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“画面の変化”から映画を論じる渡邉大輔の連載スタート 第1回はZoom映画と「切り返し」を考える

リアルサウンド

20/9/19(土) 12:00

コロナで変わってしまった世界

 2020年代のはじまりの年、世界は一変してしまった。

 いうまでもなく、2019年の大晦日に発見された新型コロナウイルス(Covid-19)による感染症の拡大(パンデミック)のことである。それは瞬く間に世界中を覆い尽くし、ぼくたち人類はいま、何百年に一度というスケールの人類史的なカタストロフの渦中にいきなり放りこまれてしまった。日本でも4月初旬に政府から発出された緊急事態宣言を端緒として、いわゆる「新しい日常」(New Normal)の定着が不可避的に進行している。このコロナ危機が2020年代中に完全に終息する保証はまったくない。その意味では、もう2020年以前の世界に戻ることはほぼ不可能になったといってもよいだろう。

 そして、それはカルチャーの領域でも変わらない。大規模ロックフェスからアイドル文化、2.5次元ミュージカル、そしてシネコンの応援上映まで、ダウンロードやストリーミングの普及に伴うコンテンツのフリー化により、1回限りの「経験価値」を効率的に市場化する「ライブエンターテインメント」が21世紀文化の新たなスタンダードになるだろう――と、2000年代後半以降の(ぼくも含めて)多くの文化批評が声高に主張してきたのもほんのつかの間、「3密」や「クラスタ」の回避のため、その種のコンテンツやイベントは、今後しばらくは、大きな対策変更を余儀なくされざるをえないはずだ。

「withコロナ」時代の映画とは

 そして、それは国内外の映画を観る環境においても変わらない。

 たとえば、シネコンからミニシアターまでの映画館は、4月の緊急事態宣言下では先行きの見えない臨時休業を余儀なくされた。宣言解除後の現在も少なからぬ数の新作の公開が延期され、また当然ながら観客数も落ち込んでおり、業界全体が依然厳しい状況に立たされている。とはいえその一方で、そうした新作の一部が劇場公開と並行してNetflixなどのオンラインストリーミングサービスでも配信され、また、この間に一挙に社会に広まった「Zoom」などのウェブ会議アプリを用いた実験的な作品が作られるなど、「withコロナ」にふさわしい、これまでには見られなかった新しい試みもはじまっている。

 この2020年代の「新しい日常」において、映画を取り巻く状況は、そしてぼくたちが映画を見るまなざしはどう変わるのか? 大きくいって、この連載でぼくが考えたいのは、そのことだ。

「Zoom映画」の画面は新しい?

 ただ、ここでひとつつけ加えたいのは、このアフターコロナの「新しい日常」は、それ以前に現れはじめていた状況と切り離された、まったく新しいものばかりではないということだ。ぼくの見立てでは、それは2010年代(もちろん、あとで詳しくたどるように、この年代は切り口によって、2000年代後半や1990年代、あるいはそれ以前へと、もっと遡行できる)には、すでに現れていた。つまり、いまぼくたちの目の前に起こっている映画や映像――ひいてはカルチャーをめぐる新しい状況とは、10年代までに少しずつ、だが確実に姿を見せてきた21世紀的な想像力やシステムが、いっそうラディカルな形を伴って一気に全面化してきた状態だと理解したほうがいい。

 映画の分野でさっそく一例を示そう。7月31日、ふたりの世代の隔たった映画監督がコロナ禍に揺れる映画界でそれぞれ新作を発表した。ひとりは、『8日で死んだ怪獣の12日の物語―劇場版―』をミニシアターとVimeoによるオンライン上映の両方で公開した岩井俊二。そしてもうひとりは、本来の公開日だった4月10日に亡くなり、結果的に遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』の大林宣彦である。

 このうち、岩井の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』は、5月に立ち上がった「カプセル怪獣計画」というプロジェクトの番外編として作られた作品である。これは、「怪獣の人形に仮託してコロナウイルスを倒そう」という趣旨のもとに、リモートで制作した動画をリレー形式でつなげていくという企画で、作中にも役者のひとりとして登場する樋口真嗣ら5人の映画監督が発起人となってはじまった。もともとは5月20日からYouTubeで、12日間連続で配信されたショート動画を劇場用に再編集したのが、この「劇場版」である。

 新型コロナウイルスのパンデミックで外出自粛が続く日々のなか、主人公の俳優サトウタクミ(斎藤工)は、通販サイトで「カプセル怪獣」を買う。最初は植物の小さな種のような塊、そこから紙粘土のような固形物へとしだいに形を変えて成長していく怪獣の様子を、同じく怪獣を育てるYouTuber「もえかす」(穂志もえか)の配信動画などを眺めながら、彼はウェブで毎日配信していく。コロナ禍が原因で撮影も止まりひたすら自宅にいるタクミのもとにはコロナ禍で無職になったという先輩のオカモトソウ(武井壮)や通販で宇宙人を買ったという丸戸のん(のん)など、さまざまな友人たちから連絡が来て会議ソフトを通じて雑談を交わす。そのなかで、怪獣に詳しい知り合いの樋口監督(樋口真嗣)によれば、このカプセル怪獣はコロナウイルスと戦ってくれるらしい。タクミは果たして、うまくカプセル怪獣を育てられるのか。そして、カプセル怪獣は本当にコロナウイルスと戦ってくれるのか――。

 本作のほかにも、行定勲の『A day in the home Series』(2020年)をはじめ、自粛期間中は国内外で似たような会議ソフトを使ったリモート制作の映画や演劇が多数作られたことはまだ記憶に新しいだろう。それらと同様、岩井の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』もまた、時折挿入される人気の途絶えた緊急事態宣言下の都内の風景ショットを例外とすれば、映画の全編が、主人公が登場人物たちとウェブ会議サービス「Zoom」を使って会話するパソコンのディスプレイ画面で占められている。 

 こうした最近の「リモート映画」や「Zoom映画」と呼ばれるような作品は、当然ながらこれまでの映画の画面にはない特異さを備えている。とはいえ、このあとに本格的に分析していくが、こうした物語の(ほぼ)全編がパソコンのデスクトップ上で展開されるという趣向の作品は、すでに2010年代から国内外で作られてきていた。たとえば、ぼくもこのリアルサウンド映画部の過去のコラムで、グスタフ・モーラー監督『THE GUILTY/ギルティ』(2018年)を題材に、その種の映画を考察している(参照:『THE GUILTY/ギルティ』から考える「デスクトップ・ノワール」 変容する視覚と聴覚の関係とは)。その意味で、Zoom映画の画面はまったく新しいイメージというわけではない。

過剰コミュニケーション時代とズーノーシス

 このコロナに伴う文化や映画の問題を一般化して捉えるために、視野を広げてみよう。

 もちろん、ぼく自身は映画批評や映像文化論を専門とする人間であり、今回のコロナ危機をめぐる諸問題については、完全に門外漢でしかない。しかし実際、映画表現のスタイル以外にも、新型コロナウイルスをめぐる知見をいくつか眺めていると、そこにはまさにZoom映画のように(!)ここ数年の文化状況でさかんに注目されてきた論点が、引き続き形を変えながら顔を覗かせている様子が窺われる。そして結論からさきにいえば、それらの論点の中身は、じつは現代映画の状況でもはっきり表れているものだ。

 たとえば、よく知られるように、今回の新型コロナウイルスは、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)やMARS(中東呼吸器症候群)と同様、動物(コウモリやヒトコブラクダ)のウイルスが感染元になっている(SARSの場合は、コウモリのウイルスが食用のハクビシンを媒介にしてヒトに感染したが、Covid-19に関してはまだよくわかっていない)。もちろん、このようなヒトと動物に共通する感染症、すなわち「人獣共通感染症zoonosis」(ズーノーシス)そのものは、牛痘、結核、インフルエンザ、HIV、エボラ出血熱などなど、人類と感染症の関わりの歴史のなかで枚挙に暇ないほどさまざまな事例が繰り返されてきた。

 しかし、カナダ生まれの歴史家ウィリアム・H・マクニールが『疫病と世界史』(中公文庫)で警鐘を鳴らしたように、ズーノーシスは家畜の創出から都市化までヒトと動物の接触機会が増大したことによる「文明特有の病気」という側面が強まっている。とくに、SARSからCovid-19にいたる21世紀以降の未知のズーノーシスのパンデミックは、グローバル資本主義の拡大によるヒトやモノの過剰流動化と、(感染症と並ぶ21世紀世界のもう片方の脅威になりつつある気候変動の要因でもある)森林伐採などによる大規模な環境変動によって、ヒトとヒトでないさまざまなモノ(動物、自然、無機物……)たちがかつてない近さで緊密に接近し合う局面の増大していることにその原因が求められるだろう。たとえば、SNSやFAANG+M、AIやビッグデータの浸透によって人間と非人間とを問わず日々交わされる膨大なコミュニケーションが不可避的に資本の蓄積に奉仕してしまう現代的な状況を、いまから20年ほど前に北米の政治学者ジョディ・ディーンは「コミュニケーション資本主義」と名づけたが、新型コロナウイルスの登場は、その変異的な帰結のひとつでもある。

ヒトとモノが混淆する「ウイルス新世」

 そして、いまズーノーシスという形で見られるような新型コロナウイルスの脅威であるヒトとヒトでない存在との緊密で競合的な相互交渉という状況は、ここ数年、ぼく自身もいたるところで論じてきた通り、パンデミック以前から台頭してきた、きわめて21世紀的な世界システムの特徴を反映している。コロナ危機の場合はむろん、それは具体的には人間と動物、人間とウイルスだが、このような主体と客体、ヒトと自然、ヒトと技術、そして映画論の文脈に引き寄せれば、主体(観客)とスクリーン(映像)という本来は相容れず対立し合う存在がフラットに交差し、ときには融合し、お互いの「かたち」を変えさえするような事態は、今日の社会でいたるところで見られるようになっている。

 ディープラーニングが実現したIoTやIoBが体現するヒトとAI(オブジェクト)との対等な交流であったり、アニメやゲームのキャラ(オブジェクト)に恋してしまう現代人は、それぞれそのわかりやすい一例となるだろう。こうしたヒトとモノ、文化と自然が互いに影響を与え合いながら、同じ「アクター」として対等に干渉し合う様態を、フランスの科学人類学者ブルーノ・ラトゥールは「アクター・ネットワーク理論」(ANT)として体系化し、いま幅広い領域に知的インパクトを与えている。だとしたら、すでに医療社会学者の美馬達哉も指摘する通り、ぼくたちと新型コロナウイルスの関係もまた、ともにこのアクター・ネットワークの一員をなしている。「ウイルスはたんなる受け身の客体・対象ではなく、存在としてのコロナウイルスのもつ性質が、人間の側の対応のあり方に大きく影響する」という局面があり、「この意味で、ウイルスは「主体」として人間に対しているとも表現できる」(『感染症社会――アフターコロナの生政治』人文書院、69-70頁)からだ。

 ほかにも昨今、グローバル資本主義から気候変動まで、人間と環境とのかつてない混淆状態を表現するために、「人新世」やら「資本新世」やら「プランテーション新世」といった用語が脚光を浴びている。文化社会学者の清水知子は、北米のジェンダー思想家ダナ・ハラウェイが提唱している「クトゥルー新世」という言葉をコミュニケーション資本主義との関連で論じているが(「生(バイオ)資本主義時代の生と芸術」、伊藤守編『コミュニケーション資本主義と<コモン>の探求』東京大学出版会所収)、やたらと新語を乱発することの弊害を承知でいえば、おそらくぼくたちがいま生きているのは、さらに「ウイルス新世」とでも呼びうるような状況なのだ。そのウイルス新世のなかでは、映画におけるぼくたち人間とスクリーンとの関係性もまた大きく変わるだろう。

 以上のように、コロナ危機による2020年の「新しい日常」は、それ以前から浮かび上がっていたぼくたちの時代の新しい条件を顕在化させたものである。ここでは、その具体的な姿をさまざまな映画作品の分析から考えていきたい。ぼくがその考察のための拠り所としたいのは、映画論や映画史をはじめ、現代思想やメディア文化論などの知見だが、ここではそれをおもに「画面」の変化に注目して考えていきたいと思う。

 さきに結論を少しいってしまえば、20世紀から21世紀の現代にいたる映画の画面には、「明るい画面」と「暗い画面」とでも呼べるようなふたつの傾向(系譜)がある。2020年代の「新しい日常」の映画では、そのふたつの画面の違いが顕著に表れてくるだろう。そして、それはいままでの映画史の見直しを迫ることになるかもしれない。そこまで説得的にたどりつければ、この連載はさしあたり成功だと思う。

デスクトップ映画と(しての)Zoom映画

 さて、それではふたたび『8日で死んだ怪獣の12日の物語』の「画面」に話題を戻そう。

 すでに述べたように、Zoom映画の画面自体は、すでに目新しいものではない。ナチョ・ビガロンド監督『ブラック・ハッカー』(2014年)、レヴァン・カブリアーゼ監督の『アンフレンデッド』(2016年)、アニーシュ・チャガンティ監督の『search/サーチ』(2018年)など、2010年代に入った頃から、この種の映画がつぎつぎに作られるようになった(日本映画では、フェイクドキュメンタリーで知られる白石晃士作品が有名だろう)。このような、「全編がパソコンおよびモバイル端末のGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェース)で進行するフィルムであり、ネットの主観性と匿名性が世界への不信感と厭世的なムードを醸し出す」(『人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』トポフィル、226頁)作品を指して、映画作家の佐々木友輔は、「デスクトップ・ノワール」と名づけている。

 『8日で死んだ怪獣の12日の物語』はノワールというタイプの作品ではないが、昨今のZoom(リモート)映画も、このデスクトップ映画の一種だと呼べるだろう。たとえば、この岩井の新作は劇場とオンライン配信の2つのパターンで公開されているが、デスクトップ映画でよくいわれるように、どちらかといえば、本作もオンラインのパソコン上で鑑賞したほうがより楽しめる。というのも、映画のほぼ全編を占めるZoomの会話場面を記録した画面は、映画の観客(=パソコンユーザ)が鑑賞するデスクトップ画面そのものだからだ。実際、監督の岩井もまた、この作品がスクリーンよりも、総じてデスクトップ的な環境で鑑賞されることを企図して演出しているような気配がある。たとえば、劇場版に先行してYouTubeで配信された12話のショート動画では登場する斎藤工の台詞にYouTuberのように字幕が付けられている。あるいは、劇場版で登場するまさにYouTuberのもえかすのYouTube動画(を模した映像)には、やはりYouTuber動画を髣髴とさせるようなキャプションや字幕が多数インサートされるのだ。

見えない画面の存在とすべてが見えている画面

 さて、こういうデスクトップ・ノワール特有の画面(映像)は、当然のことながら通常の映画の画面とは明らかに違う。

 何度もいうように、『8日で死んだ怪獣の12日の物語』では、主人公のタクミとのんやオカモト、樋口監督といった人物たちがZoomで会話する映像が映画のほぼ全編を構成する。したがってその画面は、彼らのバストショットないし顔のクロースアップが、デスクトップの画面を左右に等しく分割する形で終始映し出され、人物はほぼ正確に正面を向いたまま、視線を交わすことなく会話し続ける姿を観客(パソコンユーザ)はえんえんと観ることになるのだ。

映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語』90秒予告

 通常の映画の映画=スクリーンのあり方と比較したとき、こうしたZoom映画の画面の特異さをどのように理解したらよいのだろうか。ちなみに、こうしたデスクトップの画面について考えるときに、まっさきに参照すべきなのが、思想家の東浩紀がこの数年来、「インターフェイス的画面(主体)」や「触視的平面」といったキーワードで展開している一連の議論である(関心のある読者は、たとえば『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン、第6章や「観光客の哲学の余白に」第12回、『ゲンロンβ27』掲載などを参照されたい)。ここで東は、映画のスクリーンとは異なるパソコンのインターフェイスやスマートフォンのタッチパネルの持つ特性の新しさについて論じており、『search/サーチ』も取り上げているが、詳しくは触れられないものの、それらは筆者のZoom映画の読解にも大きな示唆を与えている。ここではそれを踏まえつつ、より映画論の文脈に引きつけて考えてみたい。

 ともあれ、『8日で死んだ怪獣の12日の物語』の21世紀的なZoom画面は、従来の映画が描き続けてきた観慣れた画面とどこが決定的に異なっているのか? ――それは「切り返し」(構図逆構図)がないことである。

 「切り返し」(構図逆構図Shot reverse shot/Champ-contrechamp)とはまさにふたりの人物の向き合った会話シーンなどに典型的に用いられる映画の撮影技法だ。一方の側の人物やモノのショットを写し、続けてアクション軸(イマジナリーライン)に沿って、画面外のそれと向き合う人物やモノのショットをつなげてそれらを交互に見せるという、映画やドラマでごく一般的に見られる映像文法である。しかし、パソコンのデスクトップ(ウェブカム)を介して会話しているZoom画面の会話映像には、当然ながら人物たちのあいだには切り返しは発生しない。斎藤工ものんも、互いに視線を交わらせないまま、鑑賞者に向かって正面を向いた姿の映像がつねに画面に表示され続けることになる。

 こうした違いをそれぞれの「画面」の備える性質に沿って要約するとすれば、ぼくたちが知る通常の映画の画面には、絶対に見えない(映らない)ものがある。切り返しショットでいえば、それは何よりもショットが切り返されるたびごとに、画面内に見える(映し出される)人物やモノをそのつどまなざす「不在の観客のまなざし」がその最たる例であり、実際に20世紀後半の重要な映画理論家たちは、むしろその「見えない(映らない)もの」=欠如の存在こそが、ぼくたちが「映画を観る」ということのシステムを支えているのだと考えた。

「切り返し」=「見えないもの」が支えてきた映画の画面

 たとえば、そのシステムについて検討した「装置理論」の代表的な論者のひとりであるフランスの映画理論家ジャン=ピエール・ウダールは、それをまさに「切り返しショット」(構図逆構図)を例にして説明している。

 したがって、映画的境域(シャン・フィルミック)のすべてに不在の境域(シャン・アプサン)が対応するのであり、この不在の境域は、観客の想像世界ゆえにそこに措定されたある人物――われわれは彼を<不在者>と呼ぶことにする――の場所なのである。[…]
 すなわち、画面=逆画面(シャン・コントルシャン)[註:切り返しショットのこと]によって連接された映画的言表の枠内においては、ある誰か(<不在者>)というかたちでの欠如の出現に続き、そのある誰かの境域のなかにいる誰か(または何か)によりそうした欠如が廃棄されるという点である。(ウダール「縫合」〔谷昌親訳〕、岩本憲児ほか編『「新」映画理論集成2 知覚/表象/読解』フィルムアート社、15-17頁、太字原文)

 つまり、ふたりの人物の切り返しショットを撮るとき、どちらかの人物を写すには、その画面内には見えない(映らない)ひとつの「ある誰か(<不在者>)」という欠如、つまり「不在の他者」としてのカメラアイが絶えず要請される。そして、その画面には見えない(映らない)カメラアイの視線は、同時に映画内世界の物語にスムースに没入するぼくたち観客自身の視線でもある。本来の映画=スクリーンの「画面」とは、以上のように、画面にとっての「見える(映る)もの」と「見えない(映らない)もの」との区別が大きな特徴として備わっていた。

「切り返し」が存在しないZoom画面の21世紀性

 そうすると、Zoomなどのウェブ会議アプリの「画面」が、確かにその映画の画面とはまったく対照的な性質をもつことは明らかである。さきに見たように、その「画面」には原理的に画面に見えない(映らない)「欠如」の領域が存在しない。

 その性質をもっとも端的に象徴するのが、これは映画の例ではないが、スマートフォン以降の新たなデジタル写真論を提起した写真家・ライターの大山顕が注目する、スマホやInstagram、TikTokの「自撮り」(selfie)である。

「写真におけるほんとうの革命は「自撮り」だと今は思う。/写真論の根底には何よりもまず「撮る者」と「撮られる者」の対置があった。[…]しかし自撮りにはそれがない。[…]撮る人と撮られる人が一体になったときに発生する腕を伸ばすという動作が、撮影における物理的な距離の必要性をぼくに気づかせた」(『新写真論――スマホと顔』ゲンロン、60、69頁)。

 現代の写真(それはインスタの「動画」でも変わらないが)の画面=客体は、本来は見えなかった(映らなかった)はずの撮影者=主体までを画面に映し出す。それはカメラ=客体が撮影者=主体の「手」によって握られ(触られ)ているからだ。

 そして、それは『8日で死んだ怪獣の12日の物語』のZoom画面も体現している。繰り返すように、その会話の「画面」には「切り返しショット」(構図逆構図)が存在しない。すべてのショットは一度にひとつの「画面」上にペタッと露呈され、すべて「見える(映る)もの」となっている。つまり、ここでは従来の映画理論が考えていた20世紀的な映画=スクリーンを支えるシステムは機能していない。また、大山に倣ってスマートフォンの機能でもうひとつ例をつけ加えれば、いまのスマホのインカメラは、自撮り撮影用に画像(レンズ)が回転扉のように180度反転する機能がついている。この仕様も、ぼくたちがよく見慣れた切り返しショットとは大きく異なるものだろう。ここには明らかに何らかの構造転換がある。たとえば、ぼくは以前、切り返しショットのようにカメラアイの人称性が編集によって区別されず、たとえば『アベンジャーズ』(2012年)のようにカメラアイ=人称がワンショットのなかでシームレスに切り替わる現代のカメラアイやカメラワークの特性を、文芸批評家の渡部直己が現代小説のなかに見出す「移人称」(『小説技術論』参照)と類比的に論じたことがあるが(拙稿「映像メディアと「ポスト震災的」世界」、限界研編『東日本大震災後文学論』南雲堂所収)、こうした事態も以上の構造転換と無関係ではないはずだ。

『Zoom東京物語』が示した「画面」の映画史

 じつは、こうした昨今のZoom画面の特異さと映画の画面との関係を、図らずも(?)批評的に捉え返してみせた動画がある。映像作家、脚本家で、リモート演劇も手掛けている森翔太が4月28日にTwitterで公開し、現在までに87万回以上再生されているショート動画『Zoom東京物語』である。

Zoom東京物語 Tokyo Story

 この動画は、そのタイトル通り、小津安二郎監督の古典的名作『東京物語』(1953年)のフッテージを利用した巧みなパロディ作品で、この映画の笠智衆、東山千栄子、原節子、香川京子などの登場人物の切り返しショットを抜き出し、それらをZoom風の画面に当て嵌めたものである。すなわち、笠や原の会話シーンが、デスクトップのZoom画面上に分割されて映し出され、その中では森自身もZoom画面に登場し、彼らと会話を試みようとしたり、チャットで話しかけてみたりしようとする。

 この1分あまりのささやかな動画に森が込めた企みとは、小津が、いわゆる「正面からのバストショット」や「交わらない視線」という通常の古典的映画の規範から逸脱した特異な切り返しショットを駆使したことで有名な映画作家であり、その演出が(アフターコロナの)今日の視点から振り返ったとき、Zoomの画面とじつによく似ているという点にあるだろう。映画史において小津の切り返しショットは、20世紀に体系化された一般的な切り返しをラディカルに揺るがす特異なものだった。森の『Zoom東京物語』は、それをアフターコロナの21世紀的な「インターフェイス/タッチパネル的画面」とシニカルに接合してみせることによって、その両者が担っている歴史的意味を異化しつつマーキングしたのだ。

デジタルデバイス、コロナウイルスの隠喩としての「怪獣」

 以上のように、Zoom映画としての岩井の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』の画面が示しているのは、通常の映画的な「画面」=スクリーンとは異なる、新しいタイプの「画面」である。

 そして、その「画面」は、スマートフォンの自撮りのように、あるいはまさにズーノーシスとしての新型コロナウイルスのように(!)、ヒト=主体と画面=客体が何の距離や媒介物もなくくっつき合い、ひとつの「見える(映る)もの」として一体となって相互交渉し合う場を組織している。かつての「切り返し」ショットの画面では、切り返されるふたつの映像(ショット)は、はっきりと対立関係にある。しかし、Zoomの会話映像の分割画面は対立がない。そしてその場の渦中で、本来はイメージを観る主体=観客の側も、反対にイメージを映し出す客体=画面の側も、互いが互いに影響を与え合い、その「かたち」を可塑的に変えながら、主体/客体、人間/モノ、あるいは一/多、部分/全体……といったあらゆる対立図式を不断に中性化していくのである。

 たとえば、『8日で死んだ怪獣の12日の物語』のなかで、それをもっとも鮮やかにかたどっているのが、ほかならぬ主人公たちが育て、その成長プロセスを記録する奇妙な「怪獣」たちの姿だろう。すでに触れたように、その「怪獣」たちは彼ら/彼女らの掌のなかで摘ままれ、握られ、転がされ――まさにタッチパネルの画面のように……あるいはデジタル映像やアニメーションのように!――そのたびごとにグニュグニュウニウニとその「かたち」を柔軟に変え続ける。そしてそれは、物語終盤では突然、主人公の顔に張り付き、それがきっかけとなって主人公=人間の意識の側にもある決定的な気づきをもたらすのだ。その意味で、この怪獣は、本作のZoom画面そのものの隠喩としても機能しているのである。

ハンドメイキングの映画としての大林宣彦の可能性

 さて、そんな岩井が大きな影響を受けたとたびたび公言するのが、現在、岩井の新作とともに劇場公開されている、新作であり遺作となった『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の大林宣彦である。大林と岩井の映画史的な関係については最近、別稿でも簡単に論じた(拙稿「「明るい画面」の映画史――『時をかける少女』からポスト日本映画へ」、『ユリイカ』9月臨時増刊号所収)。また、大林については、次回以降でもその仕事に触れていくことになるはずだ。

 ところで岩井は、犬童一心や手塚眞など、自身と同様、「大林チルドレン」を自認する映画作家たちと大林について語り合った座談会のなかで、興味深い発言をしている。映画評論家で映画監督の樋口尚文の「この人は既成の技術自体を無邪気な子どもみたいに自由自在にひっくり返したいんだなと驚いて、本当に大林さんは映画監督ではなく映画作家なんだなと思いましたね」という言葉を受けて、彼は「そうそう。そういうハンドメイドの遊びっぷりが、あの時期の若い子たちにすごい影響を与えたんじゃないですか」と述べているのだ。この岩井の言葉は、その後に犬童がいう「山田[註:洋次]さんの映画を観ても、映画を撮れる気にはなれなかったけど、大林さんの映画を観て映画を撮る気になったんですよ」という発言も含めて、今回論じてきたZoom映画的な画面がもたらしている21世紀映画のパラダイムを考えるときにじつに示唆的に響く(ここまでの引用はすべて「<大林チルドレン>監督対談 大林宣彦はいつもぼくらのヌーヴェル・ヴァーグだった」、樋口尚文責任編集『フィルムメーカーズ[20]大林宣彦』宮帯出版社所収)。

 というのも、「ハンドメイドの遊びっぷり」を駆使して作られているものこそ、スマホ映画やリモート映画をはじめとした今日のモバイル化した現代映画の本質だと呼べるからである。実際、コロナ禍の無数の制約のなかでスマートフォンやZoomといった手許のツールをブリコラージュ的に用いて、また「カプセル怪獣」を弄るようにして岩井の『8日で死んだ怪獣の12日の物語』は作られているだろう。

 そして、その岩井に大きな影響を与えた大林もまた、だからこそ1960年代からはじまる映画作家としての長いキャリアのなかで、まさに今日の「ポストヒューマン的」な想像力に先駆けるスタイルの映画作りを行なっていた。たとえば、彼の代表作となった『HOUSE ハウス』(1977年)や『時をかける少女』(1983年)をはじめとする諸作品では、人形などのモノがファンタジックに蠢き、人間と交渉する様子がたびたび描かれる。そのユニークな想像力は、『時かけ』の公開時、映画評論家でCMディレクターの石上三登志との対談で述べた大林のこのような言葉からも窺われる。

 僕は、人間もイスも全く対等な演技をするのが映画である、逆に言えば、俳優はイスでもいい、イスもヒーローになる、というのが基本にあって、その基本に沿って演出してきた部分があると思いますね。それが「転校生」や「時をかける少女」になると、このイスはイスであるが、感情や心を持っている。それと僕が対等に、つまり人間と人間の関係として、対等に対話してみようじゃないかと変化してきましてね。(大林・石上「ジュブナイルだからこそ語れる大人の心の痛み」、『キネマ旬報』1983年7月下旬号、キネマ旬報社、58頁) 

 近年、近代社会や近代哲学で長らく続いてきた「人間」(主体)を中心に世界や物事を考えるあり方をあらため、人間を介在することなく直接的にモノに触れ、また動物や鉱物やAIといった非人間的な存在を人間と対等に交渉可能な存在として扱おうとする「ポストヒューマニティーズの哲学」が脚光を集めている(思弁的実在論、オブジェクト指向の存在論、新しい唯物論など)。今回軽く触れたアクター・ネットワーク理論もそのひとつだ。

 それでいうと、この大林の言葉には、ヒトもモノも「対等に対話してみよう」という、彼のいわば「オブジェクト指向」的な感性がはっきりと表れている。その意味で、コロナ危機に揺れる日本映画界のなかで、岩井俊二と大林宣彦の新作が同時に公開されたことには、「新しい日常」での日本映画のゆくえを考えるにあたって、暗示的な意味を含み持っているのだ。映画が変われば、映画(史)の見方も変わる。

 ぼくたちはいまのこの状況だからこそ、映画文化の現在について、新しいまなざしで思考することが求められているのだ。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『海辺の映画館―キネマの玉手箱』
全国公開中
監督・脚本・編集:大林宣彦
製作協力:大林恭子
エグゼクティブ・プロデューサー:奥山和由
企画プロデューサー:鍋島壽夫
脚本:内藤忠司、小中和哉 
出演:厚木拓郎、細山田隆人、細田善彦、吉田玲(新人) 、成海璃子、山崎紘菜、常盤貴子ほか
配給:アスミック・エース
製作プロダクション:PSC
製作:『海辺の映画館-キネマの玉手箱』製作委員会
(c)2020「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」製作委員会/PSC
公式サイト:https://umibenoeigakan.jp/

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