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『アリータ:バトル・エンジェル』なぜ世界的なヒットに? 原作を解釈し直した“愛の物語”

リアルサウンド

19/3/2(土) 12:00

 世界最大のヒットメイカーとして知られるジェームズ・キャメロン。彼は、世界興行収入歴代1位を記録した『アバター』の制作を開始する前、『アバター』と同時に、木城ゆきと原作のSF格闘漫画『銃夢』の映画化企画のどちらを手がけるかで迷っていたという。それほどの間あたため続けていた『銃夢』の企画が、キャメロンの信任が厚いロバート・ロドリゲス監督によって、『アリータ:バトル・エンジェル』として、ついに公開された。

参考:ロバート・ロドリゲス監督が語る、ジェームズ・キャメロンとの友情と『アリータ』への自信

 興行的には北米でこそ遅れをとったものの、世界47ヶ国で首位ヒットを獲得し、中国で爆発的な出足を見せるなど、本作『アリータ:バトル・エンジェル』は世界的な盛り上がりで追い上げを続けている。それも頷けるほど、本作には広く観客に受け入れられる普遍的な要素が多く存在する。ここでは、その魅力が何なのかを解説していきたい。

 まず目につくのは、サイボーグの主人公“アリータ”であろう。アイアンシティ(クズ鉄町)のクズ鉄のなかに廃棄されていた、脳以外が機械化された少女が主人公アリータだ。タイトルになっている“戦う天使”の名の通り、華奢に見える少女の体型ながら、身体を有効に動かし“機甲術(パンツァークンスト)”を駆使して、襲いかかる大勢の敵を華麗になぎ倒していく。本作は、この痛快な主人公の姿をCGによって構築している。

 『アバター』でもCGアニメーションを担当したWETAデジタルは、「モーション・キャプチャー」よりもはるかに精細な、「パフォーマンス・キャプチャー」という技術を本作でも継続し、さらに精度を高めている。無数のマーカーが貼り付けられた、演技をする役者のデータを、様々な角度からのカメラによってとらえ、役者の動きや姿かたちを正確に再現するシステムによって、まるで生身のようなCGキャラクターを創造することに成功しているのだ。これは、ある意味ではCGアニメーションと特殊メイクの中間的な技術だといえよう。アクションにおいても、スタントを行う人間のモーションをとり入れることによって動きの説得力を獲得し、逆に生身の人間には不可能な動きをさせることもできる。

 最も特徴的なのは、日本の漫画やアニメのように、目が非常に大きく表現している部分だ。実写映像に馴染ませたリアルなCGアニメーションで、ここまでデフォルメした姿を描くというのは、不気味な表現と受けとられかねない、挑戦的な試みである。

 もし、自分の身体のパーツを、機械の部品を交換するように好き勝手に変えることが可能だとすれば、多くの人がパーツをいろいろ組み換えてみて楽しむのではないだろうか。実際、自分の姿を理想に近づけるため、写真アプリで目を大きく加工するなど、いわゆる“盛る”ことを行っている人は少なくない。ときにはそれがエスカレートして、それこそサイボーグに近くなってしまうこともある。

 それを延々続けていくと、そもそも“美”の基準とは何なのかというところに突き当たるだろう。ある人がある人を見て「美しい」と思うとき、果たしてその価値観はどの程度広く共有され、信頼できるものなのだろうか。時代が変われば基準も変化する。大きな目や長い脚が得られる時代になれば、その傾向はさらにエスカレートし、新たな基準が生まれるはずだ。それは、本作を観るうちに、アリータの大きな目にすぐに慣れたという声が多いという事実からも分かる。

 CG表現の拙さによって不自然な違和感が発生する現象は、いままで「不気味の谷」と表現されてきたが、ここまでCG技術が発達してくると、逆に不自然さが自然を超えた、より進歩的な美というものを表現し始めたように感じられる。しかしそこに、『攻殻機動隊』でいうところの“ゴースト”、つまり魂を感じさせるには、いまのところ人間の演技が有効であることはたしかだ。ここでは、人間と機械が互いに協力することによって、本作のアクション描写同様に、より高次元の美しさと、それを支える説得力を作り出しているのである。

 その先には、人間が役を演じるということはどういうことなのかという、哲学的なテーマが存在する。本作は、サイボーグという要素によって、それを考えさせるところまで到達しているように感じられる。

 かつて『バットマン フォーエヴァー』(1995年)では、CGで表現されたバットマンが高いビルから降り立つシーンが問題となった。「このままCGアニメーションが発達すれば、俳優はいらなくなってしまうのではないか」という、俳優の立場からの懸念がぶつけられたのだ。しかし本作の主人公は、完全なアニメーションではない、また生身の人間でもない新しい存在である。その意味では、現在問題になっているAI(人工知能)との、ネガティブではない付き合い方や可能性が、本作には内在しているように感じられる。

 もちろん、本作は映画におけるCG使用の草分け的存在でもあるジェームズ・キャメロンの意図する革新性が反映されていることは間違いない。そこにさらに、『プラネット・テラー in グラインドハウス』で、武器を肉体の一部にした女性キャラクターの描写を行い、『シン・シティ』(2005年)でCGアニメーションと実写との境界を探るような実験的な試みを見せたロバート・ロドリゲス監督の作家性も活きている。

 さて、これらの技術を使って新しい表現に到達するのはいいとして、主人公の内面をどう描いているかということが、本作においては問題になるだろう。ボーイフレンドのピンチを救うため、バトルを繰り広げながらも助けに向かうようなスーパーガールとして描かれるアリータは、徹底して愛情深い人物として表現されている。原作の要素を組み直して娯楽映画のサイズに合わせるため、ここで本作の脚本は、全体を一つの“愛の物語”として解釈し直している。

 特筆すべきなのは、アリータがボーイフレンドのために、自分の心臓をつかみ出すシーンだ。自己犠牲こそが愛情の証ならば、本物のハートを相手に差し出すことこそが、最大級の恋愛描写ではないだろうか。そしてアリータは、毅然と「わたし、半端はやらない」と言い放つ。このサイボーグを登場させているからこそ可能な、凄まじい愛情表現の描写は、下手な恋愛映画が到底太刀打ちできないほど、愛の本質をそのまま映像化した根源的なパワーがある。

 そして、アリータがボーイフレンドの想いを胸に秘めながらも、涙を文字通り“断ち切って”、自分の戦いに向かう姿は、あまりに凛々しい。感情を、愛情を、映像そのものが語る。本作が広く理解されるのは、この誰もが理解できる強固な表現が存在するからであろう。

 個人的に、本作のこのような心意気を見せる描写からは、例えば鈴木則文監督の『女番長(スケバン)』シリーズのような青春作品を想起させられた。『女番長』シリーズに登場するのは、筋を通しながら、弱い存在の男に誠を尽くすも、愛する男に裏切られたり、純粋であるがゆえに失ってしまう境遇の女性ばかりである。その構図は、古い男女観が投影された物語における立場を逆転したような進歩性を持っている。

 本作が『アバター』を通過したCG技術を駆使して描き出したのは、特異な美しさであり、人間を超越した動きであり、そこに乗せる高潔な精神である。それらが三位一体となって、ギラギラするほどにキャラクターが際立った、心から応援できる真の女性ヒーロー“アリータ”が生み出されたのである。(小野寺系)

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