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宮台真司の『呪怨:呪いの家』評:「場所の呪い」を描くJホラーVer.2、あるいは「人間主義の非人間性=脱人間主義の人間性」

リアルサウンド

20/8/24(月) 20:15

【90年代に「場所の呪い」が出現】 

 7月からNetflixのドラマ『呪怨:呪いの家』(以下、『呪いの家』)が配信中だ。三宅唱監督のこの作品は冒頭にナレーションが入る。「『呪怨』は実際に起きた出来事を参考に作られた。それらの出来事はある一軒の家に端を発していることが分かった。だが、実際に起きた出来事は映画よりも遙かに恐ろしいものだった」。ここでの『呪怨』は2003年のオリジナル映画(またはビデオ版『呪怨』2000年)を指す。

 つまりドラマがオリジナルの映画『呪怨』と当時の社会的現実との関係を考察するものだと宣言されている。実際『呪いの家』には1989年から1997年にかけて社会を恐怖に陥れた事件の殆ど全てが言及される。他方、僕は各所で日本社会の顕在的劣化が1996年から始まり、それが80年代の新住民的ジェントリフィケーション(環境浄化)に由来すると述べてきた。

 だから『呪いの家』に繋がる1963年からのJホラーの歴史を一覧すれば、ホラー映画の批評機能を通じて日本社会の劣化の歴史を辿れる。ここでは後述の理由から1963年から1996年までを「JホラーVer.1」、1997年から今までを「Ver.2」として論じるが、それぞれが同時代の日本社会の劣化状況のフェイズに対応する。以上を枕として本題に入ろう。

 Ver.1と2を画するのが黒沢清監督『CURE』(1997年)。「社会=言葉・法・損得」への「閉ざされ」の中で腐りゆく夫婦関係と、彼らを「社会の外」に誘なうstranger=ヤバイ奴という組合せが示される。誘なわれて「社会の外」に連れ出されてみたら究極の享楽=解放に到り、そこから振り返るとマトモな家族が「閉ざされた廃墟」として現れる。

 『CURE』の画期性は「新しい腐敗」を描く点にある。「その土地で忘れられた者が、相手が旅人(能)(日本の伝統ホラー)であれ新住民(少女漫画)(JホラーVer.1)であれ、思いを伝えにやってくる」という形式とは違う。土地のゆかりなき者として旅人ならぬ新住民を持ち出す「Ver.1」は「経済成長に伴う地域空洞化」に関係している(後で詳述)。

 『CURE』の場合、呪う主体は、土地の人や動物ではなく、土地の時空そのものだ。外からやって来た謎の医大生が言う。本当のアンタは家族も社会もメチャメチャになればいいと思ってる、だったらメチャメチャにしちゃえよ、それでアンタは解放されると。そこには「忘れられた者」はいない。まさにJホラーの新世紀を告げるに相応しい作品だ。

 同時期に鈴木光司原作『リング』と続編『らせん』が同時公開されるが(1998年)、これらはテック(テレビやビデオ)が道具立てなのにも拘らず、話は古い。少し後の清水崇監督『呪怨』(2003年)ーー『呪いの家』(2020年)の言及先ーーは黒沢清コードの影響が明らかでありつつも、「その土地で忘れられた人」が出て来る点では新旧が混ざっている。

 配信中の『呪いの家』は文字通り「家の呪い」を描くが、忘れられた者の地縛霊の如きものではないことが明示される。地縛霊は鎮められる。元々は人畜無害な人や動物だからだ。でも「場所の呪い」は鎮められない。コミュニケーション可能な人や動物ではない=「社会の外」だからだ。それがシリーズ1の最終回で示される。これは重大なポイントだ。

 1988年から始まる物語は、1989年の連続少女誘拐殺害事件と足立区綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件、1995年の阪神淡路大震災とオウム事件、1997年の酒鬼薔薇聖斗事件、1999年の東電OL事件などを劇中のテレビ画面を通じて示す。オリジナル『呪怨』までの実話という設定だからだが、物語と実在事件とのシンクロが繰り返し示され、見事に成功している。

 僕は本やテレビ(『朝まで生テレビ』等)でこれら事件の全てにコメントしてきた。繰り返してきたのは「ヤッたのがたまたまアンタじゃなかっただけで、アンタがやっていても不思議はなかった」ということ。犯罪被害者は誰でも良かったという通り魔殺人とは違い、犯罪者が誰でも良かったという問題だ。社会が犯罪者をロシアン・ルーレットで選ぶのだ。

【「忘れるな」から「思い出すな」へ】

 当時のコメントが、呪う人や動物をモチーフする「JホラーVer.1」と場所や時空をモチーフとする「Ver.2」の違いに重なる。Ver.1は「場所で忘れられた人や動物」に焦点を当て、「忘れるな」と呼び掛ける。『CURE』以降のVer.2は、よせばいいのに「ここは一体どこだ?」と知ろうとし、知ることから怖いことに巻き込まれ、狂うことで救われる。

 記憶の機能が逆転するのだ。共同体ベースの便益授受の場たる「生活世界」と市場&行政からなるシステムベースの便益授受の場たる「システム世界」を区別しよう。Ver.1は生活世界を忘れない方が=システム世界への適応を程々にした方が幸せなのにと示唆し、Ver.2は逆に、生活世界を忘れた方が=システム世界に適応しきった方が幸せなのにと示唆する。

 生活世界を「場所の場所性」と言い換えれば、映画に即して理解し易い。因みに人から場所へというモチーフの移動は日本映画に限らない。デヴィッド・ロウリー監督『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』(2017年)も、人の入れ替わりにも拘らず存在し続ける場所の力を主題化し、場所からの訴えを受信した男の「混乱を通じた救済」=イニシエーションを描く。

 さて『CURE』では抽象的な性質のみ描かれた「場所」に具体性を与えて観客に自分事化させる作品が黒沢清監督『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)だ。映画史上初めて描いたのが「家屋の配置がヤバい」「間取りがヤバい」のモチーフだ。犯罪が起こる「場所」に共通の性質があるとする。忘れられた人や動物に由来する地縛霊であれば凡庸だった。

 『クリーピー』『呪いの家』に共通して、鍵になる家屋は化物屋敷のような古いものではない。そこがポイントだ。80年代後半はテレクラナンパ、90年代前半は売春フィールドワークで全国を回った時の話。80年代末に日米構造協議で日本はアメリカ産木材100%の2×4(Two-by-four)住宅の解禁を飲まされ、以降新しい様式の住宅街が開発されていった。

 当時の地方郊外の国道を走るだけで、旧来の和風軸組建築の瓦屋根集落と、新種の2×4集落の、佇まいの違いに打ちのめされた。前者には生け垣・庭・縁側・路地・井戸端があるが、後者にはない。同じ集落とはいえ動線が全く異なり、ゆえに住民らがトゥギャザであり得る蓋然性も全く違う。そこで感じた印象と同じものを、2つの映画が描いている。

 構造協議では大店法緩和も飲まされ、地元商店街風化の要因になった。それに先立って「新住民化」による環境浄化で公園遊具撤去が進んだ。新住民とは地元の何たるかを知らぬ住民のこと。転入者や「一つ屋根の下のアカの他人化」で疑似単身者化した旧住民子弟からなる。60年代の団地化から在るが「新住民化」という場合は新住民が多数派になることを言う。

 『呪いの家』に出て来る女子高生コンクリート詰め殺害事件は、共産党員夫婦が1階に住む家の2階で40日間も女子高生を暴行し続けた少年らが、彼女を殺してドラム缶に詰めた事件。同じ1989年に起きた東京都五日市町(今のあきる野市)の連続幼女誘拐殺害事件は、家族が同じ敷地に住む離れのプレハブで、誘拐殺害した幼女たちを犯人が切り刻んでいた事件だ。

 共に「一つ屋根の下のアカの他人化=疑似単身者化」を示す。少し前の1984年には国道脇に林立するロードサイドショップでNIES諸国(台湾・韓国)製のテレビが1万5千円で売られて「テレビの個室化」が進み、1985年の電電公社民営化(NTT化)で電話が買切制になって多機能電話が売られて「電話の個室化」が進んで、「アカの他人家族」が量産された。

 90年代に入る前の段階で進んでいた「新住民化」の様相が分かるだろう。繫がりのない人間たちが集住するようになったのだ。一見平穏な住宅街でも昔の近隣関係も家族関係もない。だから共通感覚も共通前提もない。それで「危険」な公園遊具撤去運動が起こった。かくてブランコの立ち跳び・座り跳びも、花火の水平撃ちも、焚き火も軒並みダメになる。

 それ以前から各自治体の火災予防条例で焚き火は禁止だったが、誰でも焚き火をしたし、消防に通報されることもなかった。同じ流れで80年代には組事務所排斥運動が起こり、1992年の暴力団対策法施行に繋がった。ビジネスヤクザ化した組がどんどん共同体外に押し出された。かくて共同体のセーフティネットとしての機能を失う。それには2側面があった。

 第一に、当時はストーカー法ができる以前で、警察はストーカー事案に取り合わず、組に相談する他なかった。関西では警察に相談すると「警察じゃ無理だね」という物言いで暗にソレを示唆されもした。ことほどさように表共同体と貼り合わさった裏共同体が組だった。たとえば前科者だったりで表共同体に居られない者が、三下(電話番や運転手)として抱えられた。

 第二に、ケツ持ち役がいなくなって地元の非行少年に紐が付かなくなる。その悲劇的帰結が女子高生コンクリート詰め殺人だった。かつて少年の暴走族(ゾク)にもチンピラ(ヤンキー)にもケツ持ちヤクザがいて「やり過ぎんなよ」と掣肘した。それがいなくなって少年集団非行が暴走し始めた。「適切な非合法」が「不適切な非合法」になったのだ。

 『クリーピー』『呪いの家』が描く不可視の「歪んだ街の歪んだ家」が象徴するものが分かろう。そこには人間関係がないので空間だけが「物を言う」。侵入し易い家とか、人から見られずに何かできそうな家とか。或る種の本末転倒化としての動物化が起こるとパラフレーズもできる。それらこそが90年代末以降の「JホラーVer.2」が象徴するものだ。

 『クリーピー』冒頭、引っ越してきた主人公夫婦が近所挨拶に行き、怪訝な顔をされる。全く同じ経験を十五年前に僕も世田谷区で経験した(映画の舞台は日野市)。他方、元警察官で今は大学教員をする主人公(西島秀俊)が務める大学がガラス貼りのオープンスペースだらけ。人と人が繋がれます的なタテマエを象徴する。それが実に効果的な演出だ。

 つまり「コイツらが住む場所がどんななのか分かってんのかよ」的に観客を挑発するのだ。同じ冒頭、若夫婦が荷解きしつつ「庭があっていい家ね」と会話する。それを継いで『呪いの家』では「同じ家」に転居して来る若夫婦が「いい家じゃないか」と会話する。むろん反語だ。「そこがどんな場所なのかちゃんと評価しているのかよ」と嘲笑するのだ。

 これは観客の一部への直接的批判だ。『クリーピー』ロケは日野市。都立大学がある八王子市の隣だ。公開当時、僕のゼミにはロケ地を実際に知る者もいて盛り上がった。1993年に都立大に赴任した僕は10年間ほど広範囲に散策したが、唐突に建設資材や重機が放置された空き地や新築直後に放置された空き屋があったりと、嫌な感じが漂う場所が目立った。

 1時間歩いても誰にも出会わなかったりする。その時に思った。昔ならそうした工事現場には土管があって子供たちの秘密基地だった。ウルトラマンの「恐怖の宇宙線」(ガバドンの回)がソレだ。藤子・F・不二雄は『オバQ』から『ドラえもん』までそうした子供の領分を描いた。昭和はまだそうした場所が活き活きとしたエネルギーの発生源だった。

 そこは「法外のシンクロ」が生じる時空だった。だが『クリーピー』の空き地は「シンクロが起きない法外」である。そこでは「法外=社会の外」の意味が変じているのだ。「社会の外」に濃密な時空が拡がるか、虚空が拡がるか、という違いである。まさにその違いが「JホラーVer.1=外を忘れるな」と「Ver.2=外を忘れろ」との違いに対応している。

【かつてのJホラーVer.1とは何か】

 『リング』『らせん』(1998年)の原作者・鈴木光司とはよく交流した。この要素とあの要素をこう組み合わせたら怖いといったシナリオ学校的な鉄則を多数持ち、文学的というより建築的で、従来の日本の怪談の要素を的確に掴まえる頭のいい人だ。だからこそ、彼の作品は小道具にテクノロジー機器を使う点で新しく見えて、実は古いモチーフを反復する。

 但しデヴィッド・クローネンバーグ監督『ヴィデオドローム』(1982年)にも、鈴木光司的な「つけっぱなしのテレビから何かが出て来る」というモチーフがある。三池崇士監督『着信アリ』(2003年)まで含めて、1980~90年代にはテクノロジー機器をホラーに取り入れる世界的な流れがあった。時代を現代に設定する以上、小道具をアップデートするのは当然だ。

 古いモチーフとは「皆が忘れていくものが、忘れた頃にやってくる」というもの。「忘れられた者が土地に結びつく」というモチーフは、能の伝統もあって「日本の怪談」の基本だ。ただ「旅人がその土地を知らない」という「ワキモチーフ」から「住む人がその土地を知らない」という「新住民モチーフ」へとシフトした時点で「Jホラー」が始まった。

 「Jホラー」の出発点は1963年に創刊された『週刊マーガレット』と『週刊少女フレンド』の少女怪奇漫画だ。前者が古賀新一、後者が楳図かずお。これらは当時の団地に現実に流布していた都市伝説と密接に関係していた。団地住民はその場所が元々何だったのか知らない。その不安が都市伝説を流布させた。僕が幼少期に住んだ団地にも、それがあった。

 ある号室に住んだ家族から自殺者が出た。彼らの転居後に住んだ新しい家族からも自殺者が出た。3回続けてそれが起こった。調べたら墓地を移動した事実が分かった。そこで祈祷師を呼んで住民全員が集まってお祓いをしたら、二度と同じことは起こらなかった。これは僕の実話だが、似た話は小学生の頃に読んだ週刊誌に繰り返し載っていたのである。

 古賀新一『白へび館』(1964年)も似た話だ。新興住宅地の父娘が乗った車が白蛇を踏んだ所から、その土地で忘れられた者による呪いが始まる。呪いは英語でspellで呪文と関係づけられているが、日本の呪いはそれとは違って「思いが何かにヘバり付くこと」だ。その上で「Jホラー」が新しいのは、呪われる側がVer.1と2を通じて「新住民」であることだ。

 だから「Jホラー」は伝統的な「日本の怪談」と違って「戦後の再近代化」批判としての彩りを帯びる。但し50年代後半からの「団地化=第1次郊外化」の段階では新住民はマイノリティだったが、80年代半ばからの「コンビニ化=第2次郊外化」以降になると新住民がマジョリティになる。それが60年代からのVer.1と90年代からのVer.2の違いに繋がる。

【Jホラーに共通の凝視モチーフ】

 『呪いの家』(2020年)に戻って映像モチーフを確認する。鏡が何度も出てくる。鏡が映る度に僕らは「鏡に何か映るかもしれない」と身構えて鏡を凝視する。同じことは下から見上げた2階の窓で揺れるカーテンにも言える。僕らは「揺れるカーテンの向こうに何かいるかもしれない」と身構えて揺れるカーテンを凝視する。似たモチーフが他にも多々ある。

 ホラー映画としては部屋の場面は比較的明るめだが、照明効果で薄暗がりが設えられてある。僕らは「部屋の片隅の薄暗がりに何かいるかもしれない」と身構えて凝視する。これは黒闇の中から大音響と共に後ろから襲いかかる類の、情報の非対称性(監督は知っていて観客はら知らないこと)を使った、黒沢清が言う「卑怯なやり方」とは、真反対である。

 僕らは「鏡」や「揺れるカーテン」が出てくる度に「また鏡かよ~」「また揺れるカーテンかよ~」と凝視して、「そんなの映すなよ~」と嫌になる。黒沢はこれらを「不穏な気配を漂わせる只ならぬもの」と呼ぶが、言い得て妙だ。「不穏な気配を漂わせる只ならぬもの」のモチーフが実は「JホラーVer.1」から一貫してきたものであることに注意したい。

 楳図かずおや古賀新一の少女怪奇漫画にも「凝視=よく見る」が頻出する。「よく見る」と父親の犬歯が少し伸びたように見える。「よく見る」と母親の頬に鱗が付いているように見える。「よく見る」と家族はもう家族ではないのかもしれない……というモチーフだ。これを裏返すと、皆が当たり前だと思って「よく見ない」ことが、批判されていよう。

 「よく見る」と過剰や過少が現れるーー戦後の再近代化が余りに急だった日本ならではのモチーフだ。先に『クリーピー』について述べた空間の過剰や過少(の意味の変化)に結びつけることもできる。昭和の僕らは、空き地や工事現場や非常階段や屋上で遊んだ。30年前に「屋上論」として展開したように、これらは「機能化されていない空間」である。

 要はシステム世界に登録されていない「場所」。学校なら、教室に居れば「学ぶ人」、廊下に居れば「通行する人」、校庭に居れば「休憩で遊ぶ人」だが、屋上に居れば「誰でもない人」。25年前に記した「地べた座り論」もそう。電車やバスやセンター街で地べた座りして「地上70センチの視線」をとるだけで風景が一変、「誰でもない人」になれる。

 この脱機能性=脱システム性を空間から時間へと拡張できる。『ウルトラQ』のケムール星人の回(「2020年の挑戦」)に出て来る「真夜中の遊園地」。『ウルトラセブン』のチブル星人の回(「アンドロイド・ゼロ指令」)に出て来る「真夜中のデパート玩具売り場」。普段は見過ごしているが、偶然そこに進入したらどうか。実にクリーピー(ぞわぞわ)である。

 「真夜中の遊園地」も「真夜中の玩具売り場」もシステム世界から見れば機能が欠落した「過少な場所」で、システムに適応した者から見れば「過剰な場所」だ。だから「空間の過剰と過少」は「時空の過剰と過少」に拡張できる。それらは「凝視=良く見ること」で現れてくる。そこが「社会への閉ざされ」から「世界への開かれ」に通じる扉になる。

 昭和的身体は「社会の外へ」「社会から世界へ」の扉に開かれていた。「真夜中の遊園地」や「真夜中の玩具売り場」を子ども番組で描いた大人たちは、「社会から世界へ」の扉ーー規定可能なものから規定不可能なものへと通じる扉ーーに向けて子どもたちを誘なった。それらを見て育った子どもたちが、「鏡」や「真夜中」に強く惹かれるようになったのだ。

 昭和の三面鏡は普段は閉じられた上に覆いがかけられていた。子どもたちは親がいない時に覆いを取り去って三面鏡を開き、角度を調節して無限回廊を覗き込んでは回廊のどこかに得体の知れぬ何かが映り込んでいないかと脅えた。だが今の子どもたちは屋上や空き地に、真夜中の遊園地や玩具売り場に関心を寄せない。扉に向けて開かれていない。

 クズ=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」=「社会に閉ざされた存在」の出発点は、そんな子ども時代の「閉ざされ」にあるというのが、僕の一貫した見方である。そこからすると「JホラーVer.1」と「Ver.2」に共通する「見過ごされた時空=凝視すべき時空」は単なる映像モチーフを超えた豊かなインプリケーションに満ちていることになる。

 若い読者は考えたことがあるだろうか。鏡は用事がある時しか使わない。だが鏡は使われていない時にもそこにあって「何か」を映している。遊園地も玩具売り場もそう。僕らが訪れていない夜にもそこにあって「何か」を宿している。「おもちゃのチャチャチャ」の歌のようにだ。因みに「何か」とは何なのかが、「JホラーVer.1」と「Ver.2」を分ける。

【「忘れられた場所」を描くVer.2】

 鏡が映す「忘れられた者」におののく「Ver.1」と違い、「Ver.2」では鏡が何を映さなくてもそこに存在する事実におののく。だから『呪いの家』の鏡は「忘れられた者」を映さない。むしろ鏡にいつも「見られている」こと、知らない時も鏡が何かを「見ている」ことに、注意が払われる。つまり鏡が「脱人間中心主義」の象徴として用いられている。

 それが示すものはアニミズム的な体験だ。巷間の誤解と違い、アニミズムは万物に精霊が宿るのではない。それはキリスト教的な翻訳である。水木しげる『墓場鬼太郎』(1960年)が描くように、僕らはタライや壁に見られたりする。それがアニミズムだ。現象学的精神分析学者ビンズワンガーは、統合失調に特徴的なそんな体験を原初的な古層であると見做した。

 「僕らが見ていなくてもそこにあり続けて、何かを見ているモノたち」に開かれた感受性を、僕のゼミでは「存在論的な感受性」と呼んできた。90年代半ば以降の人類学者らの「存在論的転回」にもクァンタン・メイヤスーらの「思弁的実在論」にも、細かいロジックを抜きにしてそうした同時多発的感覚が滲み出している事実に注目しなければならない。

 その同時多発的感覚に基づく表現の一つが、「人」ではなく「場所」が主役だとする「JホラーVer.2」だ。奇しくも僕が都市計画や街づくりに関わる際にも「人」ならぬ「場所」が主役だと言い続けてきた(『まちづくりの哲学:都市計画が語らなかった「場所」と「世界」』2016年)。その僕の思考は1994年のベアード・キャリコット『地球の洞察』に拠る。

 京都学派の影響を受けたこの環境倫理学者は語る。環境が大切なのは生き物が大切だから(義務論)でも、人が快楽を感じるから(功利論)でもない。これらはショボい人間中心主義だ。「場所」自体が一つの生き物であって、それを蔑ろにすることで人は尊厳を失って狂う。それをパラフレーズすれば「人間主義の非人間性/脱人間主義の人間性」となる。

 さらにパラフレーズすると、産業化や技術化で感情が劣化した人間が「人間中心主義」に頽落することで、ないがしろにした「場所」から復讐される、となる。これぞまさに同時代の黒沢清『CURE』に始まる「JホラーVer.2」のコードそのもの。そこには、「人間が主役」と思った瞬間に「社会への閉ざされ」に埋没するのではないか、との惧れがある。

 惧れの背後には、いつの間にか自明ではないシステムへと自分たちが閉ざされたという汎システム化pan-systemizationの感覚がある。当初は「我々」がシステムを道具として使っていたのが、システム化によって生活世界が縮小して「我々」が消え、分断され孤立した個人がシステムの駒に堕する事態が、汎システム化である。主体が「我々」からシステムへと移るのだ。

 汎システム化が生活世界を破壊、人が孤立状態でシステム(市場と行政)に向き合うようになった結果、不安を背景とした「感情の劣化」が広汎に生じる。そこには、ホモ属が他の霊長類よりも孤独を嫌う社会的動物として進化したというゲノム的前提と、同じ時間でより多くの獲物と収穫物を得るために負担免除を追求するゲノム的前提との矛盾がある。

 負担免除(技術)によって人間がもっと多くの選択肢を得ることを良しとする「人間中心主義」が、負担免除の装置であるシステム(市場と行政)の見通し難い複雑化をもたらした結果、人間がシステムの入替可能な部品になり下がる「非人間性」を招き寄せたのだ。これが「人間中心主義の非人間性=技術による総駆り立て(後期ハイデガー)」という事態だ。

 単なる合理化だとされたシステム化(第1次郊外化まで)が、汎システム化段階へと進化した80年代以降になると(第2次郊外化以降)、人間が選択の主体であるがゆえの「人間主義の非人間性(閉ざされ)/脱人間主義の人間性(開かれ)」という気付きに到る。第1次郊外化は旧住民がマジョリティなのが、第2次では新住民がマジョリティ化した事実を想起しよう。

 同種の気付きが90年代に各国に拡がり、人類学や哲学から映画表現や文学表現まで含めた「存在論的転回」をもたらした。ただし、別の場所で詳述した通り戦間期後期の全体主義化を背景に生じた「一度目の存在論的転回=ハイデガーの総駆り立て論」があるので、汎システム化を背景とする90年代の「存在論的転回」を「二度目の存在論的転回」と呼ぶべきだ。

 汎システム化がもたらした「人間主義の非人間性」への広汎な気付きという文脈を踏まえない限り、ダン・スペルベルやブリュノ・ラトゥールら人類学者が駆動し始めた「二度目の存在論的転回」の理解が表層に留まり、今世紀ヴィヴェイロス・デ・カスクロの多視座主義・多自然主義やクァンタン・メイヤスーの思弁的実在論の理解に支障を来すことになる。

 『ア・ゴースト・ストーリー』がタイムラプスで描くように、僕がいるこの「場所」は昔からずっとあり、これからもずっとあり、「生き物の如く転態する(時間性)」。そうした「場所」が、タイムラプスで消えてしまいがちな僕を「じっと見ている(空間性)」。そんな「場所」へと「開かれる」ことで、僕は「社会」ならぬ「世界」の中で救済される。

 僕には幼少期からアニミズム的感受性があって、生物か無生物かを問わずモノに「見られる」という体験を重ねてきた。動物に「見られる」という感受性ゆえにどんな動物にも異様に好かれる。樹木や電信柱やビルに「見られる」という体験ゆえに時には街頭で突然うずくまった。当時は転校が多すぎたための「引っ越し分裂病」ではないかと診断された。

 90年代半ばまでの10年、ナンパした女たちとビルの屋上や非常階段で性交していた時も、避雷針や給水タンクに「見られる」体験を重ねてきた。実際「ほら、避雷針が僕らを見ているよ」という言葉を幾度となく囁いた。中には「いやっ」と頬を赤らめる僕と同じ資質を持つ女もいた。それを僕は『墓場鬼太郎』が描く幽霊族=先住民の感受性に重ねた。

 そんな僕に居場所を与えてくれた「JホラーVer.2」。Ver.1が「場所で忘れられた者」が主役とすれば、Ver.2では「場所そのもの」が主役。前者の呪いは鎮められるが、後者の呪いは「場所を忘れた自分が悪い」ので「場所に開かれた脱人間(モンスター)」にならないと鎮められない。当然、「場所」によって救われた僕は「天使で且つ悪魔」かもしれない。

【三度目の「光と闇の綾」の賞揚】

 繰り返すと「Jホラー」は“「場所」に関わる「居住者の」脅え”として1963年に始まる。小4で見た『怪奇大作戦』(1968年)シリーズのDVDボックスに依頼の十倍の長大な解説を寄せたが、そのために一本一本精査して分かったのは、「ニセモノ/ホンモノ」モチーフがほぼ全回を貫徹することだ。特に実相寺昭雄監督「京都2部作」(23~24回)に顕著だ。

 思えば、このモチーフは戦間期に始まる江戸川乱歩「少年探偵団」シリーズ(怪人二十面相シリーズ)を貫く。社会が急に変化する時に「ニセモノ/ホンモノ」モチーフが噴出するという大衆表現の定理がある。「ちゃんと見ない」からニセモノに騙される。「ちゃんと見ない」というモチーフと「ニセモノに騙される」というモチーフが結びついている。

 社会が急に近代化する時、人は強くなりゆく「光」に目を奪われ、そのハレーションで「闇」を見なくなる。このモチーフの嚆矢が、戦間期の川端康成『浅草紅團』と江戸川乱歩『押繪と旅する男』だった。後者は川島透監督が映画化したが、『CURE』直前の1994年である事実に注目しよう。映画の中身は乱歩の短編を解説するような見事な内容だった。

 その解説を言語化すると、戦間期の川端と乱歩の作品は「銀座批判」だった。後藤新平の帝都復興計画の「光」に満ちた銀座はモボとモガが闊歩する、しかしフラットな時空だが、凌雲閣と直下の私娼窟が同居する浅草は「光」と「闇」が綾をなす時空。「光」は人の居場所はないニセモノだが、「光と闇の綾」の中には人の居場所があるホンモノだーー。

 だから、再び社会が急速に再近代化した1960年代に「ちゃんと見ない=ニセモノに騙される」モチーフがリプライズした。それは「戦後批判」を意味した。それを当時新左翼に連なっていた佐々木守や石堂淑朗らが担った。その意味で新左翼≒新右翼(戦後の親米ケツ舐め右翼に対し、戦前の反欧米右翼を引き継ぐ真右翼をこう呼ぶ)という定理が如実だ。

 そこは深入りしないが、彼ら監督や脚本家らが、戦間期の川端や乱歩が銀座を体験したが如く、高度成長期の高速道やビルやデパートを体験していた事実には注目してほしい。その体験が「光と闇の綾」を描く「JホラーVer.1」の楳図かずおや古賀新一や怪奇大作戦シリーズを生み出した。即ち1970年までは「闇への開かれ」が日本にちゃんと在ったのだ。

 直前の1950年代末から水木しげるが、鬼太郎の誕生秘話を描く『妖奇伝』『墓場鬼太郎』を描いた。先住民たる幽霊族がタライや壁と話し、「よく見る」と道には妖怪がいる。それがホンモノの日本だというのが水木の主張だ。そして在野哲学者の内山節によれば、その頃までの日本人は狐に化かされたが、1960年代を通じて化かされなくなっていった。

 加えて北一輝など戦前右翼研究家の松本健一によれば、世論調査で日本人が「アジア(後進国)の一員」から「西側(先進国)の一員」という意識に変わったのが1964年、つまり東京五輪の年(松本は「一九六四年革命」と呼ぶ)。「場所で忘れられた人や動物に復讐される」という「JホラーVer.1」の元年1963年に重なる事実に注目しなければならない。

 大正の戦間期前期に生まれ、上海のフランス租界で母とその兄弟たちを産んだ僕の祖母は、まだ日本にいた女学生時代には人力車で女学校に通うハイカラさんだったにも拘らず(祖母の父は浅草に映画館と芝居小屋を5つ所有するカブキ者)、時々「通い慣れた道なのに、迷っちゃったよ、キツネに化かされたんだ」と言っていたのを、僕はよく覚えている。

 そして再度のリプライズ(再興の再興)が1990年代半ばに生じ、「JホラーVer.2」の形を採った。それが「鏡をちゃんと見ろ」という「存在論的モチーフ」として表れた。同じ頃「レトロ・フューチャー」(1960年代の「光=未来」を懷かしむ営み)もブーム化した。なぜ90年代半ばなのか。2000年前後を舞台とする『呪いの家』が参照する事件がヒントだ。

 1995年は援交のピーク。阪神淡路大震災とオウムのサリン事件が連続した。1997年には酒鬼薔薇聖斗事件。1996年は『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに象徴されるアダルトチルドレンと自傷系のブームの起点。ストーカー騒動とセクハラ騒動の元年でもある。1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が結成され、ウヨ豚が湧き始める。そう。狂いが顕在化した。

 問いの答えは、80年代来の「新住民化=第2次郊外化=汎システム化」の結果、社会がフラットな「光」に包まれた裏面で、「社会の闇」が「心の闇」へと移転したことだ。それが思春期を過ごした子どもが大人になるまでのタイムラグを挟んで、90年代の「狂いの顕在化」に繋がった。それを最大限に象徴したのが97年の東電OL事件だったと考えられる。

 「JホラーVer.2」の出発点は「人類学ルネサンス」ないし「二度目の存在論的転回」に時期が重なる。グローバル化とテック化による「汎システム化=フラットな社会への閉じ込め」(格差化にも拘らずそれを感じないジョック・ヤングの「過剰包摂社会」がそれを象徴する)よって、闇の「社会から心へ」の移行と共に「社会の外」への強い志向が生じた。

 その「心の闇」は、酒鬼薔薇聖斗のような犯罪者としてのみならず、性愛における「コントロール系のクズ男」や「被害妄想の糞フェミ女」という神経症として表れたことが重大だ。なぜなら、それが、クズ化=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」化の一般化という現象を代表するからである。これらのクズの特徴は不倫炎上するところにある。

 クズは、「見ている時」に相手が自分に従っていたら=コントロールできていたら安心する。だが思い出すべきだ。「鏡」や「避雷針」や「空き家」は「見ていない時」にも存在する。同じくその男やその女は「見ていない時」にも存在する。「見ていない時」に鏡が何を映すか未規定なように、「見ていない時」に相手が何をしているのかも未規定なのだ。

 「LINE見せろ」「写メ見せろ」と強いつつ「ウチの妻は・夫は、不倫してません」とホザく。見える範囲に情報をたぐり寄せて安心する。自動機械のクズである。80年代に「寝取りのプロ」だった僕に言わせて貰えば、旦那に悟られないで奥さんを寝取るのは実に簡単。「そうしたことがあるかも知れない」と思いつつ幸せな毎日を送るのが、健全だ。

 それを「開かれ/閉ざされ」の二項図式を用いて言えば「絶えず『開かれた』状態でありつつ、腹を括って『閉ざされた』こちら側にいる」状態が倫理的に望ましい。「安心・便利・快適」厨の反対側の構えだ。奇しくも『呪いの家』で仙道敦子演じる霊感のある女が示す構えがそれだ。「開かれ」を忘れれば復讐され、「閉ざされ」を忘れれば社会を生きられない。

 黒沢作品を含め「JホラーVer.2」が示唆するかかる倫理は、多様な現れを示すものの普遍的だ。それを象徴するのがショーン・ペン監督『イントゥ・ザ・ワイルド』(2008年)で、映画関連素材で言えばピエール・マイヨール(かつての無呼吸潜水記録者ジャック・マイヨールの兄)が著した『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』(2017年)だ。(ちなみに同作品から厳しいジャック批判を消去したのがレフトリス・ハリートス監督『ドルフィン・マン』<2017年>)。

 「鏡の向こうに何かがいる(Ver.1)」「自分が知らないものを鏡が知る(Ver.2)」との予感を抱きつつ「鏡のこちら側」に留まる構えが、汎システム化によって狂人化しないための処方箋になる。それを「なりきり becoming=往相」と「なりすまし pretending=還相」の遣い分けだとパラフレーズしてきた。「霊感のある女」が示す構えとはそのことだ。

【理論を実践へと実装する営みへ】

 巷間、ウヨ豚や不倫炎上厨の如き脊髄反射的でエコーチェンバー的な「見たいものだけを見る」クズの量産をインターネットのせいにする短絡が蔓延っている。これはウヨ豚が全てを中国人のせいにし、糞フェミが全てを男のせいにするのと同じ自己のホメオスタシスhomeostasis of the selfのための外部帰属化だ。真実を「ちゃんと見る」必要がある。

 インターネット元年である1995年の10年以上前から、世界各所で、汎システム化による共同身体性・共通感覚・言語的共通前提の崩壊が、「感情の劣化=言外・法外・損得外への閉ざされ」を招いていた(1985年からのナンパとフィールドワークで全国を回った僕は日本での過程を具さに目撃した)。それがなければネット化は異なる帰結をもたらしたろう。

 全ての事象には文脈がある。全てのテクストにはコンテクスト(テクスト随伴物)がある。それを無視して全てをテックのせいにする自動機械は、人間的なものを目指すつもりで必ずテックを敵視しよう。だがテック化を含めた技術の複雑化は必然的な過程で、それに敵対するのは絶望への道だ。テック化を「大切な何か」の味方につける方途が必要だ。

 コロナ禍は必然的にテック化を後押しする。本来20年かかる過程が数年に短縮される。目下の文脈では、そのことが「共同身体性・共通感覚・言語的共通前提」の崩壊による顕著な分断を加速しよう。だがテック化を別の文脈で機能させ得る。その別の文脈はコロナ禍の現実を「見ている」だけでは分からない。「見えないもの」を「見る」必要がある。

 別言すると「共同身体性・共通感覚・言語的共通前提」の崩壊によるクズ化=「言葉の自動機械化・法の奴隷化・損得マシーン化」とそれによる倫理の脱落を嘆くだけでは始まらない。コロナ禍によるテック化の加速が幸い「茹でガエル化抜きで」問題を露わにさせる。そこで生じるカオスが、フラット化から一部の人を解放してくれている事実もある。これは重大だ。

 理論的には、「共同身体性・共通感覚・言語的共通前提」の崩壊を加速するテックと、逆にそれを押し留め、かつリストアするようなテックを区別し、後者に与するのが重要だ。もともと日本には倫理がなく、日本的共同体のキョロメ作法が倫理の代替物を提供してくれていたところに、共同体の空洞化が生じてアノミーが生じている以上、なおさら急務である。

 この日本的文脈が、どのみち各国で生じるだろう劣化を「先取り」させる。その意味で日本はいつも「課題先進国」だ。だが、先の理論的な示唆だけでは過剰に抽象的だ。理論を実践へと実装するには、文脈に伴われて初めて現象する日本的文脈の否定面のみならず、別の文脈に伴われることでリストア可能な肯定面に着目し、手掛かりにする他はない。

 実際、半世紀余り前には、日本人の多くが「見えないもの」を「ちゃんと見る」営みを弁え、ユダヤ・キリスト教的な文明化を遂げた人々とは違って「人間中心主義」を生きていなかった。「人間主義の非人間性/脱人間主義の人間性」図式に即して言えば、キャリコットがそう感じたように、日本の歴史には「脱人間主義の人間性」のヒントが満ちている。

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■配信情報
Netflixオリジナルシリーズ『呪怨:呪いの家』
Netflixにて、全世界独占配信中
監督:三宅唱
出演:荒川良々、黒島結菜、里々佳、長村航希、井之脇海、柄本時生、仙道敦子、倉科カナ
脚本:高橋洋、一瀬隆重
エグゼクティブ・プロデューサー:山口敏功(NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)、坂本和隆(ネットフリックス)
プロデューサー:一瀬隆重、平田樹彦
音楽:蓜島邦明
作品ページ:www.netflix.com/ju-on_origins

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