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加古隆 作曲家として、そしてピアニストとして

〜パリ時代 その1〜

連載

第4回

19/4/28(日)

(C)Yuji Hori

 パリに到着したのは、1971年の6月でした。「フランス政府給費留学生」としての留学だったので、まずは、なにがなんでもコンセルヴァトワール(フランス国立高等音楽院)に入学を、という状況です。フランスに行かせてくれて、生活費は出してくれるけれど、コンセルヴァトワールに入れてくれるわけではなく、学校に入ることなどは全部自分でやらなければならなかったのです。そこでまずは「誰に師事しよう」と考えるわけです。その頃名前を知っていたのは、アンリ・デュティユーで、音楽のスタイル自体も三善晃先生と似た方向だと思って頭に浮かんだ人物です。もうひとりは、藝大でもレッスンをされたことがあったアンドレ・ジョリベでした。この2人がコンセルヴァトワールでクラスを持っていたので、どちらかにしたいと思っていたわけです。オリビエ・メシアンは、当事誰よりも有名な作曲家の1人でしたが、とても個性的な音楽を作る方で、「あんなスタイルに自分が対応できるのだろうか」と考えたのです。偉すぎて敷居が高すぎるとも思っていましたね。というわけで、コンセルヴァトワールに問い合わせたうえで、デュティユーの家を訪ねたのです。すると御本人から、「残念だが、目が悪くなって、今季で教授職を引退することにした」と言われてしまったのです。さらにもう1人の候補であったジョリベは、すでに教授職を辞めていたのです。あとの教授たちは知らない人ばかりなので、もうメシアンしかいないということになったわけですが、紹介してくれる人もツテもまったくありません。しかたがないので学校の総務課に行って「メシアンさんに会いたいのだけれど、どうすればいいか」と問い合わせたところ、「メシアンのクラスに行きなさい」と言われたのです。言われたとおりに出かけて、教室のドアを叩くと、「ウィ」という声が帰ってくるので、そろそろとドアを開けて「ボンジュール」というと、そこに1人の男性が居たわけです。まだメシアンの顔を知らなかったので、「メシアンさんですか」と聞いたところ、「そうだ。入りなさい」と言われたのです。それがメシアンとの出会いでした。

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