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2010年代のアイドルシーン Vol.3 アキバ系カルチャーとのクロスオーバー(前編)

ナタリー

20/8/12(水) 20:00

秋葉原ディアステージ

2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。今回は東京・秋葉原から発生した“アキバ系カルチャー”との関係性を題材として取り上げる。もともと3次元のアイドル文化と2次元のオタク文化の間に接点は少なかったが、電波ソングをアイドル界に持ち込んだでんぱ組.incのブレイクをきっかけにその壁は徐々に崩れていった。前編となるこの記事ではでんぱ組.incのプロデューサーであり、グループ誕生の地・秋葉原ディアステージを立ち上げた“もふくちゃん”こと福嶋麻衣子をはじめ、でんぱ組.incメンバーの古川未鈴と成瀬瑛美、彼女たちの楽曲を多く手がけるヒャダインこと前山田健一による証言をもとに、2000年代からのニコニコ動画や秋葉原の盛り上がりを振り返りながら、異なる2つの文化がいかにクロスオーバーしていったのかを紐解いていく。

取材・文 / 小野田衛 インタビューカット撮影 / 曽我美芽

アキバ系音楽を語るうえでエロゲは絶対に外せない

オタク文化ということで同列に語られることが多いアニメとアイドルだが、その実態は似て非なるものだ。たとえるなら軟式テニスと硬式テニス……いや、テニスと卓球くらいの別競技かもしれない。当然、アニメとアイドルではファンの属性も異なる。そのことは2020年現在、半ば常識と化しているが、かつては両者の棲み分けが混沌としていたこともあった。アキバ系カルチャーが花開き始めた頃の話である。

でんぱ組.incは、そんな時代の隙間を縫うようにして秋葉原の路上からメジャーシーンへ躍進していった。彼女たちを語るとき、そこにはいつも「秋葉原ホコ天」「ネットゲーム」「ニコニコ動画」「声優」「ひきこもり」といった要素が紐付けられてきた。それはメンバーが純然たるアイドル文脈とは無関係なシーンから飛び出してきた証左であり、だからこそ新しい価値観を創造できたのだとも言える。

でんぱ組.incの成り立ちと軌跡を振り返ることは、この10年間のアイドルシーンを再定義するうえで必要不可欠。そう考えた音楽ナタリー編集部と私は、プロデューサーのもふくちゃん(福嶋麻衣子)を直撃することにした。もふくちゃんは自身も熱心なアイドルファンであると同時に、国立音楽大学附属高等学校から東京藝術大学音楽学部へと進んだ文科系インテリ。その守備範囲は前衛芸術からディズニーまで多岐にわたる。そんな彼女の目には、アキバ系カルチャーの何が新鮮に映ったのか? そして、どのような衝撃を受け、でんぱ組.incを結成するに至ったのか?

「アニソン自体は触れていましたが、おそらく同人音楽との最初の出会いはニコニコ動画だったと思います。自分自身が音楽ではある意味インテリ的な教育を受けてきていたので、素人的な人が音楽を投稿するという行為自体、当時の自分にはすごく斬新だったんですよね。言い方は悪いけど、一聴してみて音色からしてチープだったし、一昔前の曲みたいな感触もあった。その当時のJ-POPの流れとか世界的な音楽的潮流から独立しているわけですよ。完全なるガラパゴス状態。音楽誌では『ポストロックはどうなるか?』みたいな議論がなされているのに、こっちは『巫女みこナース』で盛り上がっているわけですから」(もふくちゃん)

「巫女みこナース」とは2003年にリリースされた18禁恋愛ゲーム……いわゆるエロゲである。そのオープニング曲「巫女みこナース・愛のテーマ」は電波ソングの走りと目されており、後世のクリエイターに多大な影響を与えることとなった。もふくちゃんも「エロゲはアキバ系音楽を語るうえで絶対に外せない要素」と断言する。

「その1つの例が『鳥の詩』でしょう。これは『AIR』というエロゲの主題歌ですが、やっぱりKey作品は今聴いてもどの曲も素晴らしい。秋葉原のオタクからは“国歌”と呼ばれるほどのアンセムソングだった。こんな曲が実際のオリコンとは違うインディーズシーンでじわじわと人気を獲得していることにビックリしましたから。

あとは桃井はるこさんの存在ですよね。ガチのオタクでありつつも、それを公言して路上ライブをやったり、自分で作詞作曲してエロゲの曲を歌ったりするという、すべての部分で存在がパンキッシュじゃないですか。めちゃくちゃ輝いていて、すごくカッコいいなと思っていました」(もふくちゃん)

通常のJ-POPと出自が異なる以上、アキバ系音楽がガラパゴス的な進化形態をたどっていくのは当然の流れだったのかもしれない。Vocaloid音源ソフト・初音ミクが登場したのは2007年。これが一世を風靡したことでアキバ系音楽は広く世間から注目されるようになったが、実際はその前夜からカルト的ではあるが確固たるシーンが形成されていたのである。

「『東方Project』しかり、MAD(ムービー)文化しかり……それにコミケ(世界最大規模の同人誌即売会「コミックマーケット」)ももちろん大きかった。“創作”という名目で自作CD-Rが売られていたんですけど、『自分で作った曲を、こんな簡単に盤に焼いて売ることができるんだ!』という衝撃がありましたから。私が初めてコミケに行ったのは学生の頃で2002年くらいだったと思うけど、当時は『東方』がすごい人気だったと思います。二次創作という言葉を知って新鮮でした」(もふくちゃん)

ヒャダイン、成瀬瑛美、古川未鈴が語るオタク文化の影響

こうした一連の盛り上がりは、徐々にニコ動の世界へと集約されていく。画面内のコメントは常にヒートアップしており、ユーザーは新しい表現に飢えていた。既存メディアにはないパワーが、そこには確実に存在した。

「ニコ動では替え歌も非常に盛んで、次から次へと動画が投稿されていたんです。くだらないと言えばそれまでなんだけど、小学生男子のノリで無邪気にゲームをネタにした替え歌を披露していました。『なんだ、これ!?』と度肝を抜かれましたね。すごく新鮮だった。ヒャダインさんが投稿し始めたのもこの頃なんじゃないかな」(もふくちゃん)

音楽クリエイターとして幅広いジャンルで活躍するヒャダイン(前山田健一)。彼の才能にいち早く目をつけたのは、ほかならぬネット住民だった。ヒャダイン自身、ニコ動への投稿がキャリアにおいて大きなターニングポイントだったと振り返っている。

「あの頃は作家としてまったく売れていなかったですから。当然、曲に対するフィードバックもなくて、完全に自信を失っていました。だから『自分のサウンドが世間に通用するのか?』という腕試し的なことだったり、『こういう楽曲はどうだろう?』といったラボラトリーな意味合いが自分の中では大きかったんですよ。ニコ動だと仲介なしにダイレクトにコメントが返ってくるし、職人がコメントで遊んでくれたり、自分の動画を使って三次創作もしてくれた。そういった遊び場としての面がとても大きかった気がします」(ヒャダイン)

のちにでんぱ組.incとなるメンバーも、こうしたアキバ系カルチャーにどっぷり浸かっていた。例えば成瀬瑛美。もともとアニメに目がなかった彼女は、年齢を重ねるごとに2次元の世界にのめり込んでいく。当時のオタク文化を取り巻く環境がどうだったのか尋ねてみると、“本物”ならではのハードコア発言を連発した。

「当時は泣きゲーや萌えアニメが全盛で、私自身もKey作品、京アニ(京都アニメーション)、それに『東方』、『アイマス』(「アイドルマスター」)といったベタなものにハマっていました。あとはニュー速VIP、ニコニコ動画の黎明期にもズップシでした。面白そうなネットのオフ会があると、しょっちゅう顔を出していましたね」(成瀬)

成瀬はアニメやネット文化と並んで人生を捧げるべき対象を持っていた。それはゲームである。学生時代に「RED STONE」というネットゲームにハマると、ほとんど部屋から出なくなっていった。

「当時はギルドマスターを務めていたので、ほかのグループのマスターさんたちと連絡を取って戦争を組んだりして忙しかったんです。忙しすぎてアルバイトもかなり減ってしまい、いつも水道代や光熱費の請求に怯えていました。ガスも夏場は点かないことが多く、食事もほとんどもやしかスーパーに売っていたお刺身の“つま”。とは言え特に病んだりもしていなかったし、明るく過ごしていたとは思うんですけどね。何かにハマると、とことんまで突き進んでしまう性分なんです(笑)」(成瀬)

同じくメンバーの古川未鈴は「私自身はアキバ系のカルチャーに疎いのですが……」と断ったうえで、それでもゲームの影響は甚大だったと述懐する。

「RPGや音ゲー、MMOなどにハマっていました。なにしろハマりすぎて高校を中退しましたから。本当にインターネットが私の世界のすべて。それで学校を中退してからは秋葉原のゲーセンに通うようになり、そこで知り合った人に教えてもらって自分もメイド喫茶で働くようになったんです」(古川)

AKB? 何それ?

一方、秋葉原のアイドルシーンにはどのように動きがあったのか? AKB48が結成され、ドン・キホーテ秋葉原店8階にオープンした専用劇場で初公演を行ったのが2005年12月8日のこと。一般的にはAKB48こそがアキバ系アイドルの代表格と見る向きも多いだろう。しかし、もふくちゃんはこの意見に異を唱える。

「たしかにAKB48もアキバ系ってマスコミからは呼ばれていましたけど、正直、秋葉原の路上カルチャーやメイドさんのファンからするとまったくの別物でした。ファン層は全然被っていなかったし、最初から分断されていた印象があるんです。というのも、当時は2次元と3次元の間にものすごく距離があったんですね。今みたいに2.5次元という概念もそこまでなかったですし。2次元のファンはAKBを見て『なんだ、3次元かよ』といった調子でアレルギー反応を示していた。当時の2次元オタクって、ある意味でめちゃくちゃ潔癖だったんですよ。『3次元なんて絶対に無理!』という声は非常に強かった」(もふくちゃん)

こうした生身の人間への拒否反応に加えて、メジャーな質感の文化が流入してきたことへの違和感も見受けられた。AKB48を仕掛けた秋元康は、テレビ局とタッグを組み数々のヒットを生み出してきた超大物プロデューサー。いわば芸能界のド真ん中をひた走ってきた人間だ。しかも振付師はモーニング娘。や長野オリンピック閉会式での公式テーマソングの振り付けを担当した夏まゆみ。いくら結成当初のAKB48が鳴かず飛ばずで集客に苦しんでいたとはいえ、劇場で行われる演目自体は最初から王道だったという見方ができる。

「秋葉原のホコ天文化を振り返ったとき、必ず触れなくてはいけない存在がいます。それはFICEというユニット。FICEはファン層も面白くて、ファンのヲタ芸師はカリスマ視されていた。そのファンがヲタ芸を打つ動画がネットに上がっていて、それが『うおー、カッコいい!』と話題になっていたんです。一時期は本当にみんながそれを真似してホコ天でオタ芸を打っていましたからね。

そんな感じだったから、AKB48劇場ができたときも秋葉原オタク文化圏の人たちの間では話題にもならなかったんです。『AKB? 何それ? それより断然、桜川ひめこでしょ!』みたいな感覚。加えて忘れちゃいけないのは、@ほぉ~むカフェも完全メイド宣言というアイドルグループを手がけていたんですよ」(もふくちゃん)

@ほぉ~むカフェは世界で一番有名なメイド喫茶だろう。メイド数は約300人。現在も同店のメイドによって結成された、あっとせぶんてぃーん(@17)というグループが活動を行っているが、完全メイド宣言は直接これとは関係ない。

「完全メイド宣言は2005年から2年くらい活動すると唐突に解散して、そのまま伝説になっていきました。でも、本当に彼女たちは秋葉原を完全制圧したんですよ。特に『メイディングストーリー』は歴史に残る名曲だから、ぜひ探して聴いていただきたいですね。

ここでポイントになるのは、『完全メイド宣言の曲ってつんく♂さんが変名で書いているんじゃないか』という噂がまことしやかに囁かれていたこと。真偽のほどはいまだにわからないですけど。でも、そうなるとアイドルファンも注目せざるを得ないじゃないですか。今思うと、こうして完全に分断されていた2次元と3次元のファンがこの頃からにわかにクロスオーバーし始めたのかなと」(もふくちゃん)

地下アイドルたちを取り巻く“場”の環境も大きく変わっていった。秋葉原を飛び出し、都内各地のライブハウスに出演することが多くなったのだ。複数の地下アイドル事務所が集まり、イベントを積極的に打つようになる。そんな中、新たなスターも次々と生まれていった。

「その頃、一番人気だった地下アイドルはChu! Lips……通称・チュップス。それからFeamやSTARMARIEもすごく勢いがあって、“3強”と言われていた。あとはd-tranceも人気でした。

今となっては、このへんを知っているアイドルファンは少数派なのかなと思います。でも、でんぱ組はチュップスをライバル視してたんですよ。イベントのトリで出演するチュップスを観ては『カッコいいなあ』と憧れていました。当時、ハロプロ(ハロー!プロジェクト)ではBerryz工房や℃-uteの人気がすごくて、一方でAKB48も国民的な存在になっていた。なのに、でんぱ組のメンバーはベリキューでも48でもなくチュップスに闘志を燃やしていたんです。それが秋葉原のリアルだったんですよ」(もふくちゃん)

Chu! Lips、Feam、STARMARIEの3強やd-tranceのみならず、「巫女みこナース・愛のテーマ」「鳥の詩」、桃井はるこ、FICE、完全メイド宣言に至るまで、このあたりのアキバ系カルチャーは今まで正統な音楽史から黙殺されてきた。しかしアンダーグランドのサブカルチャーがメインストリームへと昇華される過程において、極めて重要な役割を担ったことは改めてここで触れておきたい。

こうして秋葉原のストリートシーンは大いなる盛り上がりを見せるようになったが、ピークは2005年から2008年頃にかけてだった──もふくちゃんは、そのように振り返っている。「萌え~」というフレーズが2005年末にユーキャン新語・流行語大賞を獲った。これは前述した完全メイド宣言によるもの。こうしていよいよ秋葉原のオタク文化は全国区になっていく。2006年にはアニメ版「涼宮ハルヒの憂鬱」が大ヒットを記録し、「らき☆すた」の人気爆発もこれに続いた。

ブームに沸く中、「『らき☆すた』のオープニング曲『もってけ!セーラーふく』をオリコン1位にしよう!」という運動も自然発生する。ファンがCDをまとめ買いすることで、作品の魅力をさらに拡散しようとしたのだ。結果的に『もってけ!セーラーふく』はオリコン2位止まりとなったが、参加者は「俺たちオタクの力はすごい!」「とうとう天下を獲ったぞ!」と勝利宣言。実際、時代の流れはオタクの方向へ確実に傾きつつあった。証言するのは成瀬だ。

「めちゃくちゃホコ天が盛り上がっていて、毎週末、お祭りみたいに大騒ぎしていましたからね。みんなが街中でコスプレしたり、踊ってみたりしていて、私からするとまるで桃源郷! とにかく勢いがすごかったから、謎の可能性みたいなものを感じていました」(成瀬)

ディアステージこそオタクが待ち望んでいた事業形態

狂騒が続く中、もふくちゃんは2007年12月に秋葉原ディアステージを立ち上げる。

「狙いとしてあったのは、秋葉原の路上で盛り上がっているお客さんをお店に連れていこうという考え方。なにしろ路上には無限に人がいたし、そこでチラシを配れば効果は絶大。かわいい子が『今からお店でライブやるから来てください』とか言うだけで、ハーメルンの笛吹き男状態でお客さんをゾロゾロ誘導できたんです」(もふくちゃん)

初期のディアステージは“アイドルの店”ではなく、“同人音楽やアニソンを歌ってくれる店”として客から認知されていた。90年代のアニメ主題歌やニコ動だけで流行っていたニッチな音楽を店員のかわいい女の子が歌ってくれる。ネットでしか聴けなかった曲をナマで体験することができる。そんな支持のされ方をしていたのだ。
「今週のニコ動No.1ソングを聴けるのはディアステだけ!」
「ディアステだったら、毎日『鳥の詩』が聴けるぞ!」
ディアステージこそ、まさに秋葉原のオタクたちが待ち望んでいた事業形態だった。

「アニソン自体は声優のコンサートに足を運べば聴くこともできるけど、そもそも声優のコンサートは本数が少ない。ディアステージでは歌う女の子自身もオタクで、好きな話題で毎日盛り上がることができる。今ほど女の子のオタクも多くなかったですし、そういうのもお客さんからするとよかったのかなと思う」(もふくちゃん)

一方、当時の成瀬は@ほぉ~むカフェに在籍していた。ネットゲームで知り合った人物から「お金がないんだったら、メイド喫茶で働いてみたら?」と提案されたからだ。ブームに沸く店にはテレビや雑誌の取材も殺到。「自分がまるで秋葉原という巨大遊園地のキャストになったような気分だった」と当時のことを振り返っている。

「私が働いていたのは@ほぉ~むカフェの中でも本店下店というところで、店舗も店長も新しく、みんながオープニングメンバー。だから、すごくのびのび自由な雰囲気だったんです。上の階にある本店に対しては若干の劣等感も持っていましたけど(笑)。そういった環境だったので個性的な子がそろっていて、そうするとやっぱり地下にできた変わったお店……つまりディアステージに惹かれていくわけです。『なんか変な店ができたね。めちゃくちゃ楽しいし、女の子もかわいいし、好きな曲も歌えるらしいよ』って。(小和田)あかり、(夢眠)ねむ、えいたそ(成瀬)……でんぱ組のメンバーだけでも3人が偵察に行き、そのままディアステージでバイトを始めました」(成瀬)

しかし、好事魔多しとはよく言ったもの。突然の悲劇がディアステージを襲う。
「立ち上げから半年が経った頃、例の事件が起こってしまったんです」
もふくちゃんは声を潜めて語った。

2008年6月8日、秋葉原の路上は鮮血で染まった。当時25歳だった加藤智大が2トントラックで無差別に歩行者を轢き殺したうえ、次々とダガーナイフで通行人を刺していく。地獄絵図と化した日曜日のホコ天には断末魔の叫びが響きわたり、7人が死亡、10人が重軽傷を負う大惨事となった。

「2007年から2008年に頃なるとメディアで紹介されたことで秋葉原の観光地化が進み、それまでオタク文化なんて興味もなかった層も『ちょっとオタクの奴らでも見に行こうぜ』なんて遊びにくるようになってきた。こうしてシーンがどんどん大きくなっていく中、秋葉原のエロ化が進んでしまったんですね。やたらパンツを見せるメイドが路上でビラを配ったりしていましたし。

実はこれって、かなり大きな変化なんです。というのも初期はユートピアというか、むしろ潔癖性気味のオタクが『3次元はキツいです……』なんて言っていたのに、どんどん生身のエロスが侵食していったわけですから。もう呑気にオタ芸を打って内輪で盛り上がる集団ではなくなってしまった。それから『オタクって儲かるぞ』と気付いたヤカラみたいな連中も集まるようになりましたし。要するに路上が変質してきてしまったんですよね。まさにそんなさ中に起こったのが秋葉原連続刺殺事件だったんです」(もふくちゃん)

この事件によって、オタクたちの作り上げてきた文化の火は急速に消えていく。のみならず本来は被害者側であるはずのオタクにも、世間からの厳しい声が容赦なく浴びせられた。ただでさえオタクは差別の目を向けられてきたのに、加藤によって「やっぱりオタクは社会悪」という見方が支配的となる。加藤自身が、まさに世間が思い描く通りのオタク的なビジュアルだったからだ。

「あれだけ連日のように報道されたら、そうなりますよ。実際、ディアステージの客足もあそこでかなりの影響を受けました。路上が封鎖されているんだから、路上に依存したディアステが経営的に苦しくなるのは当然の話。秋葉原のメイド喫茶も、ここでかなり苦しい状況に追い込まれたと伺っています」(もふくちゃん)

こうした逆境の中、でんぱ組は結成される(当初は「.inc」がついていなかった)。秋葉原では異色の存在だったディアステージだが、でんぱ組はそのディアステージ店内でも浮いた存在となっていく。2次元と3次元がごちゃ混ぜになった間の中で、アイドル界きっての鬼っ子が産声を上げたのだった。

制作協力:@ほぉ~むカフェ / 株式会社ビッグファイタープロジェクト

(文中敬称略)

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