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李琴峰が語る、セクシャリティとアイデンティティの揺らぎ「10年後には違う自認が生まれるかも」

リアルサウンド

19/10/3(木) 8:00

 台湾出身の小説家、日中翻訳者の李 琴峰が著した小説『五つ数えれば三日月が』が、第161回芥川龍之介賞候補になるなど、高い評価を受けている。台湾から日本に移り住んだ林妤梅と日本から台湾に移り住んだ浅羽実桜が久しぶりに再開するエピソードの中に、民族的アイデンティティの倒錯と性的マイノリティの心の揺らぎを重ねて表現した同小説は、グローバル化が進み多様な価値観が認められつつある一方で、言いようのない息苦しさも感じる現代社会の一面を精緻な筆致で描き出している。著者の李 琴峰に、同小説のテーマとなる民族的アイデンティティと性的マイノリティの問題についての意見を伺うとともに、日本語で文章を書くことの意味についても聞いた。(編集部)

「生きづらさや息苦しさは普遍的なもの」

ーー『五つ数えれば三日月が』を書き著したきっかけは?

李 琴峰(以下、李):日本の大学で知り合った、小説の実桜のような友達がいるんです。小説と似たように、私は日本に住み続けていて、彼女は台湾に行って日本語教師として働き始めました。そして彼女は、いつの間にか結婚して、家庭を持ちました。ちょうど作品と同じぐらいの日付で、2018年の夏に久しぶりに東京で彼女と会って、いろいろ話しているうちに台湾の遠い昔の記憶が自分の中で浮かび上がってきたんです。私はすっかり東京生活に慣れていて、逆に彼女は台湾生活に慣れていて私より詳しい。そういった倒錯性がすごく面白いなと思って。2人の関係性をテーマに、故郷あるいは異郷に対する記憶、住み心地みたいなものを小説にしたら面白いのかなと思ったのがきっかけでした。

ーー日本から見た台湾、台湾から見た日本という視点から見て、李さんはどんなことを感じましたか。

李:台湾にいても日本にいても、現代社会において私たちがアイデンティティを自らの意思だけで確立するのは困難で、いろんな価値観を押し付けられているということは感じました。国籍とか出生地、性別、あるいはセクシャリティといったものに、私たちはいつの間にか囚われています。小説の中の主人公の2人、一人(林妤梅)は台湾から日本に来て、一人(浅羽実桜)は日本から台湾に行く。自分が住む場所、そして過ごしたい人生というのを自ら選択するのですが、そういったプロセスの中で、どこかで必ずその立場における責任みたいなものが伴ってくるんです。例えば、実桜が二児の継母になることを選んだりすると、本人の意思とはまた別に継母としての責任を求められて、そこに難しさが生じる。一方で、作品の中の妤梅は日本に住み続けることを選びますが、やはり何かしらの困難を抱えます。そんな2人が久しぶりに会うと、対話を通して前世の人生のような感じで、故郷の記憶が蘇ってくる。そこに文学的な面白さを感じたので、力を入れて描きました。

ーー二人の会話には、元に戻せない関係性に対する寂寥感が滲んでいて、趣がありました。

李:そうですね。時間は過去に戻らないですし、結局、今を生きている私たちも時間、時代というものに押し流されながら前に進むしかない。そういったもどかしさを、私も恐らく現代人ならちょっとは感じているんじゃないかなと思います。そこも意識的に作品に取り入れました。

ーー特にここ10〜20年は、テクノロジーの発展やグローバリズムによって、どんどん価値観が変わっていて、生活にさえその影響を感じます。そのスピード感についていくのは大変ですよね。

李:一般の生活者にとっては難しいかもしれないですね。グローバル化の流れについていけない人たちにとっては、グローバル化はあたかも自分の生活を壊しているようにさえ見えるだろうし、そうなると保守的な守りの姿勢に入っていくのも理解はできます。グローバル化というものが、もっと人間に自由さをもたらすようなものであれば歓迎したいと思うんですけど、どうもそんな簡単なものでもない。グローバル化の中でも権力関係みたいなものは存在していて、それも気をつけないといけないことだと思います。

ーー本作では、海外から日本に来た方が抱く様々なギャップや、日本で過ごすことの難しさも描かれています。

李:外国人が日本で生きる難しさはもちろん書いていますが、そもそも自国で生きることだって簡単なことかというと、決してそうではありません。むしろ、息苦しさや生きづらさを感じずに普通に生きていけるような人って、ごく一部のマジョリティの人間だと思います。例えば、小説の中の妤梅だって台湾ではやっぱり生きづらさを感じていましたし、色々な過去があって、考えた結果として日本留学を選んで今の生活を手に入れています。だから、必ずしも異郷で暮らすのが大変で、故郷で暮らすのが快適というわけではない。生きづらさ、息苦しさというのは、人間が生きる上で普遍的なものだと思います。

「自認というのは誰もが考え続けないといけない」

ーー台湾に旅行に行くと、現地の方に歓迎されていると感じることがあります。そうした感覚について、李さんはどんな風に捉えていますか。

李:台湾は外国人を分け隔てなく心から受け入れているかというと、完全にはそうとは言えません。中でも、日本人、アメリカ人、白人、西洋人……といった先進国の人と、そうではない東南アジアや黒人といった人たちに対する態度は違うと思います。実際の問題として、東南アジアからの移民労働者たちが台湾に来てひどい仕打ちを受けているというニュースをよく見ます。そういう現実がある一方で、日本人が台湾に行くと丁寧にもてなされていると感じている。まず、日本人でも台湾人でも、人種や国籍によって相手の態度が変わっている可能性があることは、自覚する必要があると思います。

 私が日本に移り住んで来て、外国人として息苦しさを感じたことはあまりないですが、それは私が日本語が上手く話せて、外見もほとんど日本人と見分けがつかないからだと思います。日常生活を生きている限り、自分が外国人であるということを意識させられることはあまりないですね。でも、差別を受けたり、息苦しさを感じたりすることが完全にないのかというと、そうでもなくて。例えば、家を借りる時とか大きな手続きをする際だと、どうしても自分の出自を提示しないといけない。そういった場面においては、外国人は入居ができなかったり、高い保証料を徴収されたりといったことはあります。一人の生活者として、故郷だから快適で、異郷だから息苦しいというような単純なものではなく、どちらで生きても絶対に人の温もりみたいなものを感じる瞬間はあるし、逆に酷い仕打ちや差別的な扱いを受けたり、息苦しさを感じたりすることはある。そこは個々の生活者が生き抜いていかないといけないところだし、社会側も変えていかないといけないところだと思います。

ーー性的マイノリティの問題については、どのように考えていますか。

李:性的マイノリティか否かという問題は、個人の自認の問題であると捉えています。私は異性愛者でストレートだという人には、性的マイノリティをめぐる問題は無関係な話に思われるかもしれません。しかし、自分こそが普通だという人たちにはちょっと考えて欲しい。自分が例えば異性愛者やシスジェンダーだったり、あるいは自分がごく普通の一般人だと思うのはなぜなのか。その理由を考えていくと、性というものをまた違った視点で見ることができるのではないでしょうか。

ーー自己認識という考え方を知ることが、多様な性に思いを馳せる上で大切だと。

李:そうですね。それに、自認というものは結構揺らぐものだとも考えていて。人生のある段階、あるいは時代によって「自分はこうである」という捉え方は変わってくるものなので。10年前はこう思ってたけど、10年後はまた違う自認が生まれてくるかもしれない。そういう風に捉えると、自認というのは誰もが考え続けないといけないものだと思います。自分はマジョリティで異性愛者だと自認して安心していたとしても、そう自分を位置づけることは、もしかしたら思い込みでしかないのかもしれない。そういう考え方を、もっとみんなが意識していくと良いのになと思います。

ーー本書に収録されたもう一編の作品「セイナイト」では、映画『アデル、ブルーは熱い色』といった性的マイノリティの恋愛を題材にした作品が出てきました。映画や文学作品、あるいは音楽において、そうした表現が昨今増えてきていますが、李さんはどのようにご覧になっていますか?

李:性的マイノリティを題材とした優れた作品が生まれていることには、もちろん諸手を挙げて賛成、歓迎しています。実際、そういった人々は当たり前のように世の中で生きているので。そういう人たちを表現する、あるいはそういう人たちが表現する作品は出てきて当たり前で、むしろ今までは少なかったとさえ個人的には感じます。ただし、自分がそうじゃないと思う人がそういう人たちを描くにあたっては、非常に真摯な姿勢が求められると思います。村上春樹の小説にもレズビアンやゲイ、トランスジェンダーが出てきますけど、そういう人たちの人生を本当に描くことができているのかというと、私はそうは思いませんでした。セクシャルマイノリティを記号として捉えるだけでは、その実相を描くのは難しく、かえって人々に誤解を与えかねないと思います。レズビアンやゲイ、トランスジェンダーといった人たちを特殊な存在として作品の中に取り込むことで、小説の豊富さ、あるいは陰影を作る役割を果たしていたのかもしれないけれど、これからはもっと真摯な姿勢が求められてくるはずです。現実でそういったセクシュアリティを自認している人たちが、どのような人生を送っているのか、きちんと向き合う必要があります。もちろん、良い作品はたくさんあります。綿矢りささんの『生のみ生のままで』は好きでした。ただ、女性同士の恋愛にはもっとドロドロした部分もあるから、そういった側面を描く作品も読んでみたいです。

ーー台湾の文学界ではレズビアン小説などは、日本よりも一般的になっているのでしょうか?

李:必ずしもそうとは言えないです。台湾というとLGBT、セクシャルマイノリティの人権が進んでいるイメージはあり、実際今はその通りだと思いますが、歴史を紐解くと1987年まではいわゆる戒厳令が敷かれた独裁政治の時代で、マイノリティ、少数者、社会的弱者にとっては生きづらい時代でした。白先勇の『孽子(げっし)』は、1970年代の台北新公園という発展場を中心にゲイコミュニティを書いた長編小説で、その中でも示されているようにゲイというのは森の中で彷徨ってるだけで、警察に追いかけられたりする時代でした。民主化した90年代に入り、セクシャルマイノリティ運動、そして女性解放運動が興り、それを支える形で同志文学という名のセクシャルマイノリティ文学が爆発的に増え、2000年代に入ってからは当たり前のようになっていきました。今の台湾の文学界では、むしろそれを売りにしないような感じです。日本にも昔から同性愛者、セクシャルマイノリティを扱う小説、あるいは表現が存在していたと思います。ただ、それを一つの独立したジャンルや呼び方、同性愛小説、セクシャルマイノリティ文学だといったアピールの仕方はしてこなかったのかなと。だからこそ、可視化されてこなかったのかもしれないけれど、それでもいいような気もします。セクシャルマイノリティは、決して珍しいものではないのだから。

ーーそういった作品において、日本と台湾で描かれている恋愛観に違いはありますか?

李:あくまでも私の個人的な感覚ですけど、伝統的に台湾のレズビアン小説って暗くて、だいたい組織からの放逐だとか家庭からの追放、あるいは自殺だとか、そういったモチーフ、ストーリー、プロットが多い。台湾では誰もが知っているレズビアン作家の邱妙津も、1995年に26歳で自殺した作家です。彼女は『ある鰐の手記』や『蒙馬特遺書(モンマルトルの遺書)』といった有名な小説があるんですけど、どちらも主人公が(象徴的な形であれ)自殺してしまうという物語です。私が読んでる範囲では、日本だとそういった表現は少ないですね。最近、松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』を再読したんですけど、既成概念に捉われずに自分たちならではのセックスの仕方を追求する女性同士の姿が描かれた小説になっていて、自死や追放、現実社会の障壁みたいなものは強調されていません。台湾と日本の作品では、そういった傾向の違いはあると感じています。

「日本語が美しい言語だと思った」

ーー李さんご自身のお話も聞かせてください。そもそもなぜ日本語で小説を書こうと思ったのでしょうか。

李:もともと言語に限らず表現が好きだったんです。第一言語は中国語なので、もちろん台湾に住んでいる時には中国語で書いていました。同時に日本語も習っていて、割と初級の段階から日本語で何かを表現するというのが好きでした。日本語が美しい言語だと思ったんですね。それに、日本で生きている私の生活を書くためには、中国語だとどうしても壁ができてしまう。日本の社会、固有名詞、生活といったものは、日本語で表すのが1番ストレートです。2016年に大学院を卒業して働き始めた後に書いたのが『独り舞』という小説で、それが群像新人文学賞優秀作を受賞したので、日本語で書き続けようと思ったのです。

ーー日本語が美しい言語というのは、具体的にどういった部分に魅力を感じたのですか?

李:まず、音韻面で日本語の発音は開音節というものです。子音プラス母音が1つの組み合わせで、世界中の言語を見ると必ずしもそうではない言語が多い。中国語は閉音節というもので、子音プラス母音の後ろにさらに「n」とか「ng」といった子音がくっついてくる。子音プラス母音という開音節は、リズミカルで聞いていて心地がよく、日本語を習う以前から好きでした。疑問文になると上昇調で、そうではないときは下降調というように、イントネーションで意味が変わるのも面白かったです。

 表記面のことで言うと、漢字、ひらがな、カタカナと、複数の文字種が混在していて、それがそのまま情報の密度を示しているのが魅力的でした。そういった感じが私は好きですね。中国語だと全てが漢字で、どこが情報の密度が一番高いところかが分からない。英語も全部がアルファベットで。日本語みたいに複数の文字を使い分けている言語って珍しいし、中国語とは漢字という共通項があるところも好きです。

ーー最後に、異なる文化的な背景や性的指向を持つ多様な方がいる中で、李さんが大切にしていることを教えてください。

李:相手のことを決めつけないことじゃないですかね。社会の中で私たちは、他人と出会った瞬間からいろんな先入観を持つもので、それ自体は仕方がないことだと思います。外見からも男性だと判断するし、何歳ぐらいの人なんだろう、国籍は東洋人なのか西洋人なのかと判断してしまうのは、人間の認識の問題として誰もが行なっていることで。でも、それだけでその人を分かったと思い込むのは危険なことで、この人はこういう人だと決めつけずに、相手のことをちゃんと理解しようとすることが大事だと考えています。

(取材=松田広宣/構成=渡辺彰浩/写真=林直之)

■書籍情報
『五つ数えれば三日月が』
李 琴峰 著
定価:本体1,400円+税
発売中
発売/発行:文藝春秋
李 琴峰の公式サイト:https://www.likotomi.com/

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