玉川奈々福の 浪花節的ココロ
にんげんねもなくへたもない!
毎月連載
第12回
19/11/7(木)
手帳のポケットに、一篇の詩をいつも入れてるんですけれど、今回の文章を書こうとして引っ張り出したら、ぼろぼろにちぎれてしまった……。
「あ……!」
新しく印刷して、入れなおせばいいんだけれど、長年大事に入れていたのが、ぼろぼろにちぎれてしまったことを、自分でびっくりするほど切なく感じました。
大好きな、詩です。
陶淵明は、中国の詩人。4世紀後半に生まれ、5世紀前半にこの世を去った人……日本で『古事記』が生まれるはるか前の文学者です。隠遁生活を楽しんだ詩人として有名です。
そしてこの漢詩の訳者は、川島雄三。かの『幕末太陽伝』や『貸間あり』を撮った映画監督です。
いい訳だなあ。なんといってもぜんぶひらがな(笑)! すなおで平易で、無頼が香る。口の端にのせたときの、七五、七七調の、ゴロのよさ。
この詩には当然、他の訳もたくさんあります。この訳を初めて読んだとき、てっきり井伏鱒二だろうと思い込みました。井伏鱒二の『厄除け詩集』。さまざまな漢詩を、井伏鱒二流に訳したもの。これも素晴らしいのです。ところが川島雄三と聞いてびっくりした。川島雄三は井伏鱒二の大ファンだったのだそうです。
浪曲の登場人物たちが教えてくれた、風に吹かれるまま生きることの強さ
一年続いた連載の、今回が最終回です。
何を書こうか迷って、この詩を挙げることにしました。
私のこのアプリ版ぴあでの連載タイトルは、『奈々福の浪花節的ココロ』。連載初回に申し上げましたとおり、私淑する小沢昭一さんが長年パーソナリティを務められたラジオ番組『小沢昭一の小沢昭一的ココロ』へのリスペクトをこめております。
川島雄三といえば、小沢昭一と大変縁の深い、というか、小沢昭一さんが心から慕っておられた映画監督ではないか。
小沢昭一御大を通して川島雄三へ、そしてはるか遠い陶淵明へのリスペクト。
この詩には、私が思う「浪花節的ココロ」が、詰まっているのです。
「人生無根蔕」……そもそも、人生なんて、よりどころのないものです。
というところから、始まる。
親がね、出身校がね、家系がね、財産がね……を「よりどころ」として認めない。
そして、人間全般に対する認識が「みちにさまようちりあくた」。
これ、森の石松や、左甚五郎や、小松村七五郎の女房お民の自己認識だろうなあ。つなぐべきものも、背負うものも何一つ持たない。身を要なきものと思いなしている。吹けば飛ぶような我が身である。だから自由だし、いつ死んでしまっても、仕方ない。
保身のために、人生にセーフティネットを敷くことにキュウキュウとしているわたくしどもとは、そも、認識が違います。
でも本当は、石松のほうが真実を知ってる...
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