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中川右介のきのうのエンタメ、あしたの古典

トキワ荘マンガミュージアムが開館! オープニング企画展は『漫画少年とトキワ荘』

毎月連載

第25回

20/7/12(日)

トキワ荘マンガミュージアム・外観(筆者撮影)

マンガの聖地、“トキワ荘”

7月7日、豊島区立トキワ荘マンガミュージアムが開館した。

本来なら3月に開館予定たったが、新型コロナウイルスのため、遅れていたものだ。感染予防策として、事前予約制とのことなので、来館される方は注意していただきたい。

さて、トキワ荘とは何か。

昔のマンガに詳しい人なら、よくご存知のアパートだ。手塚治虫、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、石ノ森章太郎、赤塚不二夫たちが住んでいた、「マンガの聖地」である。

手塚治虫と他の4人が暮らしていた時期は、ずれる(手塚が住んでいた部屋に、藤子不二雄の2人が入居した)。

藤子F、藤子A、石ノ森、赤塚の4人が揃うのは1955年夏で、61年秋までの6年間、4人は同じアパートで暮らしていた。藤子Aの『まんが道』にも出てくるし、これはドラマにもなった。

『トキワ荘の青春』という映画もあるので、映画ファンのなかにもご存じの方は多いだろう。他にも寺田ヒロオ、鈴木伸一、水野英子、よこたとくお、森安なおやといったマンガ家が暮らしていた時期もある。

『トキワ荘の青春 デジタルリマスター版』チラシ (C)1995/2020 Culture Entertainment Co., Ltd

このアパートがマンガファンの間で有名になったのは、ちょうど彼らがトキワ荘を出てから10年が過ぎた頃だった。

トキワ荘に住んでいたとき、藤子や石ノ森、赤塚たちは、マンガ好きの少年少女の間では知られてたが、一般にはまだ無名だった。

トキワ荘を出てから、赤塚不二夫『おそ松くん』、藤子不二雄『オバケのQ太郎』、石ノ森章太郎『サイボーグ009』が生まれ、テレビアニメにもなって、彼らは全国的に有名になっていた。

そんな時期の1970年、手塚治虫が社長である虫プロの関連会社、虫プロ商事が出していた雑誌「COM」で、かつての住人たちがその思い出を描いたマンガを載せたのだ。

それからさらに10年が過ぎた1982年に、トキワ荘は老朽化したため、取り壊されてしまった。

それをきっかけにして、NHKが手塚をはじめとするかつての住人たちの同窓会を企画して番組を作り、藤子不二雄Aの『まんが道』でも描かれたので、トキワ荘はさらに有名になった。

保存を求める運動もあったが、当時の豊島区はそういう声に何の対応もせず、トキワ荘は壊されてしまった。

当時の行政は、トキワ荘を文化遺産と認識できなかった。まだ、マンガを文化とも認識していない時代だった。

ミュージアムの2階は当時を“再現”。1階展示室には貴重なマンガが並ぶ

それから40年近くが過ぎて、豊島区は地域振興のひとつとしてか、当時あった場所の近くの公園の一角に、トキワ荘を当時と同じ外見の建物として再現したのだ。ただ建物を再現しただけではなく、マンガミュージアムとした。

トキワ荘は2階建てで、マンガ家たちが暮らしていたのは2階だった。再現されたトキワ荘は、2階が「再現」部分で、1階がミュージアムになっている。

トキワ荘マンガミュージアム・内部(筆者撮影)

2階は、共同の炊事場やいくつかの部屋は、家具や食器なども当時のものを再現して置かれていて、いつでもドラマや映画のロケができそうだ。階段のギシギシという音も、再現したという念の入れ方である。

建築時の図面が何も残っていないので、写真などをもとに再建したそうで、かなり苦労があったようだ。

オリジナルは木造モルタルだが、鉄筋コンクリートで、外見を木造モルタルらしく見せている。いまの建築基準法とか消防法をクリアしなければならないので、当時の材質と工法で再建するわけにもいかないらしい。

「古さ」も再現されており、ちょっとしたタイムトラベルを楽しめる。それはそれでいいのだが、オリジナルの建物が保存されていたら、どんなに感慨深いかとの思いも募る。レプリカはレプリカでしかないからだ。だから、私の興味は「ミュージアム」部分にあった。

1階の常設の展示室には、昔のマンガが並んでいる。貴重なものばかりなので、手に取ることはできないが、背表紙を眺めるだけでも楽しい。

企画展の展示室もあり、オープニングの企画展は『漫画少年とトキワ荘』だ。

そもそも手塚治虫をはじめとするマンガ家たちが、このアパートで暮らすようになったのは、もちろん、偶然ではない。

手塚は兵庫県宝塚、藤子不二雄は2人とも富山県高岡市、石ノ森は宮城県、赤塚は新潟県と、みな地方出身だ。

上京してきた彼らが、偶然、同じアパートに住んでいたわけがなく、誰かがアレンジしたのである。

その誰かとは、「漫画少年」という雑誌だった。

トキワ荘への入居のきっかけとなった雑誌「漫画少年」

「漫画少年」は、戦前の講談社で「少年倶楽部」編集長だった加藤謙一が1947年12月に創刊した雑誌だった。加藤はこの雑誌のために学童社という出版社を創業した。

「漫画少年」は読者からの投稿漫画を歓迎する編集方針で、多くの少年が投稿してきた。投稿漫画は入選者は作品が載るが、あと一歩という者も、名前だけが載ることもあり、そこには住所も書いてあったので、読者同士で文通をし合うようにもなる。

インターネットどころか電話すら一般の家庭にはなかった時代だが、郵便によって、読者間のネットワークができていた。

手塚治虫が「漫画少年」に連載を始めたのは創刊から1950年秋からで、『ジャングル大帝』がその作品だった。当時の手塚はまだ大阪大学医学部の学生で、大阪の出版社から描き下ろしのマンガを出していて、子供たちの間では人気があったものの、東京の大手出版社の編集者は知らなかった。

ただ、読者からの手紙に「手塚先生のマンガが読みたい」と書いてあるものが多く、「気になる存在」ではあったらしい。

そんなところに、「漫画少年」で連載が始まったので、光文社の「少年」や講談社の「少年クラブ」などの雑誌も原稿依頼をするようになり、東京での仕事が増えてきたため、アパートを借りようとなって、「漫画少年」の編集者が見つけてくれたのがトキワ荘だったのだ。

その次にトキワ荘に入った寺田ヒロオも「漫画少年」の読者だった。上京し、やはり編集部の紹介でトキワ荘に入居したのだ。

藤子不二雄の2人も、石ノ森章太郎も赤塚不二夫も、みな投稿者だった。

その「漫画少年」が売れ行き不振で休刊になるのが、1955年秋。1956年春に、石ノ森章太郎は高校を卒業して上京し、最初は別のところに下宿していたが、5月にトキワ荘に入居した。

「漫画少年」という「場」を失った彼らは、その代わりにトキワ荘という場を得たのだ。

トキワ荘マンガミュージアムの最初の企画展が「漫画少年」というのは、「漫画少年」なくしてトキワ荘グループはなかったから、その原点を考えようという趣旨なのだろう。

「漫画少年」は1948年1月号から55年10月号まで、101号が発行された。今回の企画展では、その大半が展示されている。ショーケースに入れられているので、手には取れないが、壮観だ。

このオープンにあたり、雑誌の企画で、「漫画少年」の編集長だった加藤謙一氏のご子息と話す機会があった。

会社も倒産、雑誌も廃刊となったため、加藤家では「漫画少年」の話題はタブーとなり、家には一冊もなかったという。

この時代の漫画雑誌は、国会図書館にもすべてが揃っているわけではなく、何人かのコレクターが持っているだけだ。全冊持っている人は数えるほどしかいないだろう。

トキワ荘マンガミュージアムには、昔の雑誌やマンガの収集、整理、保管の役割も期待したい。

トキワ荘とそこに暮らしたマンガ家たちについては詳しく知りたい方は、拙著『手塚治虫とトキワ荘』(集英社刊)をお読みいただければ、ありがたく存じます。

『手塚治虫とトキワ荘』
発売日:2019年5月24日
著者:中川右介
集英社刊

データ

『漫画少年とトキワ荘~すべてはここから始まった~』

会期:2020年7月7日~9月30日
会場:豊島区立トキワ荘マンガミュージアム 1階 企画展示室
※入館予約制。詳細は公式サイト参照 

『トキワ荘の青春 デジタルリマスター版』(1995年・日本)

近日公開予定
配給カルチュア・パブリッシャーズ
監督・脚本:市川準
出演:本木雅弘/大森嘉之/古田新太/生瀬勝久/鈴木卓爾/阿部サダヲ

プロフィール

中川右介(なかがわ・ゆうすけ)

1960年東京生まれ。早稲田大学第二文学部卒業後、出版社アルファベータを創立。クラシック、映画、文学者の評伝を出版。現在は文筆業。映画、歌舞伎、ポップスに関する著書多数。近著に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)など。

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