカン・ニューシネマのテイストを持ったこの作品を私は偏愛している。伝説のジャズ・ピアニスト、ジョー・オバニー(ジョン・ホークス)を娘エイミー(エル・ファニング)の視点で追ったこの伝記映画の持つ「ざらつき」は、発光する白黒フィルム、そして朽ちていく白黒フィルムの伝説的傑作である『レッツ・ゲット・ロスト』の魂を正しく受け継いでいる。ここでのエル・ファニングは、『SOMEWHERE』の少女と同じく父親の隠し事に敏感だが、その観察する少女の視線にはリアクション/アクションのドラマティックな変化がある。かつて状況に対して受け身でいることで保たれていた無防備な少女の視線は、その透明性を保ちながら、探究心によって自発的なアクションへ移り変わっていく。それは作品とのフィードバック、響き合いと共に年齢を重ねてきたエル・ファニングの軌跡と重なる。では、エル・ファニングが作品選びの基調としているものは何か?

若すぎるということへの抵抗
 エル・ファニングが『幸せへのキセキ』(キャメロン・クロウ監督/2011年)で、スカーレット・ヨハンソンと共演したことは多くの示唆に富んでいる。この二人の女優には多くの共通点がある。天才子役としてキャリアをスタートさせたこと。ターニングポイントとなったのが、ソフィア・コッポラの作品だということ。そして若すぎるということに抵抗してきたことだ。『ロスト・イン・トランスレーション』(ソフィア・コッポラ監督/2003年)を撮影したとき、スカーレット・ヨハンソンはまだ17歳だった。エル・ファニングが『マッド・ガンズ』(ジェイク・パルトロー監督/2014年)で妊婦を演じたときは、まだ14歳だった。

 スカーレット・ヨハンソンによるエル・ファニングへの興味深いインタビューの中で、彼女たちはお互いに「キャラクターを演じる際に年齢は関係ない」と言い切っている。実年齢より上の役を演じてきたエル・ファニングにとって、その役をこなすには若すぎる、という意見は、むしろ抵抗すべき対象なのだ。『マッド・ガンズ』の中で、エル・ファニングは少女であると同時に妊婦である役どころを、生来の天使的な身振りのまま平然とこなしている。そこに一切の矛盾は見当たらない。

 そしてメラニー・ロランの監督作品『ガルヴェストン』(2018年)では、ついに母親役を演じている。『ガルヴェストン』は、エル・ファニングが身を投じてきた世界の周縁、世界のざらつきを描くロードムービーであり、『SOMEWHERE』に向けられた現在のエル・ファニングからの返答ともいえる作品だ。

 『SOMEWHERE』以前に辿るなら、かつて『帰らない日々』(テリー・ジョージ監督/2006年)で、相手との入ってはいけない間合いに入ってしまいトラブル=物語を引き起こすホアキン・フェニックスお得意の演技を緩和する役回りを演じていた少女が、ホアキン・フェニックスの無邪気さとはまったく別の無邪気さで主体的に物語を動かす方向に向かっている。『パーティーで女の子に話しかけるには』(ジョン・キャメロン・ミッチェル監督/2017年)や『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』(ウディ・アレン監督/2017年)で、好奇心を行動原則とするヒロインを演じたように。エル・ファニングは、天使的な常に身振りで世界にいたずらをするが、同時に、そのいたずらには世界に向けて秘やかに中指を立てるような反抗の精神がある。エル・ファニングの辞書の中には、何をするにも「若すぎる」という言葉はないのだ。『幸せへのキセキ』の台詞に倣うなら、エル・ファニングの答えはいつも明確だ。

「君のような美しい女性が一体なぜ、僕なんかと話をしてくれるの?」
「Why not?(なにが悪い)?」
<文=宮代大嗣(maplecat-eve)>

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