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『惡の華』は女子こそ観るべき“男子トリセツ“映画だ 特典のオーディオコメンタリーも必聴!

リアルサウンド

20/2/29(土) 12:00

 映画『惡の華』のBlu-ray&DVDが3月3日に発売される。この作品を、筆者をはじめ「かつて女子」だった大人の女性は楽しめるのだろうか。予告映像を見た時に、漂った嫌悪感に、そんなことを懸念した。好きな女子の体操着を(しかもブルマ!)を嗅ぎ、そのまま持ち帰ってしまう主人公。それを目撃した別のクラスメイトの美女から、脅迫される形で主従関係の契約を結ぶ……。

参考:『惡の華』原作ファンも納得の仕上がりに 脚本・岡田麿里×井口昇監督が生み出す、思春期の機微

 そんな思春期の男子をメインにした青春物語を、「かつて男子」だった男性たちが、むずがゆく観るのは理解できる。だが、共感はできない「かつて女子」だった女性が観ていいものなのか。この物語は、ある意味で「かつて男子」だった人たちの聖域なのではと思っていた、実際に観るまでは。

 「男は」「女は」と、大枠で語るのはナンセンスな時代になったが、それでもやはり「男」と「女」のお互いに理解しがたい領域が存在するし、その「わからない」があればこそ惹かれ合うのも事実。本作を観れば、その相容れない男女の領域が、思春期のころに決定づけられていたことを再認識されられる。

 この物語は、主人公・春日高男(伊藤健太郎)と、3人のヒロインによって進んでいく。まだ何者でもない春日が、閉塞的な街で「その他大勢のモブキャラと自分は違うんだ」と言わんばかりにもがき、苦しみながら、少しだけ大人になっていく様が描かれる。だが、それは春日自身の成長というよりも、3人のヒロインたちの成長が反射しているだけのように見えなくもない。

 “理想の女子“を背負うミューズ・佐伯奈々子(秋田汐梨)、“本能の女“がうずき欲求をぶちまける仲村佐和(玉城ティナ)、“大人の女性“として自分の恋をハンドリングしていく常磐文(飯豊まりえ)。それぞれ別人格で描かれているが、見進めるうちにそのどれもが「女性」の中に息づいているものだと感じた。身体も心も、一気に成長していったあのころには、冷静に見つめられなかった女子のドロドロこそ、よく描かれている作品だ。

 春日が最初に恋心を抱き、体操着を盗まれてしまう佐伯は、テストで98点を取るように、女友だちとのやりとりも、男子からの熱い視線にも、100点の対応を心がける。少女から女性へ。周囲からの視線や期待されることがガラリと変わる時期に、「こうすればOK」という“女のセオリー“を必死になぞっていく。

 それと同時に、求められるものに応えている自分に満足しながらも、本当のは私は別にいるようなフラストレーションも抱えている。そんな彼女が彼氏に求めるものは、本当の自分を持っている人。小難しい本を読み、周囲の男子とは違う雰囲気を持つ春日に興味を持つのも当然だ。

 そこに「私だけが彼の魅力を知っている」という“見つけた感“も、プライオリティを高める。本当は春日の読んでいる本なんて全然わからないけれど、「すごいね」「かっこいい」と、彼の特別になりたい欲を煽って、「100点の私」に見合う恋人へと育てていこう、と思っていたはず。だが、彼女の想いは、より深く春日と結びつく仲村佐和によって乱されていく……。

 一方、仲村は春日が体操着を盗む場面を目撃し、黙っている代わりに様々な要求を突きつける。日々、湧き上がる苛立ちが隠しきれず、周囲には「何を考えているかわからない」と忌み嫌われ、近付こうとする人には「クソムシが」と噛みついてしまう。その態度が、ますます周りから人を遠ざけていることに気づきながらも、どうしようもできない。

 これは、女性ホルモンに翻弄されたことがある人なら、きっと思い当たるフシがあるはずだ。幼いころに両親が離婚し、前時代的な感覚の祖母と父と暮らす仲村にとって、それを相談できる「かつて女子」が周囲にいないことも悲しい。

 「つまんない、つまんない、つまんない!」。何が不満なのかも、どうしたらそれが解決されるのかもわからない。抑えきれない欲求でグチャグチャなところに、本能がはみ出してしまった春日を見つける。ダメな部分で繋がれる共依存関係はドロドロで温かい。そのうち「どれだけ私のために壊れてくれるのか」で愛情を測り始め、破滅の道をひた走る。そこに火が付けば、灰になるまで燃え上がることしか知らない。

 そんな仲村が、自分の闇にぶち当たり壊れかけた佐伯を抱きしめるシーンは秀逸だ。自分でもコントロールが難しい女の性に目覚めてしまったら、誰からも愛される無垢な少女ではいられない。それを知っている仲村は、かつての自分がそうされたかったように、佐伯を抱きしめるのだ。

 他者が作り上げた理想の少女になろうと努力してきた佐伯も、制御できない性と闘う仲村も、自分を持っている(ように見えた)春日に、生きづらい日々を救ってほしいと願った。だが、そう期待した春日に「僕は空っぽだ」なんて言われたら、ガッカリだ。それは、彼自身にというよりも、入れ上がった自分の見る目のなさに幻滅するのだ。

 そんなガッカリを繰り返し、少し前の自分自身を抱きしめながら、女子たちは常磐のように大人の女性になっていく。男からの視線も、周りからの求められるキャラも理解し、その上で自分の感情とも向き合って整理していく強さを持つ。もう、彼女たちは春日に「向こう側」に連れて行ってほしいなんて言わない。仲村との思い出に立ち止まったまま動けない春日に、自分の恋の行方を委ねたりしない。

 春日と仲村の再会も、しっかりと自分の目で確かめる。佐伯も、今の春日と常磐を直視する。仲村も然りだ。その目をそらさずに痛みと向き合うこと。いつまでもうずくし、絶対に忘れたりはしないけれど、そのジュクジュクしたものを別フォルダに整理した現実こそが「向こう側」だと知っているから。

 この映画のヒロイン=女子が全部いるのだ、女の中には。それを「常磐と結婚したけど、ときには仲村といるときのようなリビドーもほしい」「やっぱり女は佐伯のように清純じゃないと」とかいうクソムシが、大人になってもいるようだが……。

 ちなみに本作には、伊藤健太郎×玉城ティナ×井口昇監督のビジュアルコメンタリーを収録した特典ディスクに加えて、ディスク2には、劇場公開版では描かれなかったシーンが追加された特別編集版『惡の華+』も。原作者・押見修造と監督・井口昇によるオーディオコメンタリーを聞きながら楽しむこともできる。

 そのコメントを聞きながら、ハッキリとわかった。この物語は「かつて男子」が、かつての自分を懐かしむ青春映画に感じるかもしれないが、男たちの青春はまだまだ終わってないのだ。笑ってしまったのが、ミューズ・佐伯の自宅に春日が見舞うシーン。「やっぱり女の子にはピンクのパジャマを着ていてほしい」と盛り上がる自称「かつて男子」2名がそこにいた。佐伯を演じた秋田汐梨が「着たことない」と言ったにもかかわらず、その夢を捨てられないようだ。

 さらに、「男の子が入ってきたら“キャッ“て言ってほしい」という願望を伝え、その“キャッ“を井口監督自ら3回ほど実演。その熱意に秋田は「うーん……わかりました」と渋々了承して、このシーンが完成したというから、おかしい。「監督が誰よりも女子ですからね」「ありがとうございます! 俺の中の女子はこうするっていうのを、“いやーやんないですよ“って言われることが度々あるんですけど」のやりとりには、呆れるやら、微笑ましいやら。

 「かつて女子」たちは、心したほうがいい。彼らは今も黒歴史の中にいる。小難しい言葉を並べて背伸びして、空っぽの自分を隠しているかもしれない。そんな男たちの理想に収まる必要はない。また、彼らに自分の幸せの舵を委ねるのも危険だ。常磐のように落ち着いて相手を見つめ、ときには佐伯のようにあざとく彼らの期待に応えながら、仲村のように自分の思うままに生きるのだ。『惡の華』は、かつて女子こそ見るべき、現在進行系の“男子トリセツ“だ。(佐藤結衣)

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