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『鬼滅の刃』評論家座談会【前篇】「現代におけるヒーローとヒールをちゃんと描いた」

リアルサウンド

20/7/15(水) 8:00

 近年稀に見る超大ヒットで、一躍時代を代表する少年漫画の一つとなった『鬼滅の刃』。5月18日発売の『週刊少年ジャンプ24号』にて最終回を迎えた現在もファンの熱は冷めやらぬ状況で、新刊やスピンオフ小説、新作映画などが大きな注目を集めている。いったいなぜ『鬼滅の刃』はこれほどまでに人々の心を惹きつけるのか?

参考:『鬼滅の刃』をさらに深掘りするためにーー物語や伝説における「鬼」とは何かを考える

 リアルサウンド ブックでは、漫画編集者の島田一志氏、ドラマ評論家の成馬零一氏、書評家の倉本さおり氏による『鬼滅の刃』座談会を開催。前篇では、『鬼滅の刃』最終回への率直な感想から、好きなキャラクターについてまで、大いに語り合った。(編集部)

※本稿にはネタバレがあります。

■『鬼滅の刃』はヒーローとヒールをちゃんと描いた

成馬:『鬼滅の刃』の最終回はきれいに終わりましたね。個人的な好みで言うと、もう一波乱あっても良かったと思うのですが、大メジャー雑誌のジャンプに掲載されている漫画が、自分の好みどおりに終わることは滅多にないので、そこはまぁ、納得しているという感じです。倉本さんは最終回をどう読みましたか?

倉本:私は、むしろこんなに丁寧にウィニングランをやるんだなと思いました。ジャンプ作品は人気のある作品でも場合によっては打ち切りみたいな感じで駆け足で終わってしまうケースも多いです。でも、近年では例えば『NARUTO -ナルト-』などは、どのキャラクターがカップリングして、どんな家族を形成したのかまで描いている。長期連載で枝を広げすぎた作品だからこその終わり方だと思っていたので、『鬼滅の刃』がこういう終わり方をしたのは少し意外でした。とはいえ、ネットでの評判を読むと、その後の話をもっとちゃんと描いてほしいとの声も少なくなくて。もしかすると今の読者は、『NARUTO -ナルト-』とか『BLEACH』くらい、誰と誰がどうくっついたのかまではっきり描ききってほしいのかなと思いました。

成馬:最終話は独立した短編みたいでしたね。炭治郎たちの時代から世代を経て、生まれ変わったらしき人も何人かいるけど、具体的な説明は省かれているので、少しわかりにくいかもしれませんね。生まれ代わりの中には初期に登場したキャラクターも混ざっていたので、内容を理解するために、何度も読み返しました。

島田:私は編集者なので、どうしてもそちら側の立ち場でものを考えてしまうんですけど、ジャンプ編集部はよく人気絶頂の中で終わらせたなと感心しました。プロデュースする側としては、せめて秋の劇場版の公開までは、なんとか連載を引っ張りたいと思うのが普通の感覚でしょう? でも、きっと吾峠先生が最初に描きたいと思ったことは、最終回の内容も含め、すべてやりきったんでしょうね。その潔さは本当にかっこいい。で、これは完全に私の妄想になるのですが、クライマックスで禰豆子が無惨の器になって……つまり、「最強にして最後の鬼」になって鬼殺隊を殲滅(せんめつ)する、という絶望的なラストもあったかなと(笑)。でも、そうはならずにちゃんと正義が貫かれたところにジャンプイズムがあったと思いますし、あれだけの惨劇の後に、能天気な現代劇が描かれるエンディングもひとつの“らしさ”なのかなと。

成馬:自分の好みと違ったのは、やはりその辺で、完全に鬼がいない世界になってしまったことにモヤっとしました。例えば、生まれ変わりの中に鬼舞辻無惨が混ざっていたら、個人的には納得できたのですが、鬼側は全員、成仏して鬼のいない世界になっている。唯一、愈史郎だけは生き延びていますが、彼は人間側で戦った鬼なので立ち位置が違いますよね。最後に鬼と人間の世界をはっきりと分けたのが、個人的には意外でした。例えば冨樫義博先生なら、人間と鬼の世界が最後に融合する姿を描くと思うんですよ。『幽遊白書』なら人間と妖怪、『レベルE』なら人間と宇宙人、『HUNTER×HUNTER』なら人間とキメラアントという、人間と人間以外の生物の衝突からはじまり、双方の世界が融合して、善悪の境界が曖昧になることが、最終的な落としどころになる。最近のジャンプ漫画でいうと、『呪術廻戦』や『チェンソーマン』も、基本的にそのような倫理観で描かれていると感じます。だから、終盤で無惨と炭治郎が融合しそうになった時は、驚くと同時にある種の必然だなぁと思って「このまま炭治郎が無惨と融合して鬼と人間の中間に存在になって、現代編になるのかな?」と思ったので、逆にそうならなかったことに驚きました。

倉本:吾峠先生が大きな影響を受けたという『ジョジョの奇妙な冒険』の第一部は、そういう展開になりましたよね。吾峠先生の短編集『吾峠呼世短編集』を読むと、「蠅庭のジグザク」という話では「人間ってそう簡単に悔い改めたりしないですよね」なんてセリフもあるくらいで、単純な善悪の二元論の物語ではありませんでした。ジャンプに読み切りとして掲載されたとき、そういう作風に触れて「なんて大人な漫画だろう」と感じていたので、その意味でも『鬼滅の刃』は意外な作品で。

成馬:ジョジョもシリーズを重ねるごとに善と悪の融合へと話が向かうんですよね。第一部で敵対関係にあったジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドーは、第三部でディオがジョナサンの肉体を奪い一体化しますし、第五部のジョルノ・ジョバァーナはディオ(肉体はジョナサン)の血を引いている。現在連載中の『ジョジョリオン』は、一種のパラレルワールドで、過去に『ジョジョ』に登場したキャラクターと名前が似たキャラクターが多数登場するのですが、主人公の東方定助は、吉良吉影と空条仗世文が融合した存在とされていて、第4部の悪役とジョジョが融合している。善と悪の融合は、人間が悪魔と合体して悪魔人間となる『デビルマン』以降、設定としても物語の落とし所としても、少年マンガのスタンダードになっていると思うのですが『鬼滅の刃』は最終的にそうならなかった。それが逆に新鮮で、だからこそ大ヒットしたのかもしれません。

倉本:それは、なんとなく感じます。『鬼滅の刃』は大学生にも大人気で、私が持っている授業の中で「桃太郎は鬼退治に行きました」という一文を膨らませてお話を作るという課題を出したところ、桃太郎が鬼に反転するとか、本当は鬼も悪いやつじゃなかったといった話が多くて、「鬼=絶対退治すべきもの」というパターンで作られた話はほとんどなかったんです。今の若い世代にとっては、鬼退治が所与の正義として受け入れられないからこそ、『鬼滅の刃』に考えさせられる部分は大きいのかもしれません。

島田:たしかに、これまで『デビルマン』をはじめとした数多くの漫画が善と悪の融合や逆転を描いてきましたから、そういう感覚は日本の少年少女に自然と刷り込まれているのかもしれませんね。ご存じのように、鬼殺隊のほとんどの隊士たちのモチベーションには、家族を鬼に殺されたというような「復讐心」が根本にあるわけですけど、その意味では彼らもある種の「鬼」なんですよね。つまり、この漫画では基本的に「鬼と鬼が戦っている」という構造があって、どちらの鬼にもそれぞれの事情があるとしつつも、最終的に「悪は悪」として描き切っています。

 少し話はズレるのですが、私は日本の少年漫画や青年漫画は、性と暴力の表現に手を抜かなかったからこそ進化・発展したのだと考えています。そもそもその手のジャンルの開拓者は手塚治虫先生なんですけど、手塚先生は、そういうものこそが、大衆が最も見たいものなんだということを知っていたんですね。『鬼滅の刃』は直接的な性描写こそないものの、暴力の描写はものすごくて、同作から炭治郎や煉獄杏寿郎のような一部の「まっすぐな」キャラを除外して考えてみたら、とてつもなくグロテスクで残酷な漫画になる。たとえば、胡蝶しのぶが殺されるシーンなんて、子供にとってはトラウマになると思うんですよ。でも、私の場合『デビルマン』がそうだったように、トラウマになるほどの激しい暴力表現というものは、逆に読み手に「正しいことは何か」ということを考えさせるものだと思いますし、そこを高く評価したいです。

成馬:僕の『鬼滅の刃』に対する評価はシンプルで、現代におけるヒーローとヒールをちゃんと描いたことがすごかったと思うんです。つまり、「何が正しくて何が間違っているか」という善悪を物語の中で描ききった。炭治郎と無惨の対比はすごく古典的なものですが、その古さが、一回りして新しい価値観となって、多くの読者に受け入れられた。その倫理観が、震災を経て、現在のコロナ禍の社会で生きる人々に訴えかけるものがあったのかなと思います。言い換えるなら、人々は“正しさ”に飢えているところがあって、その期待に応えたのが『鬼滅の刃』であり、炭治郎というキャラクターだった。

倉本:オールドジャンプを読んで育った世代としては、炭治郎のすがすがしいほどのスポ根ぶりにどうしても惹かれてしまう部分があるのですが、この令和の時代に根性論で進んでいく感じは新鮮にも感じられて。炭治郎は善逸や伊之助や禰豆子に対して「頑張れ!」って一生懸命に応援しているだけじゃなく、自分自身に対しても「頑張れ炭治郎頑張れ!」って応援する。それはスパルタのように、他者に同じ労働を強いるのとはちょっと違うんですよね。蝶屋敷の神崎アオイは鬼殺隊に入ったものの怖くて戦えなくてサポートに徹しているんだけれど、炭治郎は「人にはそれぞれ持ち場があるから、戦えない人は戦わなくていい」という感じで肯定していく。その肯定力こそが、人々に求められている部分なのかなと思っていました。

■『鬼滅の刃』の登場人物は、人の話を聞かない

島田:剣士以外のプロフェッショナルの「生き様」が描かれているのも、『鬼滅の刃』の面白いところですよね。「育手」から「隠」にいたるまで、鬼殺隊の活動を支えるシステムがちゃんと考え抜かれていて、刀鍛治のことも魅力的に描かれている。前線で体を張っている連中だけじゃなく、それを支える人々も同じくら偉いんだと肯定的に描くところに、現代社会の縮図があるというか。

倉本:刀鍛冶の里のエピソードはどれも大好きです。『鬼滅の刃』の登場人物って、ちょっとへんなところがあるというか、基本的に人の話を聞かないタイプばかりで、みんな好き勝手に動いているのが良いんですよね。彼の周りの人もそんな感じで、小鉄くんっていう少年がいるじゃないですか? 刀鍛冶の里で炭治郎の稽古につきあっているうちに、たまたま伝説の刀を見つけて「うひゃー」となるシーンなんですけど、そこで炭治郎と小鉄くんがなぜか組体操をしながら状況説明している(笑)。私はそこにこそ吾峠先生の真骨頂があると思っています。要は、ストーリーとは関係ないところで、登場人物がそれぞれ勝手に動いている。

成馬:「人の話を聞かない」というのは、この作品の本質かもしれませんね。善逸にしても伊之助にしても、全く人の話を聞かないで、ギャーギャー騒いで好き勝手に行動している(笑)。

倉本:炭治郎が所属する鬼殺隊の中で「柱」と呼ばれている、上層部の人間たちが集まる最初の会議のときなんて、鬼になった禰豆子を匿っていた炭治郎の処遇を決める大事な場面なのに、みんなてんでバラバラのことを考えています。その後の話し合いでも全然話が噛み合っていなくて。

成馬:噛み合ってないけれど「まぁ、別にいいか」っていう感じがありますよね。鬼殺隊に入った動機を甘露寺が話している時の炭治郎の反応がすごく好きで「大丈夫だ炭治郎」「これを聞いた者はみんな同じ気持ちになっている」っていう作者のツッコミが入るのもいいですよね。コミュニケーションが成立してないんだけど、それはそれで心地いい。そういうことは現実でもよくありますよね。一方で、無惨と十二鬼月の方は、殺伐としているけど、意思の疎通はできている。

倉本:『鬼滅の刃』の現代性は、そこに集約されると思います。鬼たちの組織のほうは、ある意味ではきっちり統制が取れている反面、パワハラ・モラハラがむちゃくちゃ横行しているという。

島田:炭治郎たちの普段の噛み合わないやりとりを見ていると、逆に戦闘のとき、本来は組むはずのないようなキャラ同士が組んだ瞬間のカタルシスというものがありますよね。時透無一郎が炭治郎に初めて心を開いたときなどもそうだと思うし、ジャンプの他の名作に例えて言えば、『ドラゴンボール』で悟空とベジータが組むとか、あるいは『スラムダンク』で流川のパスが桜木に通る瞬間とか、そういうカタルシス。伊黒や不死川のような、それまで炭治郎とあまり仲のよくなかった柱たちがともに戦う最後の無惨戦は、その面白さが大いに味わえました。あの伊黒が、口では「足手纏いの厄介者」とか言いつつ、傷ついている炭治郎をしっかりガードしてる様子とか(笑)。

成馬:一方で、炭治郎だけは人の話を聞いて、ちゃんと相手と向き合おうとしている。アオイのことを肯定するシーンもそうですけれど、蝶屋敷の小さい女の子三人組のことも「なほちゃん、きよちゃん、すみちゃん」と、ちゃんと名前で呼ぶんですよね。そこが善逸たちと違うところで、彼は三人組のことを「女の子たち」と性別だけで認識しているし、伊之助にいたってはそれ以前。炭治郎の名前も、しょっちゅう間違えるし、勝手にあだ名を付けたりする。

倉本:そういえばヒラ隊士の村田が、同期でもある水柱の冨岡さんが自分の名前覚えていてくれたことに感動する場面もありましたよね。

成馬:人の名前をどう呼ぶかって、コミュニケーションにおけるもっとも大事な部分ですが、この漫画は、名前に対するアプローチの違いでキャラクターの違いを描いている。炭治郎は、誰に対しても「名前のある個人」として接しているんですよね。吾峠先生は末端のキャラクターも名前をちゃんと付けていて、事後処理部隊「隠」の後藤さんとか、普通の漫画ならモブキャラとして描かれる存在も丁寧に描いている。そして、そういう末端のキャラクターとも別け隔てなく仲良くなるのが炭治郎のヒーロー性で、そういうやりとりをさりげなく見せることで、彼の魅力を描いている。その逆が無惨ですよね。彼が見せる部下に対する態度がいちいち酷くて、リーダーとしては全く尊敬できない。挙句の果てには「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え」なんて言う。少し前に「俺はコロナだぞ!」と言って騒ぎを起こす“俺コロナおじさん”が多発したことがニュースになりましたが、コロナという世界規模のパンデミックに自分を同一化しているようで、とても傲慢なものを感じます。それは逆説的に「すごく人間的」だとも言えるのですが、自分を天変地異と同じものだと語る無惨の姿と、どこか重なるんですよね。その意味でも現代的な悪のあり方だと思うんです。炭治郎の善と無惨の悪が両極に配置して、鬼殺隊と十二鬼月という組織の対比を描く構造は、すごくよくできていると思います。

倉本:最終回の一つ前の回で、炭治郎と禰豆子と善逸と伊之助の四人で、炭治郎の家に帰って終わるじゃないですか。これまでのヒーローだったら、例えばナルトみたいに最終的に里の長になったりするのが、ある種の定型の像だったと思うんですけど、炭治郎たちは一介の村人に戻っていく。最終回でも、キャラクターたちはそれぞれ一般人として平和を享受していて、そこが現代的ですごく良い。常人離れした強さを身につけたからといって、それが勲章になるわけではなく、みんなあっさりと手放している。実際の人生では、蓄積した強さをどこかで手放さなければいけない瞬間が出てくるじゃないですか。日本の企業で年功序列がなくなって、多くの人がステップアップできるわけではない昨今では、炭治郎たちの強さに執着しない態度は、よりリアリティを持って受け止められるのかなと。

成馬:鬼殺隊と十二鬼月の戦いは「継承」と「個人の永遠」という組織観の衝突ですよね。後続の世代に志を引き継いでいった鬼殺隊と、永遠を志向する個人主義者の集まりである十二鬼月が戦い、最終的に鬼殺隊が勝つという物語になっている。また、炭治郎が不死川玄弥に「一番弱い人が一番可能性を持ってるんだよ」と言う場面があるのですが、この価値観もまた、『鬼滅の刃』という作品の根幹にあるもので、新しかったことだと思います。例えば『ドラゴンボール』の登場人物はどんどん強くなっていくのですが、どちらかというと「個人の永遠」を志向していると思うんです。

倉本:悟空なんてまさにそうですよね。

島田:煉獄が言ったセリフが多くの読者の心に響いたのも、そこじゃないですかね。限りある一生を懸命に生きる存在がいちばん美しいのだという。

倉本:煉獄さんと上弦の参の戦いでは、最初は煉獄さんが優勢だったのが、人間ゆえにだんだん疲れてきて苦戦することになって、上弦の参に「鬼の世界に来ないか」と誘われていましたよね。でも、鬼たちが誇る永続的な強さに対して、煉獄さんはノーを突きつけるわけで。それは先ほど言った「強さに執着しない態度」とも繋がってくる価値観なのかなと。

■『鬼滅の刃』は感情で戦うバトル漫画

島田:煉獄の話が出てきたところで、月並みではありますが(笑)、好きなキャラについても話したいのですが、おふたりは誰が好きですか?

倉本:私は、先ほど話に出てきた事後処理部隊「隠」の後藤さんが好きです。

成馬:思いっきり被りました(笑)。僕も後藤さんです。

倉本:後藤さんの登場シーンで印象的なのは、炭治郎がはじめての上弦の鬼とのタフな戦いが終わった後、ずっと蝶屋敷で寝込んでいて、ようやく目が覚めたときのこと。そばで看病していたカナヲちゃんがすごく喜ぶんだけれど、彼女は極端に口数が少ないから、そこで誰にも知らせないで自己完結しちゃう。そこに後藤さんが来て「意識戻ってんじゃねーか!! もっと騒げやアアア!!!」って怒るんです。アオイや他のみんなも心配してたんだからって。後藤さんからすれば、炭治郎もカナヲも自分より階級が上なんですが、でもそういうところは大人としてちゃんと叱るからね、みたいな感じで諭していて、強さだけが物事の尺度になっていないのが良いなと。

成馬:僕もまったく同じで、あのシーンが好きでした。絶対に被らないと思ったのに(笑)。そうか、みんなあのシーン好きなんだなぁ……。

倉本:じゃあ、後藤さんは成馬さんに譲ります(笑)。私はなんだかんだ一推しは炭治郎かもしれない。無限列車編の中で、みんなの深層心理を見せられるシーンがあったじゃないですか。そのときの炭治郎の深層心理の世界がめちゃくちゃ澄んでいて、しかもあったかくて、鬼の手先として入り込んだ人間がそのあまりの美しさに心が折られるというエピソードがあるのですが、私、大人なのにそこで号泣しちゃったんですよね……たぶん疲れてるんだと思うんですけど(笑)。こんなふうに、視覚的に主人公の心の美しさを描いた漫画って、意外となかったように思います。バトル系の少年漫画の主人公って、例えば『ドラゴンボール』の悟空とか『HUNTER×HUNTER』のゴンなんかを見ると、実は性格的な部分が希薄というか、戦闘がすべてみたいなのっぺりしたところがあるけれど、炭治郎はそれとはまた違う、ありそうでなかった主人公の姿なんじゃないかなと。

島田:悟空のあの性格は、サイヤ人の習性ですから仕方がないです(笑)。

成馬:炭治郎みたいなタイプの主人公って、もしかしたら『鉄腕アトム』くらいまで戻らないとあまりいないかもしれませんね。島田さんは誰が好きですか?

島田:私は柱は全員好きなんですけど、それ以外で言うと伊之助かなあ。実は漫画のキャラとしては、炭治郎よりも脇にいる善逸や伊之助の方が主人公っぽいでしょう? 弱虫だけど本当は強い心を持った少年が成長していくとか、山で獣に育てられた子供が人間の心を知っていくというのは、いずれも少年漫画の王道的な主人公のパターンです。でも、あえてそういうキャラを真ん中に立てずに、主人公の両脇に置いた吾峠先生もすごいと思いますけど、個人的にはやっぱり、伊之助になぜか惹かれますね。特に、カナヲと一緒に上弦の弐・童磨と戦うシーンが印象に残ってて、たぶん、あのバトルはカナヲだけだったら勝てなかったんじゃないかと思います。あのシーンでは、窮地に立たされているカナヲの前にいきなり現れて、「ボロボロじゃねーか 何してんだ!! 怪我したら お前アレだぞ しのぶが怒るぞ!!」って、伊之助のくせに(笑)、しのぶのことを「しのぶ」と正しい名前で呼んで、カナヲを鼓舞する。あの戦いはしのぶの弔い合戦でもあったと思うんですけど、あそこでの伊之助の態度にはシビれました。

倉本:炭治郎の名前さえ堂々と間違えていたあの伊之助が……と思うと、グッときますよね。

成馬:そもそも伊之助、鬼殺隊の隊員と力比べして刀を奪って、育出の元でちゃんとした修行をせずに鬼殺隊に入りましたからね。「獣(けだもの)の呼吸」も完全に自己流ですし。伊之助を見ていて思い出すのは『魁!!男塾』の虎丸龍次。拳法の達人たちが勢揃いしている中、猛虎流拳法という自己流の拳法で戦っていて、動きもめちゃくちゃ(笑)。

倉本:『鬼滅の刃』の中に『魁!!男塾』的な魅力を感じる中高年の読者は、少なからずいるみたいですね。

成馬:バトル漫画としては一世代前に戻っていると思うんですよ。『ジョジョの奇妙な冒険』で言うと第二部。ジャンプのバトル漫画の現在の主流は『ジョジョ』第三部から派生した異能力バトルで、戦いのルールがすごく複雑化していたので、『鬼滅の刃』のシンプルさは逆に新鮮でした。最後の無限城での戦いも『聖闘士星矢』の十二宮編みたいで、今どき珍しいトーナメントバトル的な流れだった。だからこそ、大人が読んでも既視感があって「昔読んだあの漫画に似ている」と、懐かしさを感じた人も多かったのかなと。バトルではモノローグが多用されるのですが、見せたいのは炭治郎たちが感情で戦っている部分であって、バトルのゲーム性にはあまり興味がないのかなぁと思います。だから「呼吸法」の概念も凄くざっくりしている。

島田:「水の呼吸」とか「炎の呼吸」とか色々とあるけれど、明確にどんな違いがあるのか、その原理みたいなところまではよくわからないですよね。特に「恋の呼吸」にいたっては、それって戦闘の技なのかという(笑)。

成馬:『リングにかけろ』の「ギャラクティカマグナム」みたいな感じで「理屈はよくわからないけれど、とにかく強いんだ!」ということだけは伝わってくる。その意味でも『鬼滅の刃』は、懐かしくも新しい漫画だったのかなと思います。(松田広宣)

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