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綾野剛が見た一筋の光「息苦しくなったら、空を見上げてみればいい」

ぴあ

19/10/21(月) 18:00

綾野剛 撮影/奥田耕平

青田に囲まれたY字路で、ある日、少女がいなくなった。懸命な捜索も空しく、少女の行方は知れぬまま12年の時が経過。そして、またあのY字路で少女が姿を消したという。渦巻く疑念。噴き出す怒り。10月18日から公開の映画『楽園』は、孤独と喪失を抱えた人々の悲しみと一筋の光を描いたヒューマンサスペンスだ。少女失踪事件の容疑を向けられる青年・豪士〈たけし〉を、綾野剛が演じている。

「豪士はずっと人の目を感じることなく生きてきたんだと思います。なぜなら、誰にも見つめられてこなかったから。人から見つめられないのは、存在しないのと同じ。だから、怒りも苦しみも何もなかったんだと思います」

綾野が演じた豪士は、外国で生まれ育ち、母親と共に日本に渡ってきた移民だ。しかし、地域の生活に溶け込んではおらず、心許せる友達もいない。

「村の人たちは誰も豪士のことなんて知らないし興味もない。豪士にとっては誰かと何かを比べることもできない状態です。比べる対象がいないから、愛とか不幸とか孤独を感じることもない。きっと自発的に“生きている”感覚はなかった。ただ“生かされている”という方が近いのかもしれません」

そんな豪士を、見つめてくれる人がいた。

「それが、少女失踪事件で消息を絶った愛華ちゃんと、その友人の紡〈つむぎ〉(杉咲花)です。見つめられることは、自分はここにいるんだという存在証明になる。12年前、誰にも見つめられたことのなかった豪士は、初めて愛華ちゃんに見つめられた。そして12年経って、今度は紡が見つめてくれた。ふたりに見つめられた瞬間だけ、ずっと“生かされている”だけだった豪士が“生きている”という気持ちになれたんだと思います」

それは、ずっと暗がりを歩いてきた豪士にとって、一筋の光だった。

「体温が上がってくる感じというか、自分の中にちゃんと血が流れているんだと体感できた。つまりそれは明日が来るということ。それこそが、豪士にとっての“楽園”だったんじゃないかという気がします」

事件直前まで愛華と一緒にいた紡は、誰とも分かち合えない罪悪感を抱えたまま、12年の時を過ごしてきた。豪士は、愛華ちゃんがいなくなってからの12年を、どのように過ごしたのだろうか。そう尋ねると、綾野は間髪入れずに切り出した。

「何も変わらないです。T字路で車から降りるシーンで、紡から『どこか行きたいですか?』と聞かれて、『どこへ行っても同じ』と答えるところがあります。あそこにすべてが込められていて。豪士も紡も、変化を選択していい人間じゃないと思って生きているんです。ふたりは圧倒的に底辺。だからこそ理解し合えた、愛華ちゃんという人物を通じて」

私たちが生きる社会にも、豪士や紡のような人はいる。真面目に生きようとしているだけなのに、集団からはじき出されて、まるでいないものとして見なされている人が。そんな孤独の淵に立たされている人たちの存在に、私たちは気づいてあげなければならない、と綾野剛は声をあげる。

「豪士だけじゃなく、紡も、佐藤浩市さんが演じた善次郎も、ただただ罵声を浴びせられて、それをひたすら受け止めているだけ。そういう人って身近にいると思うんです。だから僕は、まずそういう人たちの存在に気づいてあげたいし、抱きしめてあげたい。まっとうに生きている人たちが、誰からも見つめられていないと感じるなら、僕がその人を見つめてあげたい」

抱きしめてあげたい。その言葉は、豪士を演じる上で重要なキーワードだった。劇中、一部、スタントを用いる危険なシーンが含まれているのだが、そのとき、綾野はスタントを務めるアクション部の俳優にこんなお願いをした。

「手を広げて倒れるような、そういうお芝居はやめてください、とお願いしました。そうじゃなくて、自分のことを抱きしめてほしいと。ずっと誰からも抱きしめられなかった豪士だからこそ、あの瞬間だけはせめて自分で自分のことを抱きしめてあげてほしかったんです」

そこまでひと息で明かしてから、自分で自分に注釈をつけるように、綾野はこう付け加えた。

「とは言え、実際の僕は豪士の暮らしとは全然違う。それなりの生活をさせてもらっていますし、スポットライトも当ててもらっている。そんな自分が、彼らの代弁者になれるはずがないと。綺麗事なのだとも思います」

俳優・綾野剛は、表舞台に立つ人間として、常に世の中から見つめられている存在だ。だから、見つめられたことのない人間の苦しみを、当事者として語ることはできない。その正直さに、綾野剛の思慮深い人柄が垣間見える。

「自分が浴びている歓声が、ある日突然罵声に変わることがあるのもわかっている。想像するだけで身震いするほど怖い。でも、僕の場合は、それさえも全部エサだと思える。罵声も全部栄養。そう言い切れるだけ、僕は体質的に強いのかもしれません。欠落とも言える。同時に自分のように強くなれない人がたくさんいることはよくわかっています。だから強くない人がいたら、やっぱり僕は抱きしめたいです」

本来の自分とはかけ離れた役だ。どう共感の接点を結び、役に近づいていくのか。その問いに、綾野は「僕は役に対して共感したことがない」と持論を述べた。

「むしろ共感という感情は邪魔なんです。だって、それは綾野剛の主観でしかないから」

では、綾野剛が役を生きるときに最も大切にしているものは何か。綾野の答えに、迷いはない。

「自分がいちばんその役を愛してあげること。僕、これまでトータル3000人ぐらいは役で人を殺していますけど、それでも自分の演じる役を愛せなかったことはない。もちろん人を殺すこと自体は肯定できません。ちゃんといけないって否定する。その上で、愛する。それはもう共感を超えている」

綾野剛は今や「この人が出ている作品は面白い」と映画ファンから信頼を寄せられる俳優のひとりだ。しかし、作品選びの基準は、基本的に「オファーが来た順」だという。それだけオープンな姿勢でいながら、刺激的な作品に次々と出演している理由はどこにあるのか。そこに見えるのは、綾野独特の感性だ。

「台本を読んだときに、役に乗っかって生きた気持ちになれるものとなれないものがあります。僕は、生きた気持ちになれない台本に出演したいと思っています」

読んでいて生きた気持ちになれる台本が、いい台本なんだと勝手に思い込んでいた。だからこそ、綾野の答えに意表を突かれた。

「活字上で生きられたら、現場に行って何があるのよ、という話です。そうじゃなくて、台本を読んでも、これをどうやって生きたらいいのか見当もつかないぐらいの方が、いざ現場に行ったときに、ロケーションが共演者となって、いろんな発見をくれるんです」

この映画もそうだった。ロケ地のY字路に立ったとき、綾野は「覚悟を決めさせられた」と振り返る。

「誰が読んでも同じ芝居になる書かれ方をしている台本は、演じていて恥ずかしいんです。どう生きればいいかわからないからこそ、何をやっても正解になる。もっと言うと、答えを見つけることなんて大事じゃないんです。それよりも、監督とキャストとスタッフと一緒になって答えを紡いでいくことが、映画をつくることなんじゃないかと思います」

本作では、陰惨な村社会の歪みがありありと描かれているが、決してこの閉塞感は地方都市に限ったことではない。フォーカスを広げれば、日本そのものが大きな村社会だ。同調圧力や集団心理による過剰な攻撃が、今を生きるすべての人たちを生きにくくさせている。この息苦しさから解放され、もっと伸びやかに呼吸をしていくために、今、必要なものは何だろうか。

「美しいものを見る、ってことじゃないですか。たとえばですけど、最近いつ空を見上げました?」

映画について語る熱っぽい言葉がふっとやわらぎ、綾野の声に優しく穏やかな風が吹いた。

「曇っていてもいいんです。綾野剛に言われたなと思って、10秒ぐらい、ちゃんと空を見てみてください。『やあ、久々』って気分になりますよ。そしたらきっと空も『やあ、久々』って返してくれる。空は誰のことも平等に見つめてくれているんです。強い人も、強くない人も、人以外の生き物であっても、平等に。どんなに孤独でも、空は見つめてくれていることを忘れないことが大事なんじゃないでしょうか」

インタビューを終えると、切れ長の瞳をくしゃりと綻ばせ、「ありがとうございます。またお願いします」と丁寧にお辞儀をして部屋を出た。クールなマスクとは対照的に、誠実な人だ。

銀幕の中に生きる役はあくまでつくりものでしかない。それでも、綾野が命を吹き込むと、まるで本当に生きている人のように心を吸い寄せられてしまうのは、どこまでもまっすぐ向き合うこの誠実さにあるのかもしれない。

撮影/奥田耕平 取材・文/横川良明

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