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林遣都、1人3役を成立させたむき出しの演技力 『世界は3で出来ている』が描いた“今、この時”

リアルサウンド

20/6/12(金) 12:25

 全世界で、甚大な被害を及ぼした新型コロナウイルス。人命はおろか、社会構造や、日常さえも根本から破壊してしまった。この事態を経験した“今を生きる”人々はもう、それ以前の感覚に戻れないのかもしれない。「密閉・密集・密接」の「3密」を避ける意識、ソーシャルディスタンス、テレワーク……働き方も、他者とのかかわり方も、全世界規模でドラスティックな“激変”が起こってしまった今、ものづくりの「題材」にも大きな変動が訪れている。

参考:林遣都が『教場』『スカーレット』で放った魅力 『世界は3で出来ている』1人3役への期待

 ジャ・ジャンクー監督は、新型コロナウイルスをテーマにした短編映画を発表。行定勲監督や上田慎一郎監督はリモート映画を製作。柄本時生、岡田将生、落合モトキ、賀来賢人の4人が結成した「劇団年一」はリモート演劇を製作し、NHKは脚本家・坂元裕二と組んでリモートドラマを作り上げた。作品の内容はもとより、「今できる」範囲で、ものづくりを行い続ける表現者たちの崇高な精神には、大いに勇気づけられる。

 世界がどう移ろおうとも、その「変化」すら題材に昇華して創作する――。そしてここに、新型コロナウイルスが産み落とした新たな傑作ドラマが誕生した。当代きっての演技派・林遣都が3役を演じた『世界は3で出来ている』(フジテレビ系、6月11日放送)だ。

 2007年の映画『バッテリー』から一線を走り続ける林が、3つ子役に挑戦するというだけでも一見の価値はあるが、本作で描かれるのは「ウィズコロナ」の世界。つまり、全国的に緊急事態宣言が明け、都内の休業要請の緩和がステップ3に移行した“今、この時”だ。人と会えるフェーズにまで達したが、3密を避け、ソーシャルディスタンスを遵守せねばならないという“新たな常識”に苦心する3つ子の姿が、生々しくもユーモラスに、そして切なく描かれている。

 商事会社に勤務する望月勇人は、コロナ禍の3ヶ月間、テレワークを行っていた。緊急事態宣言が解除されたある日、彼のもとに3つ子の兄・泰斗と弟・三雄がやってくる。3ヶ月ぶりに顔を合わせた3人は、泰斗が持参したバターラーメンを食べつつ、それぞれの生活に訪れた変化を語り合う。

 本作の脚本はNHK連続テレビ小説『スカーレット』の水橋文美江、プロデュース・演出は『フジテレビ開局60周年特別企画 教場』の中江功が務めている。2作とも林の出演作であり、中江は「彼以外に考えられないので、断られたらこの企画はなかったことにしようと思っていました」とオフィシャルインタビューで語っている。

 期待を一身に背負った林は、ベスト・アクトの1本に挙げてもそん色ない、終始安定した演じ分けを披露。3人が同時に画面に映ることも多く、撮影時の手間を考えるだけで気が遠くなりそうだが、演技からは辛苦を微塵も感じさせない辺り、林の役者としての度量がうかがえる。劇中のセリフにもある通り「顔は同じ」だが、別個の人物にしか見えないのだ。髪型や服装などにもわずかな差しか施しておらず、ほぼ生身で3役を成立させたむき出しの演技力は、驚嘆に値する。

 それでいて、林がこれまで演じてきたキャラクターたちとも被っていない点は、甚だ恐ろしい。今回の作品の肝はやはり「同時代性」にあり、リアリティが担保されていなければならない。つまり、わかりやすい癖、大げさな演技などキャラクター性を強く立たせることが、視聴者が生きる日常と比較した際に現実味が薄れ、ノイズにもなりかねない状況だ。いかに「普通に」演じられるかが重要視される中で、三者三様の連綿たる名演をさらりとこなしている。三雄に対して勇人と泰斗が言う「かわいい」は、同じセリフながら異なる色の慈愛を感じさせ、実に味わい深い。

 そこに、中江のキレの良い演出(スムーズに見せているが、序盤からカット割りがかなり多い。テンポ感に腐心している表れといえよう。また、冒頭に勇人のマシンガントークを盛り込み、林の演技力で作品世界に一気に引き込む、いわば“先制パンチ”を仕掛ける演出も上手い)と、水橋の人情味あふれるセリフが組み合わさり、エンタメ性とリアリティの調和――さらには悲喜劇の絶妙なニュアンスを奏でている。

 たとえば「ソーシャルディスタンス!」を呪文のように繰り返す生真面目で神経質な泰斗が、実は昔から穴があると指を入れたくなるたちで、たまたま見つけた勇人の指輪をはめたら抜けなくなるシーンなど、人物のギャップを見せて笑いを生み出すアプローチをとると同時に、「会社を辞めたがってるお前が心配で、だけどこの3ヶ月会いに行けなかった」というストレートな家族愛も描き出す。カッコ悪く、愛おしい人間そのものを、脚本がしっかりと提示しているのだ。

 この「カッコ悪い」、或いは「カッコつけない」人間の生々しさが、非常に上手く出ているのが、コロナ禍のなかで感じた個人個人の想いを、3つ子が吐露するシーン。テレワークに移行したおかげで働きやすくなり、社内で出世した勇人は、「ここだけの話、本当良かった。新しい生活ブラボー!」と叫ぶ。

 ここで「ここだけの話」と連呼するのがポイントだ。なぜそんな前置きを置くのか、それは新型コロナウイルスで人命が失われ、仕事を失った人々がいるという「事実」があるから。自分単位での浮き沈みに対する素直な気持ちを発言することは不謹慎である――という道徳心の上に成り立っている思考やセリフであり、臆することなくそれを言わせる部分に、作り手たちの強い意志を感じずにはいられない。つまり、『世界は3で出来ている』は、今、日本のどこかで交わされている家庭の会話を、加工せずに持ってきている。

 その言葉を受け、泰斗がぽつぽつと語る「コロナ禍の戸惑いや不安」も、観る者の共感に強く訴えかけ、心をかき乱す。「誰もいない渋谷をニュースで観て、本当なんだと思ってしまった」「三食自炊するようになった」「これまでは行き届いていなかった掃除や断捨離を行うようになった」「医療従事者に感謝するようになり、寄付もした」……。「だんだん考えることが決まってきた。いつ戻るんだろうって」「でも、人って忘れていくよな。もう渋谷に人いるもんな」という泰斗のセリフににじむ漠然とした哀しみは、多くの人々が言葉にせずとも感じている気持ちと合致するだろう。彼らもまた、私たちと同じように今を生きている。そう感じられることが、ひいては我々の「救い」にならないだろうか。

 新型コロナウイルスの罪深いところは、全人類を命の危機にさらす半面、富む者と失う者を生み出してしまったことだ。たとえば劇場映画が大打撃を受けたが動画配信サービスが売り上げを伸ばしたように、予想していなかった形で「貧富」のような構造が生まれてしまった。

 3つ子は結果的に全員がコロナ禍からうまく逃れ、得した部分もあるだろうが、彼らが食べるバターラーメンの製麺会社は、新型コロナウイルスにつぶされてしまった。どうすればよかったのかという無念はある。それは今後も消えないだろう。泰斗の言う通り、「忘れていく」のかもしれない。ただ、「忘れても思い出すよ」という勇人のセリフにあるように、さながら「母の味」を再現しようとするかのごとく、失われ、消えゆく者たちの存在は周囲の心に刻まれていく――それもまた、事実だ。

 そしてここで効いてくるのが、林遣都の3人芝居。それぞれに語る言葉や感じる思いが異なる3人は、1人の人間のアンビバレントな状態を示しているのかもしれない、という気にさせてくるのだ。新型コロナウイルスによってもたらされた恩恵も、奪われた日常も、両方あって、うれしさや喜びと同時に、悔しさや悲しみも経験した。我々個々人の中に、白と黒ともいえない感情が渦巻いている。それを3つにセパレートして提示したものが3つ子に象徴されているのだとしたら、実に老獪なアイデアだ。

 事実と同じ土俵で出来上がった『世界は3で出来ている』は、新型コロナウイルスを別の病気に置き換えたりぼやかしたり改変することなく、ありのまま見せる。セリフの1つひとつも、生々しい。つまりこのドラマには、ウソがないのだ。

 ただ1つだけ、本作に存在するウソ。それは、林遣都を3体に増幅させたこと。その意図はきっと、「面白いから」だけでないのだろう。「どう感じてもいい。すべて、あなたなのだから」――。そんなメッセージが、伝わってくるようだ。(SYO)

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