Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

中川右介のきのうのエンタメ、あしたの古典

コロナウイルスの猛威。演劇も映画も、戦争中以上の危機にある

毎月連載

第22回

20/4/12(日)

戦争という非常事態でも、劇場の灯は消えなかった

新型コロナウイルスの影響で、3月・4月に予定されていた歌舞伎公演はすべて中止になってしまった。

さらに5月から7月までの3か月間を予定し、チケットの発売を待つだけだった市川海老蔵の13代目市川團十郎襲名という大イベントも延期となった。

そして4月になると、緊急事態宣言が出され、それを受けて東京など大都市では映画館も休業となってしまった。

戦争や震災でも、劇場の灯は消えなかったのに、なんということだろう。

全公演が中止となった新作歌舞伎『NARUTO -ナルト-』チラシ

歌舞伎の歴史をみると、休場そのものは珍しくはない。

徳川時代の芝居小屋は木造だったので、火事が多く、数年おきにどこかが焼け落ちていた。簡単に焼けるが、再建も早かったので、長期にわたる休演はない。それに、ひとつが焼けても、他が残っているから、芝居公演がまったくなくなることはなかった。

東日本大震災のときも、国立劇場は当日から中止になったが、新橋演舞場での公演は、続いた(歌舞伎座は当時は工事中だったので、もともと公演はなかった)。

もっと遡れば、戦争中も、完全に歌舞伎などの演劇公演がなくなったわけではない。

政府が第一次決戦非常措置令により、劇場の閉鎖を命じたのは昭和19年3月のことで、歌舞伎座をはじめ全国の19の大劇場が閉鎖された。

それまで演劇はずっと上演されていたのだ。

閉鎖したものの、翌4月には国民から娯楽を奪うのは得策ではないとして、東京では新橋演舞場と明治座、大阪の大阪劇場と梅田映画劇場、京都の南座、名古屋の御園座、以上6つの劇場は閉鎖が解除された。

劇場の灯は消えなかったのである。

戦争中に結成された移動劇団「挺身慰問団」

一方、昭和16年(1941年)6月、大政翼賛会大会議室で日本移動演劇連盟が結成され、全国各地に劇団が慰問に派遣されることになった。

戦地への慰問団は、もっと前、昭和13年(1938年)1月から始まっており、吉本興業と朝日新聞社が共同で「わらわし隊」を結成し、芸人や劇団を中国大陸に派遣していた。

国内での本格的な移動演芸・移動演劇団は1940年から始まり、東宝、松竹、吉本らがそれぞれの移動劇団を結成した。

そして、日本移動演劇連盟が結成されたのだ。

移動劇団は、やがて挺身慰問団と呼ばれるようになる。

松竹の移動劇団には歌舞伎役者たちによる劇団もあった。戦後の歌舞伎界の中心となる11代目市川團十郎や、6代目中村歌右衛門らも、若手の役者として、挺身慰問団に出ていた。

この慰問団は、地方では歓迎された。東京や大阪、京都などに行かなければ見ることのできなかった大歌舞伎の役者が、自分たちの町に来てくれたからだ。

役者たちにとっても、結果として、いい宣伝となり、この慰問団の公演を観てファンになってくれた人が、戦後に歌舞伎座まで来てくれるようになる。

しかし、戦争中なので、まさに、命がけだった。

幹部役者のひとりだった、6代目大谷友右衛門(8代目友右衛門と5代目中村雀右衛門の祖父にあたる)は、この移動劇団で巡業中の、1943年9月に、鳥取で大地震にあい、楽屋として使っていた家屋が倒壊して圧死するという悲劇に見舞われ、57歳で亡くなった。

地震という天災だが、慰問中での悲劇なので、戦死に近い。

しかし有名な歌舞伎役者で慰問中に亡くなったのは、友右衛門ひとりだった。空襲でも、家を失った役者は多いが、命を奪われたものはない。

その意味で、歌舞伎役者ではないが、今回の志村けんの死は、衝撃だ。

移動劇団「桜隊」を描く大林宣彦監督の新作『海辺の映画館-キネマの玉手箱』

移動劇団というスタイルは、旅回りの一座に原型があるが、そういう大衆演劇、大衆演芸とは、まったく異なる新劇も、地方の人びとに演劇を伝えるために、巡業をしていた。

もともと新劇は予算規模が少なく、常設の劇場を持てないところが多いので、移動劇団というスタイルが適していたのだ。しかし、大政翼賛会に組み入れられることには新劇の劇団は抵抗していたので、日本移動演劇連盟には加盟しなかった。

それでも、加盟しないことには演劇活動ができなくなってくるので、加わっていく。

連盟加盟に抵抗していた新劇の苦楽座も、1945年1月に苦楽座移動隊となり、再出発した。

苦楽座移動隊は2月から3月に広島公演をした。その間に東京は大空襲を受けた。このままでは危険だと、巡業したことで縁のできた広島へ疎開することになり、6月に、15人が再び広島へと向かい、その機会に桜隊と改称した。

桜隊は広島を拠点として、7月6日から島根、鳥取に巡業し、7月16日に広島に戻った。そして次の公演に備えていたが、8月6日の原爆投下に遭遇、劇団員たちのうち宿舎にいた5人が即死、残ったメンバーも、被爆したため、8月末までに全員が亡くなった。

大林宣彦監督の最後の映画となってしまった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の後半は、この桜隊の物語となる。

(C)2020「海辺の映画館-キネマの玉手箱」製作委員会/PSC

戦争という非常事態でも、劇場・映画館の灯は消えなかった。

演劇人・映画人が消さなかったとも言えるし、政府も演劇を利用するために消さなかったという面もある。

その演劇が、2月下旬から次々と公演中止に追い込まれ、映画も公開延期、いくつものテレビドラマも延期されてしまった。

劇場が焼け落ちたわけでも、役者が病気や怪我で出られなくなったわけでも、観客もみな元気で楽しみにしているのに。

これを書いている4月時点では、新型コロナウイルスでは戦争ほど多くの人命が失われたわけではない。だが、そうなる可能性はある。

だから、劇場や映画館を閉じなければならないという理屈は、理屈としては分かる。
わかるがゆえに反対もしにくい。せいぜい、劇団員やミュージシャン、興行関係者の生活支援をしてくれと求めることしかできない。

最後の砦であった映画館も閉じてしまい、『海辺の映画館』も4月10日封切りが、延期となった。

まさにその予定されていた公開日の夜、大林宣彦監督は亡くなった。『海辺の映画館』は遺言となってしまった。

その死は新型コロナウイルスとは直接の関係はないが、「戦時下の死」には違いない。
人と人が殺し合う戦争ではない。国家が国民に死を命じる戦争ではない。

しかし、演劇や映画は、先の大戦以上の危機にある。

作品紹介

『海辺の映画館-キネマの玉手箱』(2019年・日本)

公開日未定
配給:アスミック・エース
監督・脚本・編集:大林宣彦
出演:厚木拓郎/細山田隆人/細田善彦/吉田玲/成海璃子/山崎紘菜/常盤貴子

プロフィール

中川右介(なかがわ・ゆうすけ)

1960年東京生まれ。早稲田大学第二文学部卒業後、出版社アルファベータを創立。クラシック、映画、文学者の評伝を出版。現在は文筆業。映画、歌舞伎、ポップスに関する著書多数。近著に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)など。

『手塚治虫とトキワ荘』
発売日:2019年5月24日
著者:中川右介
集英社刊

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む