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『13歳からのアート思考』著者が語る、ゆたかなものの見方 「自分で見たり、考えたりすることこそがアート思考」

リアルサウンド

20/7/11(土) 10:00

 経済/経営の世界で「ビジネス、テクノロジー、クリエイティブを架橋するBTC人材が必要だ」「デザインシンキングやアートシンキングが必要だ」と言われるようになって久しい。ただ「美意識が大事だ」「右脳的発想が重要だ」などと言われても、具体的なプロトコル(手順)として落とし込まれていない限り「思考法」として使いこなすことは難しい。そしてともすればアートの話は「教養」(=知識)のことだと解されがちでもある。

参考:「アート」はビジネスパーソンに必要なのか? ビジネス書界の「アート思考」ブームを考える

 そこに現れたのが、武蔵野美術大学卒業後に都内の中高で美術教師を務め、アーティストでもある末永幸歩氏が書いた『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社)だ。ピカソやデュシャンといった20世紀のアート作品を題材に、アートの思考法を整理したユニークな一冊で、子どもが自分の関心を深める方法を見つける練習にも、「大人の学び直し」にも役立つ。

 末永氏にいまの社会の子どもにも大人にも必要な教育/アート思考について訊いた。(飯田一史)

■美術に「正解」があるような教育への疑問

――末永さんは従来型の美術教育が知識や技術(制作)偏重であることに疑問を抱いて、ひとりひとりがそれぞれの「ものの見方」「自分だけの答え」を見つけて深めることを重視するようになったそうですが、その理由は?

末永:「美術教育」とひとことで言っても、ねらいはふたつあると思っています。

 ひとつは一般的に多くの人がイメージするような、知識を身に付けたり、絵の描き方や彫刻のつくりかた自体を覚えること。

 もうひとつは、美術そのものではなく、美術を通して思考すること、物事を違った視点から捉えることです。私は後者に面白みを感じていますが、武蔵野美術大学ではそれが当たり前でした。ムサビにはアーティストやその卵がたくさんいて、フラフラしているようにしか見えない人、普通の意味ではうまいとは言えない意味不明の作品を作っている人たちがたくさんいました。でも話してみると、それぞれすごく独特な視点があり、表現したいことが詰まっていた。だから美術には独自のものの見方、考えが反映されたものという思考が染みついていたんです。

 ところが教員になり教育現場に行って廊下に飾られている生徒の作品を見たりすると、みんな見映えがよく、まったく同じ技法で作られたり、描かれていたりする。「同じ方法が使われている」ということは「同じものの見方をしている」ということです。でも人間は本来ひとりひとり違うはずですから、これは自然なことではありません。ひとつのものの見方を教えられて優劣を付けられている、美術なのにあたかも「正解」があるような教育システムになっている。これは私が考えるアートのおもしろさ、よさとは違うな、という疑問があり、本に書いたような授業スタイルを試行しはじめました。

■大人・親・教師が無意識にしている言葉づかい、思考法とは別の仕方で

――本では小学生までは図工が好きな子が多いのに中学生に入ると美術が好きな子はぐんと減るという「13歳の分岐点」があるとの調査が紹介されていましたが、一因としてはその「正解志向」の窮屈さが「美術嫌い」の増加に影響している、ということですよね。本の執筆動機は?

末永:本に書いたものとほぼ同じ内容の、美術を通して「異なる角度から物事を見てみよう、広げてみよう」という授業を中高生相手にしてきました。授業を作りながら家庭で夫と「こんな授業しているんだ」「次どうしようか」と話しているうちに、「この授業は中高生だけじゃなくてビジネスパースンも楽しめるよ」と言ってくれるようになったんです。夫はアート関係者ではなく一般企業で経営企画の仕事をしていて、かつては美術館に行くことはあっても古典絵画ですら「きれい」とか「いい」という感想すらなく、現代アートは「わけわかんない」という人間でしたが、私の授業を通じて美術にどんどん興味を持つようになってくれました。夫のような左脳型のビジネスパースンでも楽しめるなら、本にして広く伝えていきたいなと考えたんです。

――本はどんな人に読まれていて、どんな感想が多いという印象ですか?

末永:タイトルでは「13歳からの」と言っていますが、基本的にはビジネスパースン向けに書いたので、そういう方が一番多いです。そういう方からの声はふたつに大別できます。

 この本では、「アートという植物」は、好奇心や疑問が詰まった「興味のタネ」が無数に伸びて「探究の根」となり、目に見える「表現の花」を咲かせる、という話をしています。ひとつは、この「アートという植物」を抽象化して、ご自身の仕事や生き方に置き換えて読んでくれるというもの。もうひとつは「現代アート入門としておもしろかった」というものです。それはそれで、美術を通してものの見方を広げる、常識を疑うということにつながってくれているのかなと思います。

 それ以外に教育関係者からもたくさん感想をいただいています。私のような疑問を抱えていて「何かもっとできることがあるはず」と思いつつも自分の授業は生徒のアウトプット重視になっていたり、鑑賞の授業をどうやればいいのか悩んでいたり……でも「この本を参考に自分もやってみます」と。

 ほかには小さいお子さんがいる親御さんたちが読んでくれて「自分の子どもが描いた絵に対する見方が変わった」「子どもの行動を今までひとつの価値観でしか観れなかったけど、接し方が変わった。変えていきたい」といった感想もあります。

――子どもが絵を描いているときに「何描いているの?」と大人は聞きがちだけど、「何か」を描いているとは限らなくて、クレヨンがすべったりするのが楽しいとか、塗っていたら茶色い塊ができたのが発見だった、とか、行為自体の喜びを共有したいのかもしれない、と本に書いてあって、たしかにそうだな、と我が身を顧みて反省しました。

末永:そこは「おもしろい視点だった」と言ってくれる方が多いですね。大人に「何を描いているの?」と聞かれ続けると子どもは「『何か』を描かなければならない」「『何か』を描くのが正しい」という風に思って育ってしまう。悪気はなくても子どもに無意識に答え探し、正解探しを促す声かけだと思うんですよね。「将来何になりたい?」という問いかけも同じですね。暗に今ある答え、今あるやり方に大人があてはめて子どもの答えをジャッジしていくものです。学校現場以上に家庭での教育は影響力があると思うので、声のかけ方は意識してもらえたらと思っています。大人の目線とは違う子ども自身の視点で見る、ひととは違う視点で見ることを肯定してあげてほしいなと。

■社会の流れや文科省の号令と教育現場との齟齬

――授業をすると、中高生はどんな反応ですか?

末永:多くの生徒がおもしろがってくれて、私も授業するのがどんどん楽しくなっていって今のかたちになりました。生徒たちは「前の先生とはまったく違う」「美術はきらいだったけど、こんなにおもしろいなんて」と言ってくれますね。はじめは「この先生はなかなか何かをつくらせないから、不安になった。いつつくりはじめるんだろう?」と思うようですが、でも最後には「未来につながることを今学期学んだ」と。

――学習指導要領で謳われている美術教育はこういうことを大事にせよということに対してどんな意見をお持ちですか? 一応文科省としては「生きる力」とか「主体的・対話的で深い学び」を重視せよと号令をかけていると思いますが、そうはなっていない?

末永:おっしゃるとおり、本来は文科省としては「生きる力」や「主体的な学び」を大切にし、アピールしています。でも不思議なことに学校現場では私の実感としては自分が中学校のときに受けた教育から本質的には変わっていません。社会がこんなにも変わっていて、文科省の号令も変わったのに、です。教育は一番変わるべきものだけれども変化は一番遅いのかな、と感じています。

 文科省が各学校に「こういうことを指針に教育してね」と示した「学習指導要領」には、すべての教科に通じる「総則」と、各教科ごとのものがあります。総則のほうには探究学習とも言える生きる力の大切さなど全体としての方向性が述べられ、各教科のほうには細かい指導内容が書かれている、という風に分かれています。美術であれば後者には絵と彫刻とデザインを教えなさい、といったことですね。そうすると、本来は総則があってこその細部なのに、現場では各教科の細かいところを重視して、総則のほうを大事にしない、という現象が起きている気がします。

――なるほど、いかにもありそうですね。学校の先生も細かい「正解」探しに必死というか。最近の中高生が、自分の中高時代と違うなと思うところは?

末永:レポートの課題を課したときに感じたのですが、自分のころは情報がないなか自分で考えたことを手書きで書くだけだったのに、今の子はパソコンを使って見た目にはすごく立派なレポートを書いてきます。でもよく見てみるとネットでたくさん情報が手に入るからか、8割方他人の意見なんですね。その人なりの考え方、意見は1、2割しか書かれていない。

 もちろん「私の授業では見映えのよさでは評価しない、自分自身が考えたこと、探究したこと、プロセスを見ていくからね」と伝えているので、徐々に変わっていくのですが。

■アート思考のお手本は「子ども」

――自分の力で考えないといけない度合いは昔より強まっているのに、放っておくと自分の力で考えない度合いが昔より強まってしまう、というのは由々しき事態ですね……。『13歳からのアート思考』には、「アートの見方は作家本人が決めると考えがち」「自分がどう感じたかよりも『作者はこう考えたんじゃないか』ばかりを大事にしがち」という問題、言いかえると「アートであろうと正解があるからそれを探す」という思考パターンの問題について書かれていました。なぜそういう思考法になってしまうのだと思いますか?

末永:今の教育のベースは18世紀半ばから始まった産業革命のときに生み出された、工場で効率よく働ける人材を生み出すためのシステムになっています。疑問を持ったり質問したりするのは非効率で、上意下達で「正解」に従ってやっていけばいい、正解をいち早く理解して実行する人が優秀だ、というものです。でも今は状況が急変するのが常態化したVUCAの時代と言われていて、昨日の常識は今日の非常識、自分で考えて答えを探さないといけないし、つねに変化に適応していかないといけない。でも教育のベースが変わっていないので、他人が与えてくれるのではない自分なりの見方、考え方が持てない人が子どもにも大人にも多いのだと思います。

――一方で、この本ではアート思考をするためのプロトコル(手順)が明確です。「興味のタネ」が「探究の根」「表現の花」に育てていくには、作品を観て気がついたことや感じたことをアウトプットする「アウトプット鑑賞」や、作品だけを観て自分でなにかを感じとったり、考えたりする「作品とのやりとり」、意図的にこれまでとは少し違った角度から作品を眺める「常識を破る鑑賞」、作品背景を知った上でそれらを自分なりに考えてみる「背景とのやりとり」をしよう、と。

 あるいは章(授業)ごとに「授業前にあなたがとらわれていたアートの常識は?」「授業を踏まえて今はどのように考えますか?」「授業を通り越して考えられることは?」と手順を踏んでいきます。

 つまりこれは、ただ「自分で考えてね」と言っても何も手がかりを与えないと正解をほしがる人たちたちは動けないから、プロトコルは示す。それに沿って考えていけばある程度自分なりの見方ができますよ、ということかなと思いました。ただ本当は思考のフレームワーク自体をそれぞれが作れたらいいですよね?

末永:そのとおりだと思います。手っ取り早く正解を探すのではなく、自分で見たり、考えたりすることこそがアート思考ですから、私自身はアート思考に決められた手順があるとは思っていません。書いたことはひとつの例でしかなく、必ずこうしてくださいというものではありません。

 私はよく「子どもがお手本」だと言っています。先日、4歳の息子さんと8歳の娘さんがいるお父さんからいただいたメールのなかに、本の冒頭に掲載したモネの睡蓮の絵を家族でいっしょに見た、というエピソードが書かれていました。お父さんは先に解説文を先に読み、元気で虫取りが好きな息子さんは「絵の中には蛙とザリガニがいる!」と言い、少しませている娘さんは「モネの絵でしょ、知ってる」と言ったそうなんですね。これは推測なんですけれども、8歳の娘さんはそう言った時点で、それ以上、絵自体を見なかったんじゃないかと。「モネの絵」という知識をあてはめただけで思考がストップしてしまった。一方で4歳の子は自分で見て自分で考えて答えた。この4歳の子みたいな視点がアート思考だなと思うんです。

■ゆたかな「ものの見方」は、失われやすいものだからこそ大切に

――読字に障害があるディスレクシアの方のなかには映像記憶が優れている方が多い、逆に言うと言葉、文字で世界を認識するようになると人は「犬」とか「葉」としてものを見ることはできても個別具体的な特徴を捉える力が失われやすい、と何かの本で読みましたが、通じる話な気がします。

末永:先ほどの話には続きがあって、お父さんは子どもにアート思考を伸ばしてほしい、でも奥さんはお受験をさせてちゃんとした将来を作ってあげたい、と考えているそうなんですね。ですから8歳の娘さんはお受験の勉強でモネのことを覚えたのかなと。4歳の子も塾に行きはじめていて、塾では皆と同じように脱いだものを畳んできちんと着替えるなどといった作業がなかなかできず、よく自信をなくして帰ってきて、お母さんは「うちの子はまたできない」と悩んでいる、と。私からすると、4歳の子がしているようなものの見方が8歳の子ではもう消えていることを考えると、ゆたかなものの見方は教育によってすぐ失われてしまうすごくもろいもので、だからこそ大切にしてほしいと思っています。

――お受験的な作法を身に付けるにしても、それを解除したアート思考への切り替えもできるようになるといいですよね。末永さんが今後していきたい活動があれば教えてください。

末永:この本は「体験型」にしたい、一方的なレクチャーにしたくないと思い、そういう工夫を盛り込みました。とはいえ本である以上、一部には読み飛ばしてしまう人もいるのかなと思います。でも実際に時間をかけて自分でやってみたり、考えたり見たりするのと、読み飛ばすのとでは、思考の深さや、自分の中に残る度合いが全然違います。

 ですから大人向けの講座も含めて、実践的、体験的なものをやっていきたいですし、それから、また新たな授業を作っていけたらと思っています。そして新しい授業ができたら、また本にして多くの人に伝えられれば。(飯田一史)

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