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小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード1   村井邦彦・吉田俊宏 作

リアルサウンド

21/1/1(金) 17:00

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード1は、1971年1月のフランス・カンヌから幕を開けるーー。(編集部)

村井邦彦×松任谷由実「メイキング・オブ・モンパルナス1934」対談
『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード1
カンヌ ♯1

 コバルトブルーの地中海が雲間からのぞくと、着陸態勢に入った機内のあちこちから感嘆の声が上がった。冬の暗い北ヨーロッパから南仏を訪れる人は、誰もがまぶしすぎるくらいの太陽と海の青の深さに感動する。タンタンの表情にも少しだけ輝きが戻った。コート・ダジュールの明るい陽光が彼女を照らし、ツルンとした白い顔をプラチナ色に染めていた。
 ニースの国際空港を出たタクシーはタンタンと花田美奈子さんと僕を乗せ、西に向かう海岸通りをのろのろと走った。ゴーロワーズかジタンのような黒煙草とすえたワインの臭いが混ざり合ったフランス独特の臭いが染みついた旧型のプジョーだ。
 美奈子さんが臭い、臭いと言うから、僕は仕方なく窓を全開にした。通りの至るところにミモザの黄色い花が咲き乱れている。この花の放つ爽やかな甘い香りのおかげで、古い因習のようにこびりついていた臭いもどこかに飛んでいった。
「村井君、南仏の人たちはミモザを『冬の太陽』って呼んでいるの。春の訪れを告げる花なのよ」
 タンタンを心配して一緒に来てくれた美奈子さんが言った。銀座の文壇バー、ラ・モールのマダムで、マキシム・ド・パリをはじめ数々のレストランをプロデュースした彼女はタンタンこと、川添梶子さんの親友であり、良き理解者であり、僕と同じようにキャンティの常連でもあった。
「冬の太陽ねえ。うまいこと言うなあ。日本でいえば桜にはまだ早いから、梅か椿かな」
 僕は助手席から振り返って言った。タンタンはずっと海を見つめていた。春の訪れを感じてくれているだろうか。それともまだ心は凍てついたままだろうか。

「カンヌだわ。何年ぶりかしら」
 アンティーブ岬を過ぎてカンヌの街並みが見えてきたとき、タンタンが口を開いた。目が輝いている。美奈子さんが僕の顔を見てニヤリと笑い、大きく2度うなずいてみせた。「いい調子、うまく行っているわね」と目顔で語っていた。
 川添浩史さんが1970年1月に亡くなった後、タンタンの落ち込みようは尋常ではなく、1年たっても回復の兆しは見えなかった。
 タンタンはこのまま死んでしまうのではないか。僕は本気でそう思っていた。少しでも彼女の気晴らしになればと考えて、毎年1月末にカンヌで開かれていた国際音楽産業見本市のMIDEM(ミデム)に行こうと誘ったのだった。タンタンが珍しく素直にうなずいてくれたのは、カンヌが浩史さんとの思い出の土地だからに違いなかった。

 尻上がりにエンジンの調子を上げた旧型のプジョーはクロワゼット大通り沿いにあるマジェスティック・ホテルに思ったより早く到着した。アラン・ドロンとジャン・ギャバンが共演した映画『地下室のメロディー』で、大金持ちの実業家になりすました大泥棒のギャバンが泊ったのもこのホテルだった。
「ボンジュール、ムッシュー・クニ、また会えてうれしいよ。1年ぶりだね。きれいな女性を2人も連れて、今度はずいぶん景気のいい旅だなあ」
 フロント係のダリオが冬の太陽のような笑顔で迎えてくれた。僕は前年、初めてMIDEMに参加してマジェスティックに泊まったのだが、このイタリア系の気のいい男とすっかり仲良くなっていた。僕は25歳で、ダリオもほとんど変わらなかった。お互いに若いというだけで意気投合できるのは、若者の特権だった。彼のおかげで今回の予約もすんなり取れたのだ。
 チェックインの手続きをする間もなく、タンタンは海が見たいといって歩きだした。美奈子さんも荷物を放り出して後を追った。
 やれやれ。僕が肩をすくめると、ダリオが真っ白な歯を見せて、「後は僕に任せて。ムッシュー・クニも行った方が良さそうだ」と背中を押してくれた。
 マジェスティックのプライベートビーチに出ると、美奈子さんが1人でベンチに腰かけていた。
「あれ、タンタンは?」
「あっちよ」
 タンタンは毛皮のコートを肩にかけ、波打ち際を歩いていた。僕の気配を背中で感じたのか、長い髪をなびかせてくるりと振り向いて言った。
「あの人はね、シローはねえ、カンヌが大好きだったのよ」
 川添浩史さんの本名は紫郎で、近しい人や古くからの友人はシローと呼んだ。後妻となったタンタンも同じだった。
 黒髪が潮風に揺れていた。毛皮の下のニットのワンピースがタンタンの体の曲線を浮き彫りにしている。僕は彼女の彫刻の師、エミリオ・グレコの作品『湯浴みする女』を思い出した。タンタンがモデルをつとめ、グレコが連作したブロンズ像で、その一つが日本橋白木屋の前に置かれていた。
 グレコはタンタンに弟子以上の感情を抱いていたらしいが、彼女は師を尊敬してはいても、男として見る気はなかったようだ。
 タンタンはグレコ門下で一緒に彫刻を学んでいた年下のイタリア人と結婚するのだが、嫉妬深い夫の暴力に耐えきれず、1歳半の娘を残して逃げ出してきたのだった。彼女が娘の思い出を断片的に語るのは何度か耳にしたことがあるが、詳細を聞いたことはなかった。残してきた実の娘への愛慕がどれほどのものか、若い僕に分かるはずもなかった。
「いったんホテルにチェックインして着替えようよ。MIDEMの会場でヘンリー・マンシーニとアイク&ティナ・ターナーのコンサートがあるんだけどさ、ドレスコードがブラックタイなんだ」
 タンタンは聞こえないふりをして、アルビノーニのアダージョのメロディーを小さな声で口ずさんでいた。彼女の大好きな曲だった。こうして歌うときは、いつもの落ち着いた低い話し声から一転して、少女のように高く澄んだ声になる。「六本木の女王」などと書き立てて揶揄している週刊誌の記者たちは、こんな川添梶子を見たら仰天するに違いない。

 そろそろ日の暮れる頃、僕たち3人はMIDEMの会場となる旧パレ・デ・フェスティバルの開門を待っていた。幅の広い高い階段の上にホールの入口がある。その階段や踊り場に入場を待つ人が集まるのだ。段差があるから、誰がどこにいるかよく見渡せる。
「あら、ここじゃない? ほら、川添さんや勅使河原さんたちが並んで写っていた写真よ。ここで撮影されたんじゃないの」と美奈子さんが言った。
 当時のパレ・デ・フェスティバルは今ほど広くなかったが、毎年5月にカンヌ国際映画祭が開かれていた。川添浩史さんは1964年に勅使河原宏監督の映画『砂の女』を紹介するためカンヌを訪れ、持ち前の社交術を駆使して審査員特別賞受賞に大きく貢献している。監督や主演の岸田今日子さんだけでなく、後に小澤征爾さんと結婚するモデルの入江美樹さん、まだ女優の卵だった20歳の加賀まりこさんといったキャンティの常連たちを引き連れてカンヌ入りした川添さんは、全員に和服を着せて各国マスコミの注目を集めたのだった。映画誌か、新聞だったか、何かに載った彼らの集合写真は僕も見たことがあった。
「そうそう、確かにこの場所よ。シローにとってカンヌは自分の庭みたいなものだったの。何しろパリに留学するために船でマルセイユに着いたのに、まずパリじゃなくてカンヌに来て2か月もバカンスを過ごしたくらいなんだから。留学中も毎年、夏にはカンヌに来ていたそうよ。だから勅使河原さんと一緒に大勝負に出る舞台として、他のどこでもなくカンヌを選んだのは必然だったんだと思うわ」とタンタンが答えた。
「川添さんがロバート・キャパに出会ったのもカンヌだったんでしょ」と美奈子さん。
「そうらしいわね。シローが井上清一さんと一緒に訳したキャパの本にもそんな話が……」。そこまで言ったところで、タンタンは僕の姿をまじまじと見てプッと噴き出した。外国人が大勢いるところでは委縮しないで堂々と胸を張っていなさいと教え込んだのはタンタンで、僕はそれを忠実に実践すべく、胸を張って周囲を見渡していただけだったのだが。
「村井君、あなた、そんなに胸を突き出していたら、鳩と間違われるわよ」と美奈子さんから小突かれた。
 マンシーニやティナ・ターナーが登場する前に会場をどよめかせたのは、客席の最前列に陣取ったエディ・バークレイと彼の仲間たちだった。ドレスコードを笑い飛ばすようにバスローブ姿で現れたのである。僕はエディとは旧知の間柄だった。そもそも作曲家として忙しい毎日を送っていた僕がアルファミュージックという音楽出版社を始めることになったのも、川添浩史さんに紹介されたバークレイ音楽出版社から『マイ・ウェイ』の日本国内の出版権を買ったのがきっかけだった。ポール・アンカが英語の歌詞をつけ、フランク・シナトラの歌で世界的に大ヒットする前の話だ。
「何よ、あの人たち」と美奈子さんが眉をひそめて言った。
「僕がお世話になっている人だよ。クインシー・ジョーンズやミシェル・ルグランのレコードを出している会社の社長さ。目立つのが好きで、いつも突飛なことばかりやって喜んでいるんだけど、ちょっとあれはやりすぎだね」と僕は苦笑いしたが、周囲の喝さいを浴びてエディはご満悦だった。

エピソード1
カンヌ ♯2

 終演後、僕らはバークレイ・レコードの夕食会に招かれた。カンヌを見下ろす小高い山にあるムージャンという町にできた新しいレストラン、ムーラン・ド・ムージャンが会場だった。バークレイ・レコードの幹部やアメリカのベル・レコードの社長のほか、シルヴィ・バルタンのようなスター歌手もいた。総勢30名ほどのパーティーだったが、僕が紹介するやいなや社交の中心になったのはフランス語、英語、イタリア語を流暢に話す日本から来た神秘的な美人、タンタンだった。
 にこやかに話していたタンタンの表情が変わったのは、きれいなイタリア語を話す若い女性が挨拶に来たときだった。
「マルタといいます」と彼女は名乗り、タンタンは「失礼ですけど、お年はいくつかしら」と尋ねた。そのくらいのイタリア語なら、僕にも何とか分かる。
「マルタさんはね、お母さんがイタリア人で、お父さんはフランス人なんですって」。タンタンは僕が頼んでもいないのに通訳を始めた。「彼女が子どもの頃、お父さんはローマから出ていってしまって、お母さんに育てられたそうよ」
 どこかで聞いたような話だと僕は思った。
「ねえ、マルタさん、お父さんの消息は分かっているの」とタンタンが尋ねた。
「パリで再婚して、ちゃんと家庭があるらしいんですけど、それ以上のことは知らないわ」
「お父さんに会いたくないの?」
「私は8歳だったからパパのことはあまり思えていないし、今のパパを実の父親と思っているから」
「そう。マルタさんは今、幸せなのね?」
「もちろんよ」
 タンタンは優しい言葉をかけたが、今にも泣き出しそうな哀しい目をしていた。僕にはその理由が分かった。横にいて僕の脇腹をひじで小突き続けていた美奈子さんも当然、分かっていたはずだ。
 タンタンは暴力を振るうイタリア人の夫から逃げ出してきた。ローマに残してきた一人娘の名前はマルタだった。飯倉片町でキャンティを始める前に、川添夫妻は西新橋でイタリアン・レストランを開いていたのだが、その店の名も『マルタ』だった。1歳半の赤ん坊だったとはいえ、置き去りにしてしまった実の娘を思い出さない日は1日としてなかったに違いない。夫を亡くして傷心のタンタンが今回カンヌまでついてきたのは、少しでもローマに近づきたかったからかもしれない。

 翌日、タンタンの希望でラ・メール・ブッソンを訪れた。
「シローと一緒によく来たのよ」
 栗色の目の穏やかな奥さんが料理の腕を振るい、背の高い亭主と若い息子たちが給仕する小さなレストランだ。タンタンが選んでくれたのは魚のスープ、タンポポのサラダ、ルージェという小ぶりの赤い魚を焼いた料理だった。ワインはマルセイユ産のカシの白を注文した。
「これが典型的な南フランスの料理よ」とタンタンが言うと「まあ、おいしい。これは東京じゃ食べられないわね」と美奈子さんが相づちを打った。
 まだ夕食には早い時間で、客は僕たちだけだった。店主夫妻も横のテーブルに腰かけ、川添さんの思い出話を始めた。
「カンヌ映画祭でシローが応援していた『砂の女』は芸術的な映画だったねえ。日本にはあんな砂漠があるのかね。ちょっとカフカを思い出すシチュエーションだったなあ」と亭主がなかなか博識なところを見せて言った。
「原作者は安部公房さんという小説家で、川端さんに続いてノーベル文学賞を獲ってもおかしくないって誰かが言ってたわ。キャンティにもよくいらっしゃるのよ」とタンタンが説明した。
「安部さんには確かにカフカの影響があるよ。いきなり砂漠の蟻地獄の底にある家に閉じ込められて、未亡人と一緒に暮らさなきゃいけないなんて、普通は考えられない不条理な状況だよね。カフカの小説でいえば、起きたら虫になっていたっていうのと同じようなシチュエーションだな」と僕が口をはさんだ。フランス語でうまく説明できないところは英語で補い、それでも通じないニュアンスはタンタンが見事に通訳してくれた。
「これなら最初から日本語で話せばいいんだ」と僕が言ったら、みんなが笑った。
「私は蟻地獄の底に住んでいる砂の女なんてバカバカしいと思ったのよ、当時は。だって何の自由もないのよ。でもねえ、最近は分かる気がするのよ、砂の女の気持ちが。彼女は亭主も娘も亡くしてしまって、最後のとりでになったあの家を一人で守っているのよ。もしかしたら、砂の女は私かもしれないわね」
 冗談とも本気ともつかない調子でタンタンは言った。煙草に火を点けてはすぐに消し、また点けてすぐに消した。
「えっ、何、何? 梶子さんが砂の女なら、蟻地獄の家はキャンティってことになるじゃない?」と美奈子さんが茶々を入れた。
 僕はこの場合、どんなリアクションが最適なのか分からず、グラスに残っていたカシの白ワインを飲みほした。
 ラ・メール・ブッソンの抜群の料理人でもある奥さんが「私も『砂の女』は深みのある映画だと思ったわ。ちょっと難しかったけどね。でも『シェルブールの雨傘』みたいな甘ったるい映画じゃなくて、シローの映画がグランプリを取るべきだったのよ」ときっぱりと言った。博識の亭主がうなずいて拍手をした。
「あのね、映画の質はともかくとして、僕は『シェルブールの雨傘』の音楽は好きだな。少なくとも音楽は最高だと思った。あれ以来、ミシェル・ルグランに惚れこんじゃってね」と僕が言うと、夫妻はそれにも賛同してくれた。「おい、ルグランのレコードをかけてくれよ」と亭主が息子たちに告げ、兄が探しに行ったのだが、なかなか戻ってこない。
「じゃあ、これをかけてみて。B面から聴いてほしいんだ」と僕は日本から持参した1枚のドーナツ盤を弟に手渡した。チャンスがあったらいつでも売り込めるように最新作のレコードを鞄に入れて持ち歩いていたのだ。アルファが送り出した新人、赤い鳥のシングルだった。
〽今 私の願いごとが 叶うならば 翼がほしい
「いい曲ね。作詞はガミさん? 作曲は村井君でしょ。品が良くて、あなたらしいわ」と美奈子さんが言うと、博識の亭主が「子どもの頃に歌った讃美歌を思い出すな」と付け加えた。
「ああ、私も翼がほしいわ。本当に飛んでいきたい。ずーっと、ずーっと遠くまで。ねえ、翼があればどこまで飛べるかしらね」
 タンタンはそう言って横を向いたが、僕は彼女の涙を見逃さなかった。

 その夜、僕は一人でホテル・マルティネスのバーに出かけた。ここはMIDEMに参加している欧米のレコード会社や音楽出版社の連中、特に若手が毎夜集まることで知られていた。その夜は200人を超える若者がいたかもしれない。バーに入りきれない人たちがロビーにまであふれかえり、若い男女の話し声がワーンと大きな雑音になって聞こえる。朝の3時すぎまで自己紹介と友達の紹介を繰り返し、帰るころには友達の友達の、そのまた友達が数珠つなぎになって、みんなが知り合いになってしまうのだ。
 バーの片隅で、僕はマルタと再会した。
「やあ、マドモアゼル。昨晩は悪かったね。タンタンが急に黙ってしまってさ」
 マルタはイタリア語だけでなく、実は英語もフランス語も自在に操れることが分かった。僕らは英語で話した。
「ううん。事情は後で聞いたわ。ねえ、マダムに伝えて。本当は私、パパに会いたいって。ずっと会いたくて、パパのことを考えない日はなかったって。うそをついてごめんなさい。私、ずっと強がって生きてきたのよ。クニ、きっと伝えてね」
 彼女は古代ローマのコロッセオの壁みたいな茶色の瞳に涙を浮かべていた。

 僕は夜のクロワゼット大通りを大股でホテルに急いだ。風が強くなってきた。マジェスティックの白亜の建物の5階に1つだけ明かりが点いている。僕の隣の部屋だ。
 部屋に戻って窓を開けると、隣の広いバルコニーでタンタンが煙草をふかしていた。
「タンタン、まだ起きていたの?」
「あなた、私たちを置いてどこかに行っちゃうんだもの」
「MIDEMの若い連中が集まるバーに行ってくるって言ったじゃない」
 風がますます強くなった。南仏名物のミストラルというやつだろうか。
「あら、そうだったかしら」
 彼女はもう一本の煙草に火を点けようとするのだが、ミストラルにあおられてなかなかうまくいかない。ようやく点いた煙草をふかして、か細い声で歌った。
「悲しみのない 自由な空へ 翼はためかせ……」
 どうやら新曲を覚えてくれたようだ。
「ねえ、私、ここから飛べるかしら」
 タンタンはさっと煙草をもみ消して、いきなり手すりの上に身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 僕が手を伸ばしても隣のバルコニーまで届くはずもなかった。
「さ、さっきマルタに会ったよ。タンタンに言づてがあるんだ」
「マルタ? どこで?」
 タンタンは急に真顔になって言った。
「さっき行ってきたホテル・マルティネスのバーだよ。きのうの夜に会ったよね、エディの部下のイタリア系の女の子」
 僕は彼女を落ち着かせようとして、ゆっくり話した。自分の声が震えているのが分かった。
「言づてって、何?」
「本当はパパに会いたいって。毎日、パパのことを思わない日はないのに、ずっと強がって生きてきたって」と僕は一気に早口で言った。
 タンタンは僕を見たまま笑い始めた。
「あなた、そんなことを言うために戻ってきたの。きれいな娘だったじゃない。服のセンスも悪くない。一緒にカジノにでも行ってくればよかったのに」
 ミストラルが彼女の黒い髪とパジャマの上から羽織った毛皮のコートをはためかせている。
「あー、寒い。カンヌってこんなに寒かったかしらね」。風がひゅうひゅう鳴っていた。
「タンタン、もう寝た方がいい」
「あなたこそ、早く寝なさい」。彼女は部屋に戻ろうとして、もう一度こっちを見て言った。
「パリには車で行きましょう」
「えっ。航空券を3人分確保してあるのに?」
 やれやれ。またタンタンの気まぐれが始まった。急に車でどこかに行きたいと言い始めるのはこれが初めてではない。逆らっても僕に勝ち目などないことは経験上よく分かっていた。
「はいはい、分かりました。じゃあレンタカーを確保しておきます」
「あら、やけに素直じゃない」。彼女はまた煙草に火を点けようとするのだが、ミストラルがそれを許さない。
「タンタンは本当に車が好きなんだね」
「男の人みたいに車そのものに興味があるわけじゃないのよ」
 彼女は急に饒舌になった。
「あちこち旅するのが好きなの。シローと初めて会ったとき、吾妻徳穂さんたちと一緒に車でヨーロッパを回ったんだけどね、楽しかったな。アヅマカブキの公演が終わるでしょう。ホテルに泊まって、翌朝、目が覚めるとまたすぐに次の町に向けて出発するわけ。同じ場所にとどまっていないのよ。目の前の景色が毎日変わっていくのが、だんだん当たり前になってくるの。不思議な感覚だったわ。でも、私はあの旅で生まれ変わった気がしたのよ」
 イタリア人の夫の暴力から逃げ出したタンタンはローマの日本大使館にかくまわれていた。そこでプロデューサーとしてアヅマカブキの欧州公演に帯同していた川添浩史さんと出会ったのだった。人生のどん底にいたタンタンは、母国から来て別世界を見せてくれた紳士に自分の未来を預けたのだろう。
「カンヌからパリまで900キロ以上あるから、時速100キロで飛ばしても9時間はかかるよ。運転手は僕しかいないから、これは体力勝負だなあ」
「あなた、若いんだから大丈夫でしょ。しっかりしなさいよ」
「はい。じゃあ、おやすみ」

エピソード1
カンヌ #3

 翌々日、ダリオが中型のベンツを手配してくれた。
「ムッシュー・クニ、ずいぶん荷物が増えたねえ」
 ダリオの言う通り、もうトランクは満杯だ。昨日のマダム2人の買い物の量がすさまじかったからだ。しかし、どうしてもこのベンツで今日中にパリへ着かなければならない。やれやれ。
「よし、これで大丈夫だ」
 ダリオがベルボーイと3人がかりで美奈子さんの大きなスーツケースを3つともベンツの屋根にくくりつけてくれた。
「ありがとう、ダリオ。また来年のMIDEMに来るから、部屋を頼むよ。今度はたぶん1人だけだ」
 彼と握手して、僕はベンツをスタートさせた。タンタンが窓を開けると、ミモザの甘酸っぱい香りが車内に充満した。沿道の山側に立ち並ぶオリーブの木々が風に吹かれ、コート・ダジュールの陽光を浴びた無数の葉が銀白色に輝いていた。

「ねえ、ねえ、もっとスピード出せないの。これベンツでしょう。シトロエンにもあっさり抜かれちゃったじゃない」
 ようやくリヨンを過ぎた頃、美奈子さんが言った。
「これだけ荷物を積んでいるんだから無理だよ。美奈子さんのスーツケースを振り落としても良ければすっ飛ばすよ」
「ひとつでも落としてごらんなさい。そなた、切腹、ハラキリよ」と美奈子さんが歌舞伎のセリフのように言った。
「ねえ、ハラキリなんて物騒なこと言わないでよ。三島さんの事件を思い出しちゃうじゃない」とタンタンが主張した。三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地で割腹して果ててから、まだ2か月しかたっていなかった。
「三島さんは最近、ずっと変だったわね。明らかにおかしかった。以前はキャンティにもあの人を尊敬するお客さんがたくさんいたけど、だんだん敬遠されるようになっていった。そうそう、1年ぐらい前かな、丸山明宏さんがね、三島さんには二・二六事件の青年将校の霊が憑いているって言っていた。あの人、霊感があるって噂だけど、本当かもしれないわ」とタンタンが続けた。
「そういえば、タンタン、三島さんが松竹の永山さんと一緒にキャンティに現れたって聞いたけど」と噂話好きの美奈子さんが合いの手を入れた。
「永山常務、いらしたわよ。三島さんが亡くなる2か月ぐらい前だったかしら。2人きりで2時間ぐらい話し込んでいたわ。永山さんは三島さんの学習院の1年後輩だそうよ」
「僕はね、三島さんが自決する前の日か、前の前の日だったか、とにかく直前に三島さんに会ったよ」と僕はバックミラーを見ながら2人に言った。
「あら、本当?」
 美奈子さんが運転席まで身を乗り出して素っ頓狂な声を上げた。
「うん。六本木の俳優座の裏にミスティってジャズクラブがあるでしょ。その上の階に雀荘とサウナがあって、僕はよくサウナの方に行くんだけどさ、夜の遅い時間に1人で入っていたら来たんだよ、三島さんと森田必勝が。3畳ぐらいのサウナに三島さんと森田必勝と僕の3人だけだよ。想像できる? 参ったよ。2人ともものすごく興奮していて、異様な雰囲気だったなあ」
「あなた、よく生きて帰ってこられたわね」。タンタンが例の冗談とも本気ともつかない調子で言って、時速100キロで流れていく外の景色を見つめたまま「私、キャビアが食べたいわ」と続けた。
「えっ、キャ、キャビア?」
 僕は美奈子さんに負けない素っ頓狂な声を上げた。
「食べたいわ」
 タンタンが同じことを繰り返した。
 こんな田舎にキャビアなんてあるわけがないと思ったが、前方の案内板に「ボーヌまであと10キロ」と表示されているのを目にして、僕はひらめいた。ボーヌは有名なブルゴーニュワインの産地だから、きっとキャビアを出すレストランだって1軒や2軒はあるに違いない。高速を降りて町に入り、最初に見つけたレストランにベンツを止めて尋ねた。
「キャビア、あるって。さあ、降りて、降りて」
 そのときのタンタンの喜びようといったらなかった。あの童女のような無邪気な笑顔を見たら、誰だってわざわざ田舎町のレストランに立ち寄ったことを後悔などしないだろう。タンタンはそういう女性だった。

 店を出たところで雨が降り始めた。タンタンが定宿にしていたシャンゼリゼの裏にあるロード・バイロンというホテルに着いたのは夜の10時すぎだった。屋根に載せていた美奈子さんのスーツケースは3つともびしょ濡れになっていて、1つは中まで水が入ってしまった。僕はハラキリを覚悟したが、そこは大物の美奈子さんである。「まあ、雨だもの。仕方がないわね」の一言で済んでしまった。
「カンヌもいいけど、パリに来ると落ち着くのよ」。ホテルのロビーでタンタンが言った。「シローと何度一緒に来たか分からないわ」
「川添さんがパリに留学したのは昭和9年でしたよね。1934年」と僕が言うと、タンタンがまた饒舌になった。
「そう、1934年ね。あの人は21歳かな。モンパルナスがシローの縄張りでね。いろんな人と知り合ったって言っていたけど、詳しくは知らないの。だって、ちょっと妬けるじゃないの。でも、モンパルナスの経験があの人を大きくしたのは間違いないわね。もっと聞いておけばよかったわ。何があったのか」
「モンパルナスはキャンティのルーツでもあるってことですね」
 タンタンは小さくうなずいて、僕の目を正面から見てきっぱりと言った。
「ねえ、あなた、シローの歴史を調べてよ。あの人のことだから、きっとすごい経験をしているはずよ。何といっても後藤象二郎の孫なんだから。そんな人の歴史が埋もれてしまったらもったいないじゃない。あの人、本の1冊も書かずに逝ってしまったでしょう。あなた、頼むわよ。いつか必ず。約束よ」
 タンタンはその3年後に亡くなってしまった。

■村井邦彦(むらい・くにひこ)
1967年ヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。1969年音楽出版社・アルファミュージックを設立。1977年にはアルファレコードを設立し、荒井由実、YMO、赤い鳥、ガロ、サーカス、吉田美奈子など、多くのアーティストをプロデュース。「翼をください」、「虹と雪のバラード」、「エメラルドの伝説」、「白いサンゴ礁」、「夜と朝のあいだに」、「つばめが来る頃」、「スカイレストラン」ほか、数多くの作曲を手がけた。2017年に作家活動50周年を迎えた。

■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社文化部編集委員 
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。

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