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『君の膵臓をたべたい』と『青くて痛くて脆い』の共通点は? 住野よるが描く“後悔の苦み”

リアルサウンド

20/8/25(火) 10:00

 「小説家になろう」に掲載した小説を書籍化したデビュー作『君の膵臓をたべたい』(以下、『キミスイ』)がアニメ化・映画化されて大ヒットした住野よるの『青くて痛くて脆い』は、タイトルどおり就職を間近にした青くさい大学4年生たちが紡ぐ、痛々しい物語だ。

 8月27日の実写映画公開を控えて、未読であれば、『キミスイ』が好きな人もそうでない人にとっても、『キミスイ』のような作品なのか、それともそうではないのか、おもしろいのかおもしろくないのかというところが気になっている人も多いはずだ。

 そのあたりのことを中心にネタバレなしで書いてみたい。

「泣ける恋愛小説」ではなく「青春の苦み」を描く

 『青くて痛くて脆い』は『キミスイ』のような「泣ける恋愛小説」ではなく、「青春の苦み」を描いた作品だ。

 恋愛ではなく、誰にでも何かしら思い当たるだろう「昔は好きだったのに、変わっちゃったな」と寂しさとともに遠く感じる人や組織(グループ)との関係を描いていく。

 就活を終えた大学4年生男子の田端楓は、大学入学時に出会った意識が高くて空気を読まない女性・秋好が理想高く立ち上げたサークル「モアイ」の最初期に行動をともにしていた。ところがモアイに他の人間が入ってきて人数が増えるうち、自身はフェイドアウトしてしまう。「モアイ」は今では就活対策を目的とした人間が集まる俗物的なサークルと化しており、楓は大学生活最後になすべきこととして「そんな理念の組織じゃなかったはずだ」という想いから、モアイにひそかに接近してきな臭い噂の証拠を見つけ、崩壊させようと決意する。

 自分がつくったサークルからフェードアウトしていった創始者のひとりが、設立当初の理想から遠く離れた姿に変節してしまったと義憤に駆られて破壊するために画策する――というあらすじだけでヤバいにおいしかしない。

 しかし『青くて痛くて脆い』はタイトルどおり、そんな青くさくて痛々しい人間の物語だ。本が発売された当初から「主人公が身勝手すぎる」と賛否両論だったほどだ(映画でどんなふうにアレンジされるのか、あるいは吉沢亮が演じることでその評価がどれくらい変わるのか、気になるところだ)。

主人公が元いたサークルを叩く理由と、読者が主人公を叩く理由は似ている

 しかし、この主人公の身勝手さは、ある意味では読者である私たちの身勝手さと通じている。楓はどう考えても自分のエゴで動き、SNSで元いたサークル「モアイ」の誹謗中傷を書きまくったりしているのに、本人の中では「サークルの創始者・秋好のために、組織の理想を取り戻す」と、その行動を正当化する。そこが読者が嫌悪感を抱く理由になっている。

 楓が惹かれた秋好は、空気の読みあいを無視して言いたいことを言う人間だった。その秋好がつくったモアイが「なりたい自分になる」ことをめざす、理想を追う組織であることから逸脱したがために、楓は攻撃する側に回る。ところが楓自身、自分を偽り、取り繕って、まじめに受け答えができる人間という装いで就活に臨んで内定をもらっている。

 楓自身が量産型就活生としてそつのない振る舞いをすることで内定を勝ち取ったことを思えば、就活対策用の「実績」(企業から人を招いての講演会、ディスカッションイベントなど)や社会人とのパイプを提供するモアイにだけ敵対心を燃やすのは本来おかしい。

 人間、そんなに自由には生きられない。周囲の人間に合わせたり、人がほしがっていそうな(しかし心にもない)ことを言って場の空気を乱さずやりすごすことはよくある。だから別に楓もモアイの面々の振るまいも、褒められはしないが否定もできない、ごくありふれたことだ。けれど楓はモアイが許せない。

 ようするに楓のモアイへの憎悪は同族嫌悪であり、ないものねだりなのだ(それと作中で描かれる、「奪われた」という感情があいまっての暴走だ)。むしろ楓はモアイ攻撃にやっきになる前にまず自己批判をするべきなのだが、そうではなく攻撃の手を外側に向ける。自らをかえりみるのではなく、他人に怒りを転嫁する。これがとても人間らしい。自分のことは棚に上げて、人のことを悪く言う。あまりにも多くの人間がやりがちな、醜悪な光景である。

 そして楓を見ていて「勝手すぎるだろう」「やりすぎだ」とイヤな気持ちになるのは、おそらく少なくない読者自身が、自分や自分に近い人間のイヤなところを想起させられるからだろう。勝手に他人に期待して、勝手に失望して、勝手に怒る。言われる側の実態を知らず、言い分を真摯に聞こうともせずに。自分の中に渦巻く嫉妬や羨望に気付かずに。

それでもやはり『キミスイ』の作家が書いた――「過剰」な作品である

 もちろん身勝手な主人公が攻撃してスッキリしておしまい、とはならない。『青くて痛くて脆い』には、「現実的であること」(妥協)を嫌悪する青臭さを抱えた人間たちが、理想だけでは生きられないことを噛みしめる苦さがある。青春の蹉跌とも言えるし、ある意味では近代文学的でもある。

 その後悔の苦みは『キミスイ』に通じている。『キミスイ』でも『青くて痛くて脆い』でも、住野よるは「人によって見えている世界が違う」ことを描く。主人公は他者と本気で対話することを通じてやっとその事実に気づき、驚き、悔やむ。

 そして住野よるは、「人によって見えている世界が違う」ことを体験させるために、読者に叙述トリックを仕掛ける。読者が見えている世界と、作中人物が見えている世界だって違うのだ。その手腕もまた、やはり『キミスイ』と同じ作家の手によるものだと思わされる。

 人間関係には「ないものねだり」と「似た者同士惹かれ合う」の両面があり、はじめは「自分とは違うからこの人のことが好きだ」と思っているが、最後には実は「似ていたんだ」と気付いていく物語であるという点もまた、『キミスイ』と同じだ。住野よるの人間関係観がよく表れている。

 もちろん『キミスイ』と違うところだっていくつもある。ただ最大の違いは『キミスイ』以上に「過剰」な作品である、という点だと私は思う。鑑賞後には賛否どちらでもあっても、必ず何か言いたくなる。何かが残る。読後に身近な人間関係について、考えたくなる。

 そういうものを求めている人にはぜひ読んでもらいたいと思う。

■飯田一史
取材・調査・執筆業。出版社にてカルチャー誌、小説の編集者を経て独立。コンテンツビジネスや出版産業、ネット文化、最近は児童書市場や読書推進施策に関心がある。著作に『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』『ウェブ小説の衝撃』など。出版業界紙「新文化」にて「子どもの本が売れる理由 知られざるFACT」(https://www.shinbunka.co.jp/rensai/kodomonohonlog.htm)、小説誌「小説すばる」にウェブ小説時評「書を捨てよ、ウェブへ出よう」連載中。グロービスMBA。

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