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『獣になれない私たち』のテーマは近代文学にも繋がる? その凄さの本質を徹底解剖

リアルサウンド

18/12/12(水) 6:00

 ガッキーこと新垣結衣と松田龍平が主演するTVドラマ『獣になれない私たち』(日本テレビ系)、通称『けもなれ』は、日本のドラマのなかでは、かなり異端的な位置付けとなる作品だ。それは多くのドラマに存在する、主人公をとりまくモヤモヤを浄化する快感「カタルシス」がなかなか与えられないことが主な要因である。そのせいで展開は読みにくく難解なものとなり、輝くようなガッキーの魅力は押しつぶされて、一見くすんでいるように感じられる。

参考:なぜ田中圭にモヤモヤし、松田龍平に惹かれるのか 『けもなれ』正反対の男性が描かれる意図

 恋愛や結婚に経済的な概念をとり込むことによって、既存の恋愛・結婚観における男性優位のシステムを暴き、多くの男性にも理解できる角度から、対等な取引としての現代的な平等関係を作り出すことに成功していたのが、『けもなれ』と同じく野木亜紀子の脚本とガッキー主演の『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系/2016年)だったが、これに強いシンパシーを感じた視聴者にとって、今回は物足りないと思わせるものになっているのではないだろうか。

 だが本作『獣になれない私たち』は、脚本家にとってもガッキーにとっても、だからこそ先に進んだ、深みのあるドラマ作品になっている。モヤモヤしている視聴者も、このドラマには何か異様なものがあることを感じ取り、目が離せなくなっている人が多いのではないだろうか。ここでは、そんな本作の凄さの本質がどこにあるのか、複数の角度からじっくりと考察していきたい。

■「あの完璧な笑顔がなんかキモい」

 新垣結衣が演じるのは、IT企業の優秀な営業職を務める「深海晶(しんかい・あきら)」だ。田中圭が演じる交際中の恋人「京谷(きょうや)」とは、なんとなく結婚するような流れになってきていて、仕事もプライベートも充実した、順風満帆な生活を送っている。あくまで外側から眺めた限りでは。

 しかし本人にしてみると、その内情はかなり過酷だったり、納得し難いものだったことが、ドラマを追っていくことで明らかになる。優秀で気配りができるばかりに、複数の仕事を任されて激務に追われ、上司や取引先からはパワハラやセクハラなどを受けて笑顔で対処しなければならないし、恋人の京谷からも、かわいさや癒やしのような古い価値観による役割を求められ、違和感を持ちながら付き合い続けている。そしてそんな日々の鬱憤を、クラフトビールを提供するバー「5tap」に寄って痛飲することでなんとか乗り切っているのだ。

 そんな彼女のオアシスであるはずの「5tap」で、彼女と同じく常連の客である、松田龍平が演じる公認会計士の根元恒星(ねもと・こうせい)が、自分のことをこんな風に評しているのを立ち聞きしてしまう。

「前から思ってたんだよね。なんか、お綺麗どけど嘘っぽくない? あの完璧な笑顔がなんかキモい。俺、ああいう人形みたいな女ダメだわ」

 内心でショックを受ける晶だったが、この暴言が自分の生き方を考え直すきっかけにもなっていく。なぜなら、それは一理ある真実のことばだったからだ。そんな嘘のない恒星の方が、表面的に優しい京谷よりも、晶にとっては「一緒にいて楽」な存在になっていく。そしてこのセリフは、主人公を演じる新垣結衣にも向けられているように感じられるところに、ゾクッとした感覚を覚える。

■役割を求められる女性たち

 ポッキーのCMでニコニコしながらダンスを踊り、キュートな魅力で一気にブレイクしたガッキーだが、その後も常に求められていたのは、まさにそこで見せていた「ガッキースマイル」によるかわいさであり、癒やしの役割ではなかったか。彼女がそのような視聴者や番組制作者の求めに応じ続ける限り、彼女自身が本来持っているはずの地金(じがね)の部分というのは、いつまでも笑顔の裏に隠されたままなのではないだろうか。

 ドラマの中で、無理難題を押し付けてくる社長のデスクに置かれたPCのディスプレイの壁紙には、往年の女優、原節子の画像が設定されている。原節子といえば、絶大な人気を得ながら42歳の若さで引退した、清純派女優の代表格である。小津安二郎作品などに出演することによって演技面での評価も受けていたが、多くのファンが望んでいたのは、やはり「永遠の処女」と呼ばれる、可憐で清楚なイメージであっただろう。そしてそのことが、彼女の俳優業引退を早めたようにも思える。

 対して往年の女優、田中絹代は、原節子と同じような役以外にも様々な役柄を演じ、木下惠介監督の『楢山節考』(1958年)では、歯を抜いてまで老婆役を演じ、67歳で亡くなる直前まで俳優業を続けた。どちらが上と言うつもりはないが、少なくとも固定化されたイメージに縛られることに、演技の面で抗ったのは田中絹代の方だったのではないだろうか。

 ガッキーも原節子と同じく、期待されたイメージを強く要求されているタイプの女優である。それは『けもなれ』で、献身的で清楚でかわいらしく癒してくれる女性像を要求されている晶の境遇とシンクロする。このことに脚本は明らかに意図的である。そして暗い表情の多いガッキーを描くことで、彼女の知られざる魅力……まさに“深海に眠る水晶の輝き”を探ろうとしているのではないか。

 そしてこの問題は原節子を経由して、主人公・深海晶、ガッキー、そして既存の役割を要求される日本の女性にまで、一本の線によって貫かれている。原節子という現実の存在を持ち出すことによって、『けもなれ』は「現実」を描くことを宣言しているのだ。その気合いと決意は並大抵のものではないように思える。

■獣になれないという不幸

 「5tap」で晶と京谷が飲んでいるときに、二人は恒星と親密にしている、菊地凛子演じる女性「呉羽(くれは)」の着ている個性的なファッションについての話題をはじめる。京谷は「ああいうのってさ、どこにアピールしてるんだろうな」と同意を求め、晶は「着たい服を着てるだけじゃない?」と諭す。ここから、表面的には紳士的で優しい京谷が無意識では女性蔑視の偏見を持っていること、晶がそれに不満を持っていることが理解できる。

 会社や男が求める清純・献身への要求に対する反逆として、晶はファッションデザイナーの呉羽による個性的な服装を着込んで職場へと出かけるという、現状を変えるための思い切った行動に出る。ここが通常のドラマにおける「カタルシス」の部分である。だがそれは、本質的な待遇改善にはつながらない。本作では、耐え難い現実に対して何か前向きな行動を起こしても、さらなる現実に押しつぶされるという構図が繰り返される。そして、その特徴こそが興味深く面白い点なのだ。

 「獣になれない」というタイトルのフレーズは、当初、恋愛において積極的にアプローチすることができない、つまり「肉食系」ではないという意味だと想像させる。しかしエピソードを見続けていると、そういうことではないのが分かってくる。

 前述したように、晶の境遇は、人によっては恵まれたものなのかもしれない。キャリアウーマンとしてバリバリ働き、周囲に必要とされながら、同じようにバリバリ働く、頼りがいがあって優しい、結婚を前提とした恋人がいるのだ。それを、「生きがいを感じる仕事」、「真実の愛」だと思いこめれば、どれほど楽なのか。周囲から「かわいいね」と賞賛され、それを見くびられていると感じず素直に喜べたら、どれほど楽なのか。実際に晶は、「幸せなら手をたたこう」という歌を口ずさみながら、自分を幸せだと思いこもうと努力するものの、ギャップに耐えられず次第に病んでいく。

 逆に、周囲に媚びず、ときに嫌われても自分の要求を押し通し傍若無人に生きるという、本作では呉羽が実践しようと奮闘しているように、そのような生き方を選べればどんなにいいだろうか。だが現実には、そこまで自分を優先する度胸はなく、生きていくための給料も必要だ。

 そう、日本に生きている多くの人々が、晶と同様に、いまの自分の境遇を幸せだと思いこめず、だからといって環境をぶち壊すこともできない、中途半端な位置にいる。そしてそれこそが、社会のなかで窮屈に生きている「人間」という存在なのではないだろうか。だから我々は、獣になれないことで苦しみ続ける。

■近代文学としての『けもなれ』

 このどっちつかずの曖昧な世界を描くのは、もはや「近代文学」の領域となる。19世紀末のフランスでは、人間の真実を描くため、美化せずにそのままの姿を描く、エミール・ゾラなどによる「自然主義文学」が起こったが、その後日本でも、人間を複雑に描いていく「近代文学」が発生する。そこで描かれる人間は、善の象徴とも悪の象徴ともならず、勧善懲悪のドラマや分かりやすいカタルシスが生まれ得ない。しかし、だからこそ現実に近い世界が描けるのである。

 近代文学については、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(1918年)が説明しやすい。お釈迦様が極楽から糸を垂らし、生前に多くの罪を犯しながら、蜘蛛の命を助けたという、たった一つの善行をしたカンダタという男を、地獄から救い出そうとするのが、この物語だ。カンダタは結局、自分だけが助かろうとして他人を蹴落とそうとしたために、再び地獄へと落下してしまう。

 これは単なる教訓話にとどまらない。カンダタという男はひどい人間だが、蜘蛛を助けたことがあるように、まったく完全な悪人というわけではない。だからこそお釈迦様が助けようとするわけだが、極楽に行けるような存在でもないのである。つまり、蜘蛛の糸につかまりながら、地獄でも極楽でもない中間の場所にいるのが、人間の存在する位置ということになるはずだ。そして、それを描写するのが近代文学なのである。

 本作では、それが「5tap」という、日替わりで5種類のビールを提供するバーによって象徴される。晶、恒星、京谷、呉羽、そして京谷の元恋人である、黒木華が演じる「朱里(しゅり)」を加えた5人。彼女たちが、善とも言い切れず、悪とも言い切れない、つまり、日替わりで提供されるビールの雑味のように、日々変化しながら人間模様を見せていくのが本作である。『けもなれ』はその意味で、本質的に近代文学的だということができるのだ。

 背景になるのは、日本社会における様々な問題だ。男の浮気の重さと、女性の浮気の重さが違うという理不尽さに代表されるような性差別問題や、東日本大震災後の福島の問題、介護問題、雇用問題、ブラック企業問題、ハラスメントの問題などなど、見本市のように数々の膿(うみ)が噴出してくる。このようなシリアスで、すぐに答えを出せない問題に、主人公たち5人は直面する。晶のストレスの原因となる京谷も苦しんでいるし、ビールを飲みながら傍若無人に嫌味を言い放つ恒星ですら苦しんでいるのだ。このような厳しい現実に、どう対処すればいいのか。

■日常を壊す爆弾を持つこと

 そこで、物語のなかで面白い要素が出てくる。映画作品『太陽を盗んだ男』(1979年)というタイトルである。沢田研二演じる中学教師が、プルトニウムを盗み出して自前で原子爆弾を作り、日本政府を脅迫するという物語だ。

 原子爆弾は経済社会の中枢を破壊する威力を持っているが、『けもなれ』では、例えば晶がいつも携帯する辞表がそれにあたる。彼女は、どうしても我慢ができなくなったとき、即座にその辞表を社長の目の前に突きつけるため、肌身はなさず持っているのだ。それはまさに彼女にとって「日常を壊す爆弾」と呼べる最終兵器である。この爆弾を持つことにより、彼女は正気を保っていられるのである。

 近代文学における「爆弾」といえば、梶井基次郎の代表作である短編『檸檬(れもん)』(1925年)を、どうしても思い出してしまう。これは、病気や借金という現実や、陰鬱な気持ちを抱えた人物が、果物屋で一つのレモンを購入し、それを握っていることで幸福な気持ちを味わうという物語である。なぜ幸福なのかは、その後レモンを爆弾に見立て、本屋に置いて去っていくラストによって理解できる。つまり、ここでのレモンとは彼にとって、日常を壊す爆弾だったということだ。

 我々は、いつでも日常を放棄してやるぞという、ささやかなテロリストを気取ることで、過酷な日常の奴隷であることから目を背けることができる。しかし、本当に爆弾を投げつけたらどうなるのだろうか。結局、それは大した効果などなく、自分だけが被害を受けてしまうのではないか。投げたい、投げられない。この葛藤もまた近代文学的テーマだ。

■創作物は人間を救うことができるか

 それが本物の爆弾でない限り、現実はドラマの後も続いていく。だからこそ現実を反映した本作においては爆弾をおいそれと投げることができないわけだが、たとえ爆弾を投げたとしても、また一から新しいことを始めればいいだけの話だと言うこともできる。少なくとも自殺するよりは良いはずである。

 爆弾を投げても、投げなくとも、その可能性を持っている限り、我々は日常のささやかなテロリストである。それを握ることによって厳しい現実に対処していくことが、社会という制約のなかにいる弱い人間に残された、数少ない自由意志であることに違いはない。本作は、そんな爆弾を抱えた我々を優しく見つめ、現実の問題を安易に解決しようとしない誠実さを見せる。

 だが、そんなドラマの存在意義すらも、本作は厳しい目を向けている。呉羽の結婚相手である、ゲームクリエイターの「橘カイジ(たちばな・かいじ)」に会ったとき、橘はゲームを制作する理由を明かす。彼は、過去に自分が精神的にまいってしまったとき、ひたすら家にこもってゲームをするしかない日々を過ごしたことがあり、そんな過去の自分のように行きづまった人々が明るいところへ向かえるようにゲームを作るのだという。恒星は、ゲームで本当に絶望した人間が救われることなんて「ないでしょ」と言い放つ。

 ゲームもドラマも、一つの疑似的な世界を作り上げる創作物に過ぎない。恒星の言う通り、現実にいま、このドラマで描かれたようなシリアスな問題によって絶望の淵にある人を、ドラマが救うことはできないかもしれない。本作は、そこまで強い内省によって、自己を否定するところまでいってしまう。しかし、それでもそんな困難な道を目指すことが、今回の脚本家の挑戦だったのではないだろうか。それには、簡単に乗り越えられる問題を描いて、脆弱なカタルシスを用意するだけでは間に合わなかったはずだ。

 TVドラマや映画では、安易な嘘や、見せかけのカタルシスが氾濫している。そんな物語に、簡単に感情移入できて、生きる活力が与えられるなら、こんなに楽なことはない。しかし、そういうドラマに心から救われることができない私たち、つまり獣になれない我々にこそ、現実と戦い続けるパワーを与えようとするのが本作のねらいではないだろうか。(小野寺系)

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