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中川右介のきのうのエンタメ、あしたの古典

年末の風物詩ともいえるベートーヴェンの『第九』とオリンピックの関係性

毎月連載

第30回

20/12/12(土)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1819年頃)(写真:GRANGER.COM/アフロ)

2020年はベートーヴェンの生誕250年にあたる。

クラシック音楽はそれなりの歴史があるので、毎年、誰かの「生誕◯◯年」「没後◯◯年という記念イヤーになり、「生誕◯◯年」「没後◯◯年」と銘打ったコンサートが開かれ、セットもののCDやDVDが出る。演奏家、レコード会社、興行会社にとって、記念イヤーはビジネスチャンスだ。

記憶しているなかで最も賑わったのは、1991年の「モーツァルト没後200年」だった。当時の日本はバブル経済で浮かれている時期だった。

ちょうど、80年代なかばに登場したCDがLPと完全に入れ替わった時期でもあったので、レコード会社はセットもののモーツァルトのCD を競い合って出していた。

モーツァルトが作曲したすべての曲を演奏した全170枚入りの「全集」は、45万円もしたが、よく売れていた。はたして、全部聴いた人は何人いたのか。

その次が2006年で、今度は「モーツァルト生誕250年」だった。

2010年は「ショパン生誕200年」。同年にシューマンも生まれている。

2013年はワーグナーとヴェルディというオペラの2大作曲家の生誕200年だった。

そして2020年、モーツァルトに次ぐ大作曲家、ベートーヴェンの記念イヤーとなった。

2020年が「生誕250年」ということは、ベートーヴェンは1770年生まれである。12月16日が誕生日だ。

ベートーヴェンは祖父、父ともにボンの宮廷楽団の音楽家で、プロの音楽家としては三代目にあたる。

ベートーヴェンの一世代前の音楽家がモーツァルトで、1756年生まれ。14歳の年齢差だ。

1787年春、16歳のベートーヴェンはウィーンへ留学した。このとき、モーツァルトに会ったという伝説がある。たしかに、モーツァルトもウィーンにいたので、会った可能性はある。だが、二人の面談のエピソードには創作説もあり、本当のところは分からない。

16歳でのウィーン留学は、母が病に倒れたため数週間で終わった。その2年後の1789年、ヨーロッパを揺るがす大事件、フランス大革命が勃発した。そして、モーツァルトはその2年後の1791年に35歳の若さで亡くなる。

ベートーヴェンが改めて、故郷には戻るまいと決意してウィーンへ出てくるのは92年。もうモーツァルトはいなかった。

モーツァルトはマリー・アントワネットと同世代だが、ベートーヴェンと同世代なのがナポレオンで1769年生まれ。昨年は生誕250年だった。

ベートーヴェンは1795年にウィーンで、自作のピアノ協奏曲を弾いてデビューした。

モーツァルトが亡くなって4年目に、ウィーン音楽界は新しいスター音楽家を得たのだ。

東西ドイツの国交樹立にも一役買った、カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェンのトリプル・コンチェルト

50年前の1970年は、ベートーヴェン「生誕200年」だった。

当時はドイツが東西に分断されていたので、両国のオーケストラ、歌劇場、音楽家たちは、「われこそがベートーヴェンの本家」といわんばかりに競い合い、大きな企画を立てて、コンサートやレコーディングをした。

そのなかでも話題を呼んだのが、カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーが、ソ連の3大巨匠、リヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチをソリストに迎えて録音した、ベートーヴェンのトリプル・コンチェルトだ。

言うまでもなく、カラヤンとベルリン・フィルは「西」の音楽界の帝王、リヒテルたちは「東」の総本山ソ連の巨匠たちだ。冷戦時代、普通なら共演はありえない。

前年の1969年5月、カラヤンとベルリン・フィルはソ連へ演奏旅行し、大成功した。

それに続いて、同年9月に、ソ連からリヒテルたち3人が西ベルリンへ行き、カラヤン指揮ベルリン・フィルと共演し録音したのだ。その録音が、1970年にベートーヴェン生誕200年記念として発売されると、ベストセラーになった。

ベートーヴェンのトリプル・コンチェルトはそう有名な曲ではなかった。ソリスト3人が揃わないと演奏できないので、演奏機会も少ない。このレコードで初めて聴いた人も多かった。

ヘルベルト・フォン・カラヤン(写真:IMAGNO/アフロ)

カラヤンの動きは、東西ドイツの国交樹立にも一役買った。

それまでは両国とも自分こそが「唯一のドイツ」だと主張し、互いに相手を「国家」として認めていなかった。

ところが、東ドイツの後ろ盾であるソ連が、西ベルリンのオーケストラを呼んで演奏させ、さらにはソ連の音楽家との録音も許可したとあっては、東ドイツとしてはハシゴを外されたも同じだった。

カラヤンとどこまで連動していたのかは定かではないが、前後して、西ドイツのブラント首相は、東ドイツとの国交樹立に向けて動き出す。

東西ドイツの国家としての相互承認は、東西分断の固定化を意味していたが、現実問題として、カラヤンとベルリン・フィルをソ連が認めているのだから、東ドイツとしても、西ドイツを認めざるをえなくなっていた。

相互承認への動きは西からの呼びかけで、1970年3月の両国首脳の初の会談から始まったが、東の抵抗でいったんは中断した。だが、71年に東ドイツのトップのウルブリヒト第一書記が失脚しホーネッカーに交代すると、交渉は加速し、72年6月から再開した。

「東西統一ドイツ」時代のオリンピックでは国家の代わりに『歓喜の歌』が歌われた

東西ドイツの相互承認交渉のさなか、1972年8月から9月に西ドイツのミュンヘンで夏季オリンピックが開催された。ドイツでのオリンピックは、ヒトラー政権下の1936年のベルリン大会以来だ。

戦後最初の夏季オリンピックは1948年のロンドン大会で、この大会にはドイツと日本は参加できなかった。世界は、第二次世界大戦での2国を許さず、参加を承認しなかったのだ(日独伊三国同盟のもう一国のイタリアは参加した)。

現実に、1948年はまだドイツも日本も連合国軍の占領下にあり、独立国家でもなかったので、参加できなかったのはやむを得ない。

次の1952年のオスロでの冬季大会から日本と西ドイツは出場できるようになった。だが、東ドイツはまだ出られない。

その次の1956年(冬・コルチナ・ダンペッツオ、夏・メルボルン)から、ドイツは「東西統一ドイツ」として参加するようになる。1960年(冬・スコーバレー、夏・ローマ)、64年(冬・インスブルック、夏・東京)の合計6大会が、この「東西統一ドイツ」時代だ。

選手の選考は、二国間での予選をして決めた。団体競技は、東西で戦い、勝ったほうが出たので、混合チームではなかった。

競技で金メダルを取れば、表彰式では国旗掲揚とともに国歌が流されるが、この6大会では東西統一ドイツの選手が金メダルを得たときは、ベートーヴェンの第九の『歓喜の歌』が流された。

それぞれの国歌というわけにはいかなかったので、双方が「ドイツの歌」として納得できるのが、ベートーヴェンの『歓喜の歌』だったのだ。

68年からは東西がそれぞれ選手団を派遣したので、オリンピックの表彰式で『第九』が流れることはなくなった。

そして1972年秋のミュンヘン大会後の12月、二つのドイツが互いに相手を国家として認める東西ドイツ基本法が調印され、翌73年、二国は揃って国連に加盟した。

このミュンヘン・オリンピックではパレスチナ・ゲリラがイスラエルの選手団の宿舎を襲撃して、選手を人質に取り、救出作戦では人質とゲリラ全員が死亡し、警察にも犠牲者が出るという悲劇になった。

その追悼式ではベートーヴェンの英雄交響曲の第2楽章葬送行進曲が演奏された。

オリンピック・パラリンピックの精神にも共通する『第九』は疫病も乗り越えるはずだ

そして時は流れる。

東西ドイツが互いに相手を国家として認めてから四半世紀が過ぎた1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。

その年のクリスマスのベルリンで、レナード・バーンスタインの指揮、東西ドイツと米英仏ソ4国の演奏家による臨時編成のオーケストラと合唱団による『第九』が演奏された。

壁崩壊で、東西ドイツ統一の動きは一気に進み、わずか一年で実現した。

1990年10月2日、東ドイツ最後の日、東ベルリンではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が、クルト・マズアの指揮で『第九』を演奏した。これが東ドイツ最後の音楽だった。

「ベルリンの壁」崩壊 (1989年11月)(写真:Ullstein bild/アフロ) 

一方、オリンピックで再び『第九』が演奏される日がやってきた。1992年のバルセロナ大会だ。

1936年、「ヒトラーのオリンピック」となったベルリン大会に抗議して、スペインのバルセロナでは「民衆のオリンピック」が開催されることになり、開会式では、チェロ奏者でもあるパブロ・カザルスが指揮して『第九』を演奏するはずだった。しかし、直前にスペインでフランコ将軍によるクーデターが起き、中止になった。

政権を取ったフランコによる独裁は、彼が1975年に死ぬまで続いた。カザルスはその2年前に亡くなっていた。

そのカザルスの遺志を継ごうと、1992年のバルセロナ大会の開会式で、4分に編曲された『第九』が演奏されたのだ。

そして、1998年、長野での冬季大会の開会式では、北京、シドニー、ベルリン、ケープタウン、ニューヨークを衛星回線でつないで、五大陸にいる演奏家が、長野にいる小澤征爾の指揮で『第九』を演奏した。

『第九』の『歓喜の歌』は「世界はひとつ、人類はみな兄弟」と連帯を呼びかけるものだ。それは、オリンピック・パラリンピックの精神にも共通する。

『第九』と「五輪」は相性がいいのだ。

2020年は、そのベートーヴェンの生誕250年とオリンピック・パラリンピックが重なった。

6月には関連イベントとして、ベルリン・フィルが来日して、『第九』を演奏することになっていた。だが、中止になった。

そして皮肉にも、大合唱団が加わるこの曲は、コロナ禍では、最も演奏しにくい曲となってしまった。

それでも、いくつかの『第九』演奏会が予定されている。

『第九』は戦争も疫病も乗り越えるはずだ。

中川右介著『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』 (幻冬舎新書)

データ

『ベートーヴェン:三重協奏曲(クラシック・マスターズ)』

発売日:2014年6月18日
価格:1,400円+税
収録曲:ベートーヴェン:ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための三重協奏曲 ハ長調 Op.56
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ダヴィド・オイストラフ(ヴァイオリン)/ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)/スヴィヤトスラフ・リヒテル(ピアノ)/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
発売元:ワーナー・ミュージック・ジャパン
詳細はこちら

『Ode to Freedom - Beethoven: Symphony No.9』(DVD)

発売日:2019年9月20日
収録内容:ベルリンの壁崩壊記念コンサート1989 ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
監督:ハンフリー・バートン
指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:バイエルン放送交響楽団/ドレスデン国立管弦楽団/ニューヨーク・フィルハーモニック/ロンドン交響楽団/レニングラード・キーロフ歌劇場管弦楽団/パリ管弦楽団/ベルリン放送合唱団/ドレスデン・フィルハーモニー児童合唱団/ジューン・アンダーソン(ソプラノ)/サラ・ウォーカー(メゾ・ソプラノ)/クラウス・ケーニヒ(テノール)/ヤン・ヘンドリク・ロータリング(バス)
発売元:EuroArts
詳細はこちら

『第九 ベートーヴェン最大の交響曲の神話』

発売日:2012年1月27日
著者:中川右介
幻冬舎刊

〈おしらせ〉連載「中川右介の きのうのエンタメ あしたの古典」は今回が最終回です。皆様、ご愛読ありがとうございました! また、どこかでお会いしましょう。(編集部)

プロフィール

中川右介(なかがわ・ゆうすけ)

1960年東京生まれ。早稲田大学第二文学部卒業後、出版社アルファベータを創立。クラシック、映画、文学者の評伝を出版。現在は文筆業。映画、歌舞伎、ポップスに関する著書多数。近著に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)、『アニメ大国 建国紀 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち』(イースト・プレス)など。

『アニメ大国 建国紀 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち』
発売日:2020年8月19日
著者:中川右介
イースト・プレス刊

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