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『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、追加シーンによって何が変わったのか

リアルサウンド

19/12/29(日) 12:00

 こうの史代の同名漫画を原作に、2016年に日本で予想外の大ヒットを記録し、異例のロングランを達成したアニメーション映画『この世界の片隅に』。多方面より多くの賛辞が送られている作品だが、そこに“さらにいくつもの”シーンを製作し、本編に追加したのが、新たに劇場公開された、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』である。

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 もともと、日本の劇場アニメーションとしては、129分という長めの上映時間だったオリジナル版だが、本作は加わったシーンによって、168分と、3時間に迫る大長編作品となった。

 ここでは、加えられたシーンによって何が変わったのか、その考察にくわえ、この機会にもう一度本作全体を総括し直してみたいと思う。

 『この世界の片隅に』は、日本が戦争に突き進み敗戦を迎えるまでの昭和の時代を背景に、広島から呉へと嫁いだ、絵を描くことが大好きな“すずさん”を主人公に、戦争のなかの日常と、戦争によってあり得たはずの日常が壊されていく様子が描かれていく作品。本作『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、遊廓の女性リンの描写を中心に、原作から割愛していた部分を新たに追加している。

 これによって、いままで『この世界の片隅に』単体では不可解に思えた部分が、すっきりと理解しやすくなった。すずさんと結婚する周作が、なぜ浮かない顔をしていたのか、すずさんの幼なじみの水兵の寝床に、なぜすずさんを行かせたのか。これらの理由が、周作とリンとの関係が明らかにされていくことで、すんなりと納得できるものとなった。そして作品全体に、ある種の恋愛映画としての意味がくわわったということになる。

 恋愛についての描写が増えたことで、「戦争映画としての意味合いが薄まったのでは」という意見もあるかもしれない。しかし、全体の構造を俯瞰して見ることで、じつはこの恋愛描写が、作中で語られる太平洋戦争への批判部分へと、つながりを見せることが分かってくる。

 鍵となるのは、もともと作品に含まれていた“ミステリー”の要素である。広島で家業を手伝いながら、持ち前のマイペースさでのほほんと暮らしていたすずさんのところに、突然転がり込む縁談の話。じつはこれには、周作とリンの関係と、それを案じた周作の家族たちのバックストーリーがあった。すずさんはそんな事情を何も知らず、流されるように呉へと嫁いでいく。

 だが、日常に散りばめられたヒントをつなぎ合わせていくことで、すずさんはついに、隠された残酷な事実へと到達してしまう。本作が追加シーンによって描くのが、この箇所である。「言わぬが花」という言葉があるように、すずさんにそれを隠していた周囲の気持ちも理解できる。すずさんにとって、そんな事情を知らない方が幸せだったかもしれない。しかし、欺瞞のなかで生活することが、本当の意味での幸せだろうか。それで現実を生きているといえるのだろうか。

 すずさんは戦争によって、広島に生きる身内や、身近な人の命を失い、自身も取り返しのつかない負傷を受け、それでも必死に生き続けていく。だが、ラジオで天皇の発する、敗戦を意味する玉音放送を聴き、はじめて国に対して怒りを表す。「覚悟の上じゃなかったんかね! 最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね!」

 日本は当時、他国に攻め入り、また爆撃などの攻撃を受けたことで、国内外の多くの民間人を死なせてしまった。すずさんもまた、多くの被害者の一人である。その被害があまりにも拡大してきたから、新型爆弾が国の中枢をいつでも破壊できる状況になってしまったから、いまさら戦いを放り出すというのか。ならば、自分の負傷や、命を落とした人々は無駄に死んだことになるのか。無責任じゃないか。それが、すずさんの怒る理由であろう。国家は覚悟もなく欺瞞によって国民を戦争に巻き込み、犠牲にしていたのだ。

 すずさんは、半ばだまされるかたちで結婚し、その裏には、知りたくない事実が隠されていた。その事実を知ることと、玉音放送によって国の隠されてきた実態に気づいてしまう構図は、同質のものである。女性における結婚制度と、国民における軍国主義。被支配者と支配者によって作られる“犠牲を生む”構造。それはまた、本作で示されている、遊廓で働かされ続け、命を落とす遊女の運命にも重なっていく。

 しかし、絶望の底に突き落とされたとしても、人は生きていかなければならない。「夫婦ってそんなものですか」と周作にぶつける、すずさんの不満の言葉は、本作の方がより重く響く。すずさんと周作は衝突することで、より深く理解し合い、本当の意味で夫婦らしくなっていく。もし、すずさんが自分の心を押し殺し、表面的な態度をとり続ければ、家庭は冷え切っていくだろうし、破綻を迎えることになっても不思議ではない。この二人の関係を深く掘り下げたことで、彼女たちと同様、“国に対してただ従い続けることが国民のかたちではない”という、一つの見方が強調されてくる。

 この物語は、“さらにいくつもの”場面が追加されることで、ただ戦争を批判するだけでなく、その本質に、犠牲者を生み出し続ける社会の暴力的な構造があったことを強調している。その意味で、本作は本質的にオリジナル版と同じものを描きながらも、また違う味わいの作品になったということがいえよう。

 それだけに、オリジナル版との共通部分にある問題が、さらに目立ってしまうということも起きてしまっている。それは、やはり玉音放送の箇所。原作のすずさんのセリフが改変され、戦争が国家犯罪であることを示唆する部分が、原作よりもソフトな表現となってしまった点についてである。

 片渕須直監督は、すずさんのパーソナリティに近い、より自然なセリフとして、食材について言及する変更をくわえたと説明しているが、そうだとすれば、すずさんの可能性を甘く見ているのではないだろうか。女性が政治的に先鋭化することが不自然で、常に“生活者”であると感じているのならば、そこには幾分の偏見が含まれているように感じてしまう。また、もしそれがただの言い訳で、仮に政治的な意味で原作者の打ち出した、魂を絞り出すような言葉の強さを意図的にスポイルしたのだとすれば、さらに問題である。

 本作に反戦的なテーマが含まれていることは疑いようもないが、このソフトな表現への改変によって、誤読を生む可能性を増やしてしまったのは事実だ。そしてそれが、『この世界の片隅に』を、日本人の多くに受け入れやすいものにしているようにも思われる。だが、この原作を映画化するならば、クライマックスのセリフの強さだけは守らなければならなかったのではないだろうか。素晴らしい映画化作品であることを認めつつも、この部分は心残りである。(小野寺系)

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