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大林宣彦監督が映画界や社会に遺したもの その“フィロソフィー”から何を学ぶべきか

リアルサウンド

20/4/20(月) 10:00

 大林宣彦監督が、2020年4月10日に肺がんで亡くなった。『HOUSE/ハウス』(1977年)で長編映画デビューを果たして以来、日本でブームを巻き起こした『時をかける少女』(1983年)を含める、故郷を舞台にした「尾道三部作」など、最新作にして遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』まで、継続して多くの話題作や、個性的な映画作品を撮り続け、日本映画界で長く輝きを放った映画監督だ。

参考:『時をかける少女』追悼放送に寄せて 大林宣彦監督が作り手たちに与えた計り知れない影響

 しかし、大林監督はなぜそんなに長く時代を生き残ることができたのだろうか。ここでは、印象的な業績と、その作家性を振り返りながら、監督が映画界や社会に遺したもの、そして受け継がれるべきものについて考えていきたい。

 子ども時代の大林宣彦は、港町である尾道の家の蔵のなかに、フィルムや映写機があることを発見し、フィルムに絵を描いて遊んだり、切ってつないで編集しているうちに、映画製作を身体で覚えたという稀有な経験を持っている。そして、成城大学に入学した青年期以降は、映画スタジオや映画学校で徒弟的な映画づくりの伝統を覚えるのでなく、代わりに赤瀬川源平やオノ・ヨーコ、そしてドナルド・リチーなど、当時の若い前衛的なアーティストたちと親交を持って映像製作に取り組み、CMディレクターとなって第一の成功を収めている。

 劇場長編の第1作となった『HOUSE/ハウス』は、そんな大林監督の前衛的な野心や、子どもの頃の遊び心が最も強く発揮された作品だろう。あらゆる特殊効果を用いたり、しきりにフィルムを逆回転させたりと、とにかく遊びに遊んだ映像で、従来の映画ファンのなかでは不評を買った部分もあったが、当時はこのようなCM、ミュージックビデオのようなポップな表現は斬新なものだった。この作風は、その後の大林作品においても重要なものとなっている。

 それは、重厚な“映画らしさ”からは、一見離れているように感じられる。だが、同時に“映画らしさ”とは何なのかという問いも、そこに生まれてしまうのだ。現在の国内外のいろいろな映画作品を観ていると、特殊効果や凝った編集技術はいまや当然のように使用されている。それもまた映画の魅力の一部だったのである。大林監督は、そのような未開拓の分野に切り込んで、当時の日本映画に新しい風を吹き込んだ代表的存在だったのだ。

 このような役割は、かつて巨匠・市川崑監督が担っていた。市川監督は大林監督のふた回りほど上の年代で、アニメーション製作と実写映画の両方を手がける、当時としては珍しい監督だった。市川監督が、いかにも職人の監督やスタッフによって占められる、美術や撮影において随一といえる技術を持った大映のスタジオに招かれたとき、当初ベテランのスタッフたちは「漫画屋がきた」と陰で揶揄し、市川監督の指示に難色を示すこともあったという。

 だが、市川監督のアニメーションと実写を融合したような斬新なセンスは、新しい個性を大映にもたらし、日本の映画界に次々に新しいアイデアを加えることになった。そして、その後の東宝での活躍を含め、2000年代にもみずみずしい感性を保ち作品を発表し続けた。時代への対応を可能にした理由のひとつは、従来の重厚な映画の魅力と表層的なデザインセンスの2WAYを自在に引き出すことのできる能力である。

 大林監督も、そのようなふたつの能力を身につけていく。芸術映画を製作するATGでの作品『廃市』(1983年)では、福岡県柳川の運河を舞台に、これまでのポップな作風ではなく、しっとりとした文芸映画そのものの作品を仕上げたように、繊細な演出で押し切るだけの力があることを見せつけることになる。

 『廃市』は高い評価を得ている作品だが、筆者は不満を覚える部分もある。それは、大林監督らしい遊びが見られない点だ。このような作品は、大林監督以外の監督でも手がけることが可能なのではないのか。

 一方、『時をかける少女』などの「尾道三部作」は、尾道の古い家並みを印象的に切り取りながら、ポップさと文芸的な雰囲気を重なり合わされている。そして、大林監督ならではの、水と油が分離したまま混在するかのような不思議な魅力と、強烈な個性を放つ作風が出来上がっていったのである。

 市川崑監督が、いつまでも時代に対応し続けられた大きな理由は、もうひとつある。それは、目先の流行に左右されず、自分の考えを大事にしたところだ。『子猫物語』(1986年)など、いくつかの映画で市川監督と仕事をした詩人の谷川俊太郎は、市川監督は哲学性を大事にしていたと述べている。映画で谷川の詩を使用するとき、それを採用するかどうかの基準は、耳障りのいい言葉や華麗なレトリックがあることでなく、そこに作品に関連した深い哲学があるかどうかを重要視したというのだ。市川監督は、役者のアドリブを極度に嫌った。それは練り込まれたセリフのなかに、自分の哲学的意図を染み込ませていたからなのだ。

 大林監督は、NHK Eテレの番組『最後の講義』のなかで、若い学生たちに向け、もし自分の人生最後の日に伝えたいことがあるなら何かという題に対して、奇しくも「映画はフィロソフィー(哲学)である」と発言している。何より、まずはじめに伝えたい哲学があり、それをどう伝えるのかが技術なのだと。

 晩年、大林監督は『この空の花 長岡花火物語』(2012年)や『野のなななのか』(2014年)など、『HOUSE/ハウス』の頃に戻ったような強烈な演出で、ストレートに反戦を訴える作品を手がけ続けることになった。大林監督が何としても観客に伝えたいと思った哲学は、戦争にまつわる、政治性を色濃く反映したものだったのだ。

 著書『大林宣彦 戦争などいらない‐未来を紡ぐ映画を』(平凡社)のなかで、大林監督は、日本アニメーション界の巨匠・高畑勲監督との晩年の交流について、このように述べている。

「高畑さんとは旧知の仲でしたが、同志ともいえるほど仲良くなったのは、二〇一四年に、高畑さんは『かぐや姫の物語』、ぼくは『野のなななのか』で日本映画功労賞をいただいた席でご一緒してからです。帰りに久々に食事でもしましょうかねとなって、お互いに何となく「うかつでしたね。うかつでしたね」という言葉が出てきました。「ぼくたちがあまりにもうかつで、この国が戦争をすることはもう二度とないだろうと思っていた。うかつにも高をくくって、意識的ノンポリとして生きてきた。そのことが日本をまた戦争に向かう国にしてしまった。これはぼくたちの責任だね」と話し合いました。それから高畑さんとぼくは離れがたいパートナー意識で共に生きてきたんです」

 じつは大林監督は、『HOUSE/ハウス』の時点で太平洋戦争の要素を出していた。その後も商業作品のなかで、原爆のイメージを使うなど、戦争の惨禍を扱ってきたのは確かなのだ。しかしそれは、晩年の大林監督にとっては「うかつ」なことだったらしい。

 高畑勲監督もまた、太平洋戦争を扱った『火垂るの墓』(1988年)が、これからの戦争を止めるための作品にはなり得ていないのではないかと、2015年に神奈川新聞の記事の中で、こう振り返っている。

「なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」

 つまり、大林監督が「うかつ」と表現し、高畑監督が悲観的に振り返ったのは、時の権力者によって都合の良いように解釈される余地のある作品を作ってしまったということになるだろう。日本人の多くが、高畑作品や大林作品に親しみ、愛情を持っている。にも関わらず、彼らの哲学に反し、いまの社会は、大林監督が『ねらわれた学園』(1981年)や、高畑監督が『火垂るの墓』を発表した当時よりも、確実に戦争の方向に向かっているのだ。

 大林監督は、そのうかつさを取り戻すように、最後の仕事として、晩年の一連の作品で反戦をストレートに訴え続けた。いままで培った特殊効果や文芸的な演出などの技術を、すべて駆使して。それが大林監督の行き着いた境地であり、自分が映画監督であることの意味であった。

 2016年に撮影が始まった『花筐/HANAGATAMI』の制作時に、余命数ヶ月を宣告されていたことを考えると、そこから2本もの映画作品を完成させたことは、まさに奇跡である。それは大林監督が、どうしても自らのフィロソフィーを伝えねばならないという執念があったためだろう。

 クリエイターを含め、メディアも芸能人も、そして市民も、日本社会は海外と比べて政治的な発言を避け、立場や意見を表明することを嫌う傾向が強い。しかし、多くの人々が声をあげず、曖昧な態度を取り続けていることで、日本はかつて道を誤ったのではなかったろうか。大林監督は、そんな空気のなかで、自分のフィロソフィーを掲げ、渾身の力でメッセージを届けた。大林監督のそんな姿勢と勇気、そして自分自身の哲学を持つことこそ、われわれは大林作品から受け取っていかなければならないのではないか。(小野寺系)

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