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荒木経惟 写真に生きる 写真人生の出会い

本人に会うより先に写真を見て嫉妬した。 森山大道さんとの出会い。

全11回

第5回

19/2/12(火)

個展「荒木経惟 涅槃少女」(2018年 art space AM)会場にて

『プロヴォーク』に嫉妬し
『ゼロックス写真帖』を作り始めた

森山大道さん【註1】との最初の出会いというのは、俺の場合はね、写真家との出会いっていうのは、本人と会った時ではなくて、写真を見た時なんだよね。写真から付き合っている。写真を見ると本人がわかる。これは相性が良いっていう、何かを感じる。それを一番感じたのが大道さん。そうすると、向こうにもこっちの思いが通じていて、何かの時に声をかけてくれる。東松照明【註2】さんとかもね。
 そういう意味で森山さんの写真と出会ったのは、『プロヴォーク』【註3】。「エロス」が特集されていた『プロヴォーク 第2号』で、森山さんが撮ったヌードを見て嫉妬したんだよね。その頃、自分もさ、「写真はエロスだ」って考えていたからね。やっぱり「エロスがなかったら写真じゃない」と思っていたからさ。写真というのは、死をね、タナトスを含んでいないと、写真としてのエロスにはならない。そういう時だったからね。森山さんの写真に出会ったのは。

地下鉄の中で、森山大道と荒木。1973年頃撮影。

 『プロヴォーク』に嫉妬しているところがあったし、惹かれていたんだよね。今、こういう時なんだって。俺は電通でさ。広告社会とか、ダメな社会に関わっているからっていう思いがあったからさ、仲間になる要素はないわけだよ。いれてほしかったら、やめなくちゃならない。そういうジレンマがあった。だから、そういうのがあったおかげで、俺の場合は、すぐそばにあった会社のゼロックス(コピー機)を使って写真集を作るというのが始まったんだよ。会社にゼロックスの機材が入ってきて、これがいいわけだよ。すぐに自分で写真集が作れる。トーンとかも変えられてさ。それでゼロックスを使って『ゼロックス写真帖』を作ったの。その頃から、こすいやり方でね、受付嬢とかを口説いてさ。女子社員たちに作業をしてもらってた。女工哀史だよね(笑)。ゼロックスの写真集はさ、俺が気になるヤツらに勝手に送ってた。森山さんにも送ってたんだよね。

『7時から7時7分までのパトラ』(『ゼロックス写真帖』より)
『東京はエロス』(『ゼロックス写真帖』より)

『ゼロックス写真帖』 荒木が電通在職中の1970年から、会社に導入されたばかりのゼロックス・コピー機を無断借用して作った私家版写真集(限定70部、全25巻+番外篇)。友人や知人、評論家、赤瀬川原平や永六輔、小沢昭一などにも勝手に郵送。「学習(オナニー)と自己宣伝(げいじゅつさぎょう)のための写真帖を発刊します。手紙下さい」とのメッセージを添えて送った。

※註1
森山大道(もりやまだいどう)/写真家

1938年、大阪府池田町(現、池田市)に生まれる。写真表現の革新者として、戦後の日本の写真史に絶大な影響を与えた。1960年代より現在に至るまで先鋭な活動を続け、国内外で高く評価される。写真家・岩宮武二、細江英公のアシスタントを経て、1964年に独立。1972年に『写真よさようなら』を発表。写真の概念を根底から覆す「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる衝撃的な写真は、従来の写真の美意識を打ち砕き、「写真とは何か」を挑発的に突きつけた。1990年代以降、メトロポリタン美術館、サンフランシスコ近代美術館、カルティエ現代美術館、テート・モダンなど世界の美術館で大規模な個展が開催されている。写真集に、『にっぽん劇場写真帖』(室町書房 1968年)、『写真よさようなら』(写真評論社 1972年)、『光と影』(冬樹社 1982年)、『新宿』(月曜社 2002年)、『森山大道全作品集』(全4巻)(大和ラヂヱータ製作所 2003年)など。

※註2
東松照明(とうまつしょうめい)(1930-2012)/写真家

1930年、愛知県名古屋市に生まれる。戦後写真界に大きな足跡を残した、日本を代表する写真家の一人。愛知大学法経学部卒業後、岩波写真文庫に携わったのち、1956年にフリーランスとなる。1959年に奈良原一高、細江英公らとともにセルフ・エージェンシー「VIVO」を設立、1974年に森山大道、荒木経惟らと開校した「ワークショップ写真学校」などの影響は大きく、日本の写真界を牽引する存在であり続けた。1966年、長崎における原子爆弾の記憶をたどった写真集『〈11時02分〉NAGASAKI』(写真同人社)を発表。1972年に沖縄に移住。1999年には長崎県へ拠点を移し、その後、沖縄にも拠点をつくる。沖縄や長崎にカメラを向けながら、砂浜の漂流物や桜、京都といった多彩なテーマでも精力的に作品を制作。国内外の美術館で数多くの個展を開催した。写真集に、『戦争と平和』(岩波書店 1955年)、『太陽の鉛筆』(毎日新聞社 1975年)、『東松照明の戦後の証明』(朝日新聞社 1984年)など。荒木は、東松が亡くなったときの新聞インタビューで「ワークショップ写真学校」の頃のことを、「今思うと、先生として呼ばれた俺らの先生、親分が東松さんだったんだ。東松さんの後継者でなくて、“写真”の後継者をつくるという大きな功績が残っている」と語っている。

※註3
『プロヴォーク』

1968年11月に写真家の中平卓馬と評論家の多木浩二を中心に、詩人の岡田隆彦、写真家の高梨豊が加わって創刊された写真同人誌。1969年3月刊行の2号より森山大道が参加。8月に3号、1970年3月に単行本『まずたしからしさの世界をすてろ』を刊行して解散。雑誌の副題に「思想のための挑発的資料」を掲げ、政治や革命の季節である1960年代の思想状況を色濃く反映。写真が表現として成立する根源を問い直すメディアとして、大きな影響を与えた。

やられたなあ、と感じたのは
やっぱり 『写真よさようなら』

 東松さんが寺子屋方式の「ワークショップ写真学校」を始めたときに、森山さんや深瀬(昌久)さんと一緒に俺を先生として呼んでくれたんだよ。東松さんは俺が電通に勤めていた時から目をつけてくれて、かわいがってくれた。写真学校は、授業とか時間割りとかじゃなくて、「森山教室」とか「荒木教室」とか、それぞれの写真家ごとにやってたんだ。(1974年、東松照明の呼びかけに応じて、森山大道、細江英公、深瀬昌久、横須賀功光とともに「ワークショップ写真学校」の設立に参加。写真学校の教授となる。荒木教室は、酒を飲みながらの撮影・講評会、合宿、銀座キッチンラーメンでの写真展、舞踏訓練、写真集の刊行など幅広い活動を行った。)

ワークショップ写真学校の教授陣。左手前から、深瀬昌久、東松照明、横須賀功光、細江英公、荒木経惟、森山大道。1974年頃。

 森山さんに、やられたなあ、きたなあ、と感じたのは、やっぱり『写真よさようなら』【註4】。俺、その頃に電通をやめたんだよね。森山さんが『写真よさようなら』を出して、同じ出版社(写真評論社)から俺の写真集も続けて出す予定だったんだよ。それで、俺は、よし、向こうが「写真よさようなら」なら、こっちは「写真よこんにちは」というぐらいの気持ちでいこうって。自分でレイアウトもして、1冊作ったんだけど、出版社が倒産しちゃったんだ。だから出せなかった。それから10年ぐらい経ってから、『東京エレジー』【註5】になったんだけどね。作っている途中で親父が死んで、死のほうへと変わっていったんだ。

 森山さんの『写真よさようなら』と同じぐらいの本の大きさでさ、ドーンと出そうと思ってた。やっぱりね、嫉妬していたからね、『プロヴォーク』に。だから、あっ、やられたなと。だってその頃さ、あんな“ブレ、ボケ”で、踏切を撮ったってなんだよって(笑)。やられたなってさ。
(森山は、『写真よさようなら』について、「とにかく当時、あの写真集を褒めてくれたのは荒木さんだけね。ほとんど誰も何の反応もしなかったしさ。デザイン的だとかってよく言われたけどね。本質的な部分であれが何なのかっていうことを一番最初に荒木さんだけがわかってくれた」と語っている。)

荒木が2010年に撮影した森山大道のポートレート。

森山さんは、本能的に
野良犬にならざるをえないんだよ

 俺の写真はおしゃべりしすぎなんだよ。森山さんは、しゃべりが少ないだろ。で、相手を喜ばしてあげようとか、そういうのは思ってないからね。

 森山さんは、暗室でも撮ってる、1枚の写真で二度も三度も撮ってるって感じがするんだよね。ワークショップ写真学校のときに、森山さんと一緒に暗室に入ったことがあるんだけど、森山さんが1枚焼いてる間に、俺は10枚ぐらい焼いてさ。俺はプリントする時にはクールになるからね。撮る時に情が強いから、プリントでは情をなくしたいんだ。森山さんはね、撮る時に無情になるから、プリントの時に情が入って、ちょうどいいんだよね。

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