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高橋一生が語る夫婦の愛のカタチ「重ねているのは、肉体だけじゃない」

ぴあ

20/1/21(火) 0:00

高橋一生 撮影/高橋那月

人間同士のセックスは、愛情を表現し合うもの

夫婦って、なんだろう。セックスって、なんだろう。上映が終わったばかりのざわめく劇場で、そんなことを密やかに考える極上の映画が誕生した。それが、1月24日(金)から公開の『ロマンスドール』だ。

物語に登場するのは、ある嘘と秘密を抱えた1組の夫妻。ひと目で恋におち、幸せなゴールを迎えた哲雄と園子。しかし、ハッピーエンドのその先には時間と共に少しずつ愛情が目減りしていく現実が待っている。そんな夫婦の10年を、監督のタナダユキが繊細にすくいとっていく。

セックスの本来の目的は、あくまで生殖行為。だけど、劇中で描かれる夫婦のセックスを見ていると、何かもっと別の意味合いがあるのだと感じずにはいられない。

「僕も同じことを感じました。実は魂のようなものは人間だけに託されているんじゃないかと。命が物理的なものだとしたら、魂はもっと精神的なもの。たとえ命がなくなっても、魂は残り続ける。そういうことを思考する能力を与えられているのは人間だけなのではないのかと感じました」

そう夫の哲雄役を演じた高橋一生は、静かに語りはじめた。

「人間同士のセックスは愛情を表現し合うものであり、肉体を重ねているわけだけれども、重ねているのは肉体だけではない気がします。そんなことを感じながら、試写を観ていました」

劇中では、妻の園子との夫婦の営みの場面が何度か描かれる。それは、生々しく、官能的な香りをたたえながら、それでいて優しく、不思議な儚さに満ちていた。

「ベッドシーンに関しては、下品なものにはしたくないという気持ちがありました。タナダさんなら、きっとファンタジックになりすぎず、過剰に生々しくもなりすぎないものを撮ってくださるだろうという信頼を皮膚感覚で感じていたので、何も考えずに現場に行くことができました」

特に終盤で描かれる夫婦の営みは、ある種の神秘さえ感じてしまう。

「不思議な感じです。なんだか哲雄の中でも世界が分断されているような感覚でした。園子と同じ世界に住んでいるようで、住んでいない。この映画は哲雄のモノローグから始まっているので、もしかしたらここに出てくる園子は哲雄によって美化された園子なのかもしれないと思っていて。ある意味、“哲雄にとってのミューズ”の側面が強く出ていたりもするんですが、そもそもそういうものなんだと思うんです、人が人を見るときって。そういう奇妙な生々しさが伴っているシーンだと思います」

会話はキャッチボールじゃない

妻の園子を演じるのは蒼井優。ふたりのシーンで特に強く印象に残るのが、夫婦がテーブルを挟んで離婚について話し合う場面だ。高橋一生と、蒼井優。優れた俳優ふたりの見えない糸を引き合うような演技が、緊張感とおかしみをつくり出す。

「あそこは監督から『一連(カットを割らないこと)でやっていい?』と聞かれて。『もちろんいいですよ』と答えて、何パターンか一連で撮ったんです。会話はキャッチボールじゃないんだ、ということがわかるシーンでした」

よく息の合ったお芝居はキャッチボールに例えられる。けれど、高橋一生の考えは違う。

「キャッチボールと言うと、相手がフォームをとって投げてくるまでの間、僕はグローブを構えたまま。けれど、本来、会話は同時進行でいろんなことが進んでいる。敢えて例えるなら、卓球台の上で1つの球を打ち合いながら、台の下で球を5〜6個同時に投げているようなもの。そういうお芝居ができたのは、相手が蒼井優さんだからこそでした」

蒼井優とは、『リリィ・シュシュのすべて』以来、映画では実に19年ぶりの共演となった。

「優ちゃんが素敵だなと思うのは、自分のことを女優だとは思っていないんです。あくまで俳優部の一員という感覚で。その姿が見ていて気持ちいいですし、シンパシーも感じます。映画づくりには、演出部、衣装部、メイク部など、たくさんの作り手の方々がいて、僕たちはたまたま表側の見えやすい部署に立っているだけ。それを過剰に持ち上げられたりすると、気持ち悪くなってしまうこともあるんですが、この現場はそういう居心地の悪さをまったく感じなかった。職人たちが集まった、気持ちのいい現場でした」

何か足りないものがあるとわかった上でドールをつくっている

「職人」で言えば、高橋一生が演じた哲雄もまた職人だ。哲雄は、ラブドールをつくることで生計を立てている。ラブドールとは、不思議だ。単純に快楽だけを目的とするなら、人間の形をしている必要はない。けれど、人はそれに人間の形を与え、そして人間の形をしたそれをまるで本物の恋人のように愛する。欲望や愚かさ、いとおしさ。そんな人間の業そのものを形にしたのが、ラブドールと言えるのかもしれない。

「ただの道具では足りないものがあったとして、それが人型になったところでどれだけ変わるのかと言ったら、想像力で補って本当の人間のように思う人もいれば、もしかしたらとてつもない虚しさが襲ってくる人もいるのかもしれません。どう捉えるかによってドールの価値が変わってしまうところは、おっしゃるような業につながるところなのかもしれないと感じます」

そう前置きをした上で、高橋一生は撮影前に指導を受けたドール造形士の人々の姿を思い返した。

「しっかりとお話をしたわけではないのでわからないですが、造形士の方も『決定的に何か足りないものがある』ことを気づくためにドールを作っている気がしました。血管まで見えて、まるで本当の人間のようなドールが目の前にあっても、やっぱりわかるんです、欠落した何かがあることを。魂がないですから」

限りなく人間に近づけるために、できる努力と工夫はすべてする。だけど、どれだけ知恵と技術を尽くしても届かない領域があることを、造形士たちは自覚しながらドールづくりに臨んでいる。そう感じたと高橋一生は言う。

「ちらっと『機械工学のスペシャリストとタッグを組めば、ドールが動くことも可能ですね』という話をしたら、『そうなってしまったら怖いですけどね』とおっしゃっていました。それを聞いて、やっぱりそこに命を宿らせようとするところまでは行き着かないようにしているのかなと思ったんです。なぜなら、完全なものができてしまったら、人は想像力がなくなってしまうから。できれば想像力をのりしろとして残しておきたいと無意識の内に思っていらっしゃるんじゃないかなと」

僕らのやっていることは、どこまでいっても「ごっこ遊び」

そう考えると、造形士と俳優のやっていることは通じるものがあるのかもしれない。ドールが完璧な人間ではないように、俳優もまたどれだけ役に近づこうと全身全霊を傾けても、あくまでそれは架空の世界だ。

「僕らのやっていることは、どこまでいっても『ごっこ遊び』だと思います。その『ごっこ遊び』にどれだけ自分が没入できるか、自分を騙せるか、であって。極端な例を挙げれば、人殺しの役をやるからと言って本当に人を殺してしまうわけにはいかない。あくまで役との間に冷静さを持つことは必要だと思います」

高橋一生は、今や余人をもって替えがたい俳優だ。憑依する、とはまた違う。圧倒的な集中力と研鑽を積んだ技術で、与えられた役を人肌が感じられるまでにリアルに造形する姿は、まさに職人的ですらある。そう伝えると、高橋一生はくしゃっと笑ってから、控えめにかぶりを振る。

「そんな高尚なものだとは思っていないです。役者は、ひとつの人格をつくるんだなんて似非オカルトチックなシャーマニズムみたいなものを引き合いに出すつもりもまったくないですし。僕が目標にしていることは、監督やプロデューサーの方に『一生くんでよかった』と喜んでもらえるような仕事をすること。自分に仕事を与えてくれた方々に『高橋一生だからこの世界観が成立した』と言ってもらえることが喜びです。そのために淡々とやるべきことをやっていくだけ。そして、それをそのまま撮っていただくだけです。これと いった大仰な何かは自分の職業に対して思っていないんです」

俳優は、オファーを待つのが仕事。だからこそ、自分にオファーをくれた人のために、できる限りのことを尽くす。高橋一生が作品の中で常に絶妙な存在感を示しているのは、そんなスタンスに由来しているのかもしれない。そして、この『ロマンスドール』で高橋一生はその役目を果たした。幻想的でありながら奥行きをもった世界が奇跡のバランスで成立した理由のひとつは、間違いなく高橋一生が担っている。

『ロマンスドール』
1月24日(金)公開

撮影/高橋那月、取材・文/横川良明

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