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社会派サスペンスの秀作『ルース・エドガー』 その「社会派」と「サスペンス」の意味を深掘りする

リアルサウンド

20/6/2(火) 12:00

 2021年秋には完全リブート版『バットマン』の公開(パンデミックの影響で制作が遅れているかもしれないが)が控えているマット・リーヴスの出世作『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)。ビデオゲーム『アンチャーテッド』の映画化プロジェクトからは降板となったが、『ブラックミラー』や『ザ・ボーイズ』といったテレビシリーズでその確かな手腕を発揮しているダン・トラクテンバーグの出世作『10 クローバーフィールド・レーン』(2016年)。それぞれテイストはまったく異なるものの、両作品ともこよなく愛する自分にとって、紆余曲折を経て結局Netflixオリジナル作品(製作のパラマウントが劇場公開を見送ったと言われている)として配信された『クローバーフィールド・パラドックス』(2018年)は、作品そのものの出来にも、それによってフランチャイズ全体に暗雲が垂れ込めてしまったという点でも、大いに失望させられた作品だった。『クローバーフィールド』シリーズのプロデューサーであるJ・J・エイブラムスはそれまで同シリーズで若手の監督や脚本家(『10 クローバーフィールド・レーン』の脚本にはデイミアン・チャゼルも参加)を抜擢してきたが、その3作目の『クローバーフィールド・パラドックス』で監督を務めていたのがナイジェリア出身のジュリアス・オナーだった。本作『ルース・エドガー』のエンドロールに流れる監督クレジットで、改めてその名前を思い出した時は驚いた。「これ、本当に同じ監督?」。

参考:『ルース・エドガー』予告編&ポスター公開 17歳の高校生は“完璧な優等生”か“恐ろしい怪物”か

 『ルース・エドガー』は過去に似た作品がなかなか思いつかない極めてユニークな作品なのだが、強引にジャンル分けするならば、「社会派サスペンス」ということになるだろう。しかし、何か大きな社会的事件が起こって、その犯人を巡ってミステリーやサスペンスが駆動していく、といった映画ではない。「サスペンス」の主体となるのは、主人公ルース・エドガー本人。同時期に日本で公開されているはずだった『WAVES/ウェイヴス』(近日公開予定)でも主演を務めたケルヴィン・ハリソン・Jr.演じるその17歳の少年の言動を巡って、高校の歴史教師(オクタヴィア・スペンサー)や里親(ナオミ・ワッツとティム・ロス)をはじめとする周囲の人々が疑念を深めていくことになるのだが、演出として秀逸なのは、物語の最後まで観客も同じ立場に立たされて、主人公の正体や本心がわからないことだ。

 「社会派サスペンス」の「社会派」の部分もまた、主人公ルース・エドガー本人のマイノリティとしてのアイデンティティに起因している。内戦中のエルトリアで少年兵だったという凄惨な過去を持つルース・エドガーは、現在生活しているアメリカ社会においても、アフリカ系であること、移民であること、養子であることと何重ものハンディキャップを背負いながら、学業においてもスポーツにおいても討論部での活動においても目覚ましい成果をおさめている。そんな文句なしの優等生であるルースがこれまでと違う言動をするようなった直接的な引き金は、同じ陸上部のクラスメイト、デショーン(Stro名義でラッパーとしても活動しているブライアン・ブラッドリー)の存在だ。ルースのような優等生ではないデショーンは、たった一度の不祥事によって「未来を失った」と嘆き、自暴自棄になる。実際に奨学金や推薦といった制度によってギリギリのところで教育を受ける機会を得ているアフリカ系の、裕福な家庭出身ではない少年にとって、それは事実なのだ。

 作品を観終わってからでもいいが、できれば作品を観る前に、本作の理解を深めるために覚えておいたほうがいいのが「リスペクタビリティ・ポリティクス」という概念だ。『ルース・エドガー』が扱っている黒人や移民の問題だけでなく、人種やジェンダー、あらゆる社会的なマイノリティが無意識に社会からプレッシャーとして課されている「差別されないように模範的な行動を取ること」(=リスペクタビリティ・ポリティクス)。そこには、我々が、社会的成功を収めた黒人やヒスパニック、あるいは女性やLGBTQについて語る時に見落としがちな罠がある。彼ら、彼女らは、「完璧でなければならない」というゲームの勝者であり、そのゲームのルールを作ったのは彼ら、彼女らではないということだ。

 これを、日本社会に、そして自分自身に置き換えてみればよりわかりやすくなる。自分は日本においては社会的にも人口比的にも「マジョリティ」に属する、中年の、男性の、シスジェンダーだ。これからの日本社会がどうなるかはわからないが、少なくとも自分はこれまで生きてきた中で「完璧でなければならない」というプレッシャーを感じることはなかった。つまり、実際に社会的に成功しているかどうかは別として、これまで「失敗する自由がある」中で生きてきて、実際に何度も失敗をしてきた。しかし、マイノリティにとっては(劇中のデショーンのように)一回の失敗が命取りになることもある。きっとマジョリティの側は日常的にそのことへの想像力をもっと持つ必要があるのだろう。もちろん、自分だって日本の外に出れば途端に何の仕事にも就くこともできない、そもそもその能力さえないマイノリティになるわけだし、アメリカの黒人もアトランタのラッパー2 Chainzの作品にもあるように「ラッパーとして成功するかプロのスポーツ選手になるか」(Rap Or Go To The League) すれば、「完璧でなければならない」ゲームから抜け出すこともできる。しかし、言うまでもなく、それらはいずれも「例外的な出来事」にすぎない。

 「社会派サスペンス」作品『ルース・エドガー』の「サスペンス」に最後に立ち返ると、本作の最大のサスペンスは、主人公ルース・エドガーとオクタヴィア・スペンサー演じる高校の歴史教師との間で交わされる精神的な駆け引きにある。オクタヴィア・スペンサーといえば、これまで『ヘルプ ~心がつなぐストーリー~』(2011年)や『ドリーム』(2016年)といった作品で、それぞれの時代の白人社会で虐げられてきた黒人女性を印象的に演じてきた名女優だ。本作でオクタヴィア・スペンサーは、そんな過去に演じてきた女性たちが行き着いた一つの達成とも言える、「完璧でなければならない」人生を送った末に社会的な地位を得た黒人女性を演じている。しかし、そんないわば「マーティン・ルーサー・キング・Jr.的」とも言える人生を送ってきた彼女が、ルース・エドガーにとっては抑圧的な存在となっていくのだ。そのアイロニックな構図、同人種間の(多分に世代的なものでもある)分断と対立こそが、本作の最大の肝と言えるだろう。

 ブラック・ライブス・マター運動(本作はそれ以前の戯曲をもとにしていて、映画化のデベロップもブラック・ライブス・マター運動が盛り上がる前から始まっていたという)や#MeToo運動を経て、最近のアメリカ映画は「ポリコレにがんじがらめになっている」とする向きが、日本の一部にあるようだ。しかし、そんな寝言は、『ルース・エドガー』のような作品の前では、一瞬で吹き飛ばされてしまう。現在、アメリカ映画だけでなく各国の最先端の映画が取り組んでいるのは、ポリコレの矛盾や盲点、そしてポリコレ的な基準が一度社会に浸透した上で生まれた、より複雑な新しい課題だ。世界の映画は、どんどん先に進んでいる。

■宇野維正
映画・音楽ジャーナリスト。「装苑」「GLOW」「キネマ旬報」「メルカリマガジン」などで批評やコラムを連載中。著書『1998年の宇多田ヒカル』(新潮社)、『くるりのこと』(新潮社)、『小沢健二の帰還』(岩波書店)、『日本代表とMr.Children』(ソル・メディア)。最新刊『2010s』(新潮社)発売中。

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