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高橋一生の悪の色気に虜にならずにはいられない 舞台『天保十ニ年のシェイクスピア』が放つ“毒”

リアルサウンド

20/2/18(火) 10:00

 日生劇場で絶賛上映中、今後の大阪公演、Blu-ray・DVDの発売も決定している『天保十ニ年のシェイクスピア』は非常に贅沢な作品だ。『天保水滸伝』の世界に、シェイクスピアの37戯曲を詰め込んだ井上ひさしの初期の戯曲であるこの作品は、浦井健治の『ハムレット』『ロミオとジュリエット』、そして高橋一生の『リチャード三世』、辻萬長の『リア王』など、一つの作品で様々な名台詞を含めたありとあらゆる役柄を演じる俳優たちを堪能できると共に、ミュージカルとしても、侠客ものの時代劇としても面白い。

参考:高橋一生演じる政次の死が意味するものーー『おんな城主 直虎』が描く喪失と再生

 高橋一生演じる無宿人、佐渡の三世次は、いつも屋根の上に寝そべるように佇み、自分の言葉一つで踊る人々をニヤニヤと笑いながら見つめている。まるでこの豪華絢爛で、猥雑な、業まみれの世の中の全てを司る神であるかのように。片足が不自由というハンディキャップを抱え、これまで負ってきた苦労を示すかのように、顔全体が闇で覆ってしまっている男は、生まれながらこの世の不幸を全部背負って生きているかのようだ。彼は、そんな不幸をものともせず、言葉一つでのし上がり、世の中を面白可笑しく変えてみせようとする。

 彼にかき回されるように、物語は動く。『ハムレット』たる、きじるしの王次(浦井健治)に父親の復讐を決意させるのは、亡霊を装った百姓をマリオネットのように操る三世次であり、時には『リチャード三世』よろしく振る舞い、時には『オセロー』におけるイアーゴーのように、巧みに男の嫉妬に火をつける。彼の傍には、『マクベス』の魔女を思わせる清滝の老婆(梅沢昌代)が、輝かしい未来を保証する予言と警告を持って佇んでいる。彼の成功を阻むものがあるとすれば、どんな人をも狂わせずにはいられないもの、恋だけだ。相手は、世にも美しい、異なる性格の双子の女、唯月ふうか演じるお光とおさち(『間違いの喜劇』)。

 だが、シェイクスピアの全ての悪役の役割を担わされた三世次である。語り手である隊長(木場勝己)と共に、ありとあらゆる恋物語を傍から眺めるしかない運命の彼が、物語のヒロインに手を出すことは、そう容易いことではない。

 この作品の魅力は、その滅茶苦茶さと猥雑さにある。貞淑な乙女も狂気を装った王子も、歌詞の一つ一つをみるとなんだか卑猥。『マクベス』の夫婦はいつのまにか『オセロー』の夫婦に転じ、布団の上でくんずほぐれつの末「祈りは済ませたか」の悲劇に繋がる。命を奪い合う愚かな人間たちの悲劇の根底には、生、あるいは死への渇望があると共に、一見バカバカしく破廉恥な、燃え上がる性への渇望も無視することはできない。

 井上ひさしが、1974年の初演当時教養主義的に畏まって演じられてきたシェイクスピア作品を挑発し、これでもかというほどエログロと血糊で繋いだと言われるこの作品。高橋一生ファンだろうとそうでなくても、「きれいはきたない、きたないはきれい」と妖艶に歌いながら遊女たちと戯れる三世次の登場シーンで零れ出る、毒を持った悪の色気に、一瞬で虜となることだろう。

 これまでも、2002年のいのうえひでのり版では上川隆也、阿部サダヲ、2005年の蜷川幸雄版では唐沢寿明、藤原竜也と、名優たちが全くタイプの異なる『天保十ニ年のシェイクスピア』を演じてきた。

 藤田俊太郎演出、宮川彬良作曲の新演出によるこの作品は、辻萬長、梅沢昌代、木場勝己といった脇を固めるベテラン陣の安定感はもちろんのこと、かつてのドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)において主人公とヒロインのそれぞれの仕事場の上司役を演じていた高橋一生、浦井健治の魅力に尽きる。

 歪んだ愛を内に秘め、世の中をニヒリスティックに見つめ暗躍するダークヒーローの暗く哀しい魅力をしっとりと歌い上げ、自由自在に舞台上を行き来する高橋一生は、もはや彼以外にありえないとさえ思わせるハマリ役だ。それと共に、ミュージカル俳優である浦井健治の歌は音楽劇としての作品の質を高め、どんなに下品な台詞を口にしていても正義の王子としての凛々しさ、可愛らしさは一瞬たりとも損なわれないことは驚異的である。

 きじるしの王次とお光は、一目見た瞬間恋に落ちる。上から伸びた白い紐に掴まり飛び上がるように(「想像の翼で越えた」)、軽々と1階からお光のいる2階へと飛び上がる王次。テンションがいやに高いバカップルのような『ロミオとジュリエット』は、本来の彼らとはそのようなものだったのかもしれないと思わせて笑わせる。それを上から覗き込み、バカにしたように笑っている三世次は、ふと、自分の頭上から伸びている紐が一体どこから伸びているのか不思議そうに確認する。「蜘蛛の糸」が天から降りてきて、何の気もなしにそれの力を借りて、空に飛び上がってしまった王次。王次とお光は、『マクベス』の3人の魔女のようにグツグツと釜を焚く老婆たちに導かれ、人形浄瑠璃の人形よろしく操られ、大きな何かに導かれて、桜舞い散る悲劇へとひた走っていくのである。

 彼らを導いている引力とは何か。全ては三世次の手の平の上、それとも清滝の老婆の手の平の上か。いや、この物語の全てを操っているのは三世次の言うところの「ことば・ことば・ことば」。何百年も世界中の人々の心を魅了し続けてきたシェイクスピアの言葉の毒、井上ひさしの戯曲の毒。その毒に狂わされ、引き摺られ、従わずにはいられないのは、この物語の登場人物たち全員であり、我々観客自身なのだ。(藤原奈緒)

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