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黒沢清、10人の映画監督を語る

ロマン・ポランスキー

全11回

第9回

18/8/26(日)

映画で表現したいのは物語だとやっと言えるようになった

 ポランスキーは昔から好きで観てはいたんですが、自分からポランスキーの名前を積極的に出すことはあまりありませんでした。近年、東京藝大で学生たちに映画を観せて、それについて僕が何か喋るという授業のようなものをやらなきゃいけなくなって、その中で前から大好きだった『フランティック』をつい取り上げたあたりから、急にポランスキーの名前が気になり出しました。

 学生に『フランティック』を観せたのは、みんなあまり知らないだろうから紹介したいという欲望もあったんですが、自分でも見直すと、改めてこれはめちゃくちゃ面白いということに気づきました。なぜこんなに面白いのか。分析的に何度も観たんですが、この人はすごいことをやっているということが、だんだん分かってきたわけです。

 ずばり『フランティック』の肝は、ストーリーテリングなんだなと気づいたんです。つまり物語を語るということですね。ストーリーテリングとかストーリーテラーと言うと、脚本に書かれた物語をわかりやすく説明しているだけのように聞こえるんですけど、そんな単純なものじゃない。映画には映画に適した物語の語り方というのがあって、それを巧妙にやると、前からよく知られているような物語であっても、本当に観客を釘付けにできる。物語がある種の映画の語り方で語られるとハッと胸を打ち、ものすごく緊張もし、きわめて印象的なものへと変化するわけです。そういう映画的に物語を語る技術のことをストーリーテリングというのだなと自分でも散々映画を作ってきた挙句、やっと気づくきっかけがポランスキーだったんですね。

 ハリウッドの巨匠監督が「自分は物語を語っているんだ」とか言っているインタビューを読んだことは昔からあるんですけど、ずっとそれに対して疑問を持っていました。物語を語っているだけなの? 他にもやることいっぱいあるんじゃないの? って。だからこそゴダールも観てきたし、エドワード・ヤンやリチャード・フライシャーの影響も受けてきたんですが、それらを受け入れた上でポランスキーをやっと理解できたことによって、僕がやっているのは物語を語ることだったと分かりました。

 ハリウッドの巨匠が言う「物語を語っている」には、スターシステムへの反発があったんだと思います。撮影現場にはカメラもあるし、美術もあるし、音も照明も色んな要素がある中で、ことさら俳優というものがクローズアップされてしまう。撮影現場では俳優こそが一番重要なものとして扱われがちで、もちろんスター俳優の力量は凄いものですが、そこにだけ映画の価値があるのではない。俳優も重要だけれど、映像も音も美術も何もかも全部が映画にとって重要なんだ。なぜならばその上に物語があるから。だからハリウッドの巨匠の言葉には、映画の全ての要素は均等なんだという意味があるんだと思います。

 僕自身は、「あなたは映画で何をしようとしているのか?」と改めて問われることはめったにないんですが、もし問われたら、たぶん今は「物語を語っているんです」と答えると思います。僕が映画で表現したいのは物語だとやっと言えるようになりました。そういう現在の僕を作ったというと大げさですけど、改めて自分が映画を今撮ることの意義を見出したきっかけが実はポランスキーだったんですよ。

映画で表現したいのは物語だとやっと言えるようになった

 そう思うと、ポランスキーってしたたかで色んな物語を実に巧妙に物語ってきた人なんだなというのを今更のように感じますね。あまり言及されることが多くないんですけど、すごいキャリアですよね。『水の中のナイフ』が1962年ですが、もうちょっと前から実は色々やっているんですよね。アンジェイ・ワイダの『世代』に俳優として出たり。もう60年代にはベルリンやヴェネツィアの国際映画祭で賞を獲ったり結構派手に活躍しています。初期の『反撥』なんて怖いですよね。あれもストーリーテリングということなのかも知れない。『反撥』で一番怖かったのって、ラストカットなんですよ。僕の錯覚かもしれないんですけど――でもそうとしか思えない。場所はロンドンだったと思いますが、カトリーヌ・ドヌーヴが一人暮らしを始めてだんだんおかしくなっていくんですけど、映画の最後に部屋の中に置いてあったドヌーヴの若い頃の写真がスーッとアップになっていくところで衝撃を受けました。若いドヌーヴが友達たちや家族と並んで写っているんですが、あ、この人、最初から変。都会に出てきてからだんだん精神がおかしくなったかのように見えて、初めから頭がおかしかったんだっていうのが分かるんです。あれは本当に怖いですね。僕たちは最初から狂人の精神状態を見ていたんだっていうのが発覚する。ずいぶん前に観たきりですけど、『反撥』は強烈に印象に残っています。

 その後の『ローズマリーの赤ちゃん』はハリウッド映画として大ヒットを飛ばしました。ところがシャロン・テート殺害事件に巻き込まれたと思ったら、『チャイナタウン』でちゃっかりアカデミー賞を獲りましたね。でも別の事件によってアメリカから離れたりするんですけどね。それから近年の『戦場のピアニスト』ではカンヌのパルムドールとアカデミー監督賞を同時に獲っています。ものすごい経歴ですよね。華やかというか、波乱万丈というか。

 それで僕が一番好きな『フランティック』は、アメリカを離れた後にパリでハリウッド映画として撮っているわけですが、まず何よりハリソン・フォードのマッチョだけど自信なさそうというところが最大限に発揮されていて、何とも魅力的です。そして、エドワード・ヤンとかゴダールの画面の美しさとも少し違って、そのショット、その画面で何をどう見せれば、物語がどういう強度で観客に伝わるのかということが徹底的に計算されています。ヒッチコックほど人をあっと驚かせる方向に傾きすぎず、1カットのちょっとした構造の工夫によって語られていることの方向性を絶妙にコントロールし、同じことを語っていても観客の反応がまったく違ってくる。ポランスキーはひょっとすると、ヒッチコック以上に天才的かもしれません。

 例えば『フランティック』はトランクを取り違えたということが事件の発端になるんですが、ハリソン・フォードがシャワーを浴びていると、画面の奥にいた奥さんが左にスーッと見えなくなって、取り違えたトランクも本当に画面の左隅に消えていくんです。トランクと奥さんはどうなっちゃったのと、そのカットを見たら誰でも不安になるんですよ。そういうことを、分かりやすくはっきりやっているんです。こいう絶妙のストーリーテリングは、最新作『告白小説、その結末』でも相変わらず冴えわたっていました。

 思い起こせば、僕もホラー映画なんかを撮るときは見よう見まねで稚拙にやっていたことなんですが、単に美しいだけじゃない、起こった事件を客観的に描写するだけではない、あるカットを完全な語りとして構築する方法というのが映画にはあるんだということをはっきり認識させてくれたのが、ポランスキーだったということですね。


(取材・構成:モルモット吉田/写真撮影:池村隆司)

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