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村上龍『MISSING』はなぜ私小説的な表現になった? メルマガ連載で著された“D2C文学”の可能性

リアルサウンド

20/4/15(水) 11:00

 村上龍の最新長編『MISSING 失われているもの』は2013年12月から村上が主宰する無料メールマガジンJMM上に連載されたものを単行本化した作品だ。

参考:村上龍文学の金字塔『コインロッカー・ベイビーズ』から40年……カルチャーに与えた影響を再考察

 配信中はバックナンバーが一定期間、村上龍のサイト上で読めたから、これは一種のウェブ小説だ――と考えて、拙著『ウェブ小説の衝撃』の元になった出版業界紙「新文化」の連載「衝撃 ネット小説のいま」に出てもらえないかと取材のオファーをしたが、残念ながら叶わなかった。

 ようやく単行本として2020年2月に刊行された本作を電子書籍版で読んで、私はやはりこの作品はウェブ小説のひとつとして――そのきわめて珍しいパターンとして――捉えるべきだという想いを強くした。

■2010年代になってメールマガジンから生まれた小説

 メールマガジンの連載から生まれた小説、と聞いて筆者が真っ先に思い浮かぶのは、惜しくも若くして亡くなった吉野匠によるファンタジーウェブ小説のクラシック『レイン』だ。

 そして2010年代になってなお、プロデビューしたあとの作家が無料メルマガで連載をして単行本になったという例は、『MISSING』と『レイン』以外、寡聞にして知らない。

 2010年代初頭には有料メルマガブームがあり、ドワンゴが運営するブロマガ上で『家畜人ヤプー』の続編が連載配信され、のちに伊藤ヒロ+満月照子『家畜人ヤプーAgain』として書籍化されたことがあったが、それにしても今どきメルマガ発の小説自体、稀有である。

 メルマガで連載されたことは明らかに作品内容に影響を与えているのだが、これについては後述しよう。

■マルチメディア表現の可能性

 『MISSING』は紙で刊行された単行本は縦書きで特にほとんど図版は入っていない。だが興味深いことに、村上龍が自身の会社である村上龍電子本製作所/G2010が制作した電子書籍版では、メルマガ掲載時にそうであったように、村上龍自身が撮影・加工・配置を考えたという写真が多数掲載され、横書きで組まれている。

 メルマガ版に深い愛着があり、ひとつの「作品」として彼が望むかたちが電子書籍版にある、ということがわかる。

 村上龍は、G2010を設立して最初にリリースした電子書籍『歌うクジラ』には盟友・坂本龍一の音楽を付けていたり、デビュー作『限りなく透明に近いブルー』のアプリ版では「群像」新人賞への手書きの応募原稿を再録したり、あるいは小説だけでなく自身で脚本を書き映画を撮った『KYOKO』のアプリ版には映画撮影時の映像を収録したりしている。

 つまり文字だけの表現では飽き足らず、90年代から2010年ころまで多くの人が「電子書籍」なるものに夢見てきたマルチメディア表現の可能性を今でも追い求めているという、今となっては非常に数少ない存在が村上龍なのだ。

 団塊の世代にわずかに遅れて生まれてきたがために政治の季節の高揚にはほとんど参加できず、政治ではなく表現の革命を追い求めた世代ということもあるだろうし、そもそもデビュー作ではLSDを摂取して得られた強烈な視覚体験をなんとか文字に落とし込もうとしていた作家でもあった。なにより、手ひどい失敗作になったものの『だいじょうぶマイ・フレンド』をはじめ映画監督業に進出し、映像表現に強い憧れを抱いていたクリエイターでもある。

 村上龍の手がける電子書籍はもともとの越境的な志向性を、今のテクノロジーを使って(映画ほどの予算はかけずに)表現しうる媒体として、おそらく彼のなかでは重要なものなのだと思う。

 たとえば『MISSING』の電子書籍版では「ああ、村上龍の頭の中に浮かんだイメージはこういう感じで、文章ではこう表現しているけど、画像で表現するとこんな感じなわけね」という写真と文の組み合わせに幾度も出会う。こちらとしては彼自身が手がけたらしい写真や写真を使った扉のデザインに関しての若干の素人くささが気になるが、本人は「村上龍電子本製作所」のFacebookページで、どこにどんな図版を入れるのか考えるのが楽しい、と書いていた。文章だけで表現できないプラスオンの表現ができることに、この作家は大きな喜びを感じているのだ。

■幻想小説風の内省的な私小説?

 さて、肝心の小説の内容はどんなものか。

 『MISSING』は、村上龍自身を思わせる男性小説家が、飼い猫に語りかけられたり(というか「意識を反射している」らしい)、真理子という女性が自分の記憶とは異なる振る舞いをし、心療内科医に「あの真理子は実在しているのか?」と相談すると「過剰な想像が現実を覆うことがある」と言われる、という不可思議な導入に始まる。

 中盤以降は主人公と母親との記憶、幼少期を日本が植民地支配していたころの朝鮮で過ごし、敗戦後に引き上げ佐世保で生活していた母親自身の記憶が入り交じるかたちで展開していく。

 幻想小説を書きたかったのか? とはじめのうちは思うのだが、だんだんと村上龍が自分の人生やルーツを回顧していく内省的な私小説といった様相を呈していく。作家デビュー作『限りなく透明に近いブルー』執筆前後の試行錯誤と、同作の書き出しが書けた瞬間に作家としての人生が始まっていくあたりの描写もある。それらはエッセイなどで村上龍が語っていたことと重なる部分もあるが、ずっと深い読後感を与えるものになっていた。

■D2C文学としての『MISSING』

 このような作家個人の記憶に踏み込むような内容になったのは、メールマガジンに連載したからこそだろう。やはり村上龍電子本製作所のFacebookページ上で、自分のメルマガに小説を書くのは、文芸誌に書くこととはまったく異なる緊張感がある、といったようなことを連載中に記していた。紙の雑誌や単行本を通して作品を届けることよりも、ずっとダイレクトに読者に届く、という感覚がメールマガジンにはある。

 冒頭では「メルマガというオワコンメディアで2010年代にもなって連載して生まれた稀有な小説だ」といったような書き方をしたが、実はむしろ一周して時代のトレンドに合致している、と私は考える。

 近年、少なくないD2Cブランドが”Newsletter”という呼び方で、顧客にメールマガジンを届け、その世界観を表現しているからだ。D2C、ダイレクトtoカスタマーとは、企業が顧客に対して直販するビジネスモデルのことだが、これは消して「卸・小売の中抜きをすることによって安価でそこそこのプロダクトを売る」というだけの商売の方法論ではない。

 佐々木康裕の著書『D2C 「世界観」と「テクノロジー」で勝つブランド戦略』によれば、D2C企業は、顧客のよりパーソナルな部分に働きかけ、自分たちがめざすライフスタイル/世界観を表現するために、紙の雑誌を作ったり、あるいはポッドキャストで語りかけたり、Newsletterで想いを伝えたりする。

 モノでもコトでもないヒト軸での消費へのシフトが進むなかで、D2Cブランドは、よりダイレクトで、より個人に響くメディアを駆使して、人格をもった存在として顧客の心に訴えかける。「情報」ではなく「情感」でつながろうとする。

 同じ人間が似たような内容を話すとしても、自分のポッドキャストでリスナーに語るときと、マスメディアの取材に答えるときとでは、少なからぬ部分で差異が生じる。受け手にとって、より身近で、より人間味を感じられるのは、明らかに前者だ。

 小説も同じだ。紙の雑誌で書くときと、ウェブ小説プラットフォームで書くとき、自分のメールマガジンで書くときとでは、スタンスも内容もおのずと変わってくる。

 メールマガジン版、および電子書籍版の『MISSING』は、よそ行きの顔をしていない。村上龍のことを追いかけている人間に向けて、彼独自の「世界観」を、一般流通する汎用品としての紙の本ではなしえない表現手段を使って著した、D2C文学なのだ。

 正確にいえば電子書籍版は電子書店を通じて流通させているからD2Cではないが、マインドやプロダクトとしてのありようは、昨今のD2Cブランドに通じるものがある。

 この作品が文学史に残る大傑作かと言われれば、おそらくそうではないだろう。しかし、メルマガ版/電書版では収録された写真やデザインの微妙なつたなさもあいまって、村上龍という人間のことが(言葉を選ばずいえば)かわいく思えてくる。本作には村上龍の「素」がぽろっと出てきたような無防備すぎる言い回しがたびたび登場し、思わず笑ってしまうことが何度かあった。そうした距離感の近さを抱かせる作風は、このキャリアの長い作家にとって新境地だろう。

 『MISSING』は、「この時代に、メールマガジンに向いた表現とは何か?」ということを作家の直感で射貫いたことによって、ほとんどの書き手が見向きもしない状態にあるメルマガ連載小説の、表現としての可能性を浮かび上がらせた重要な作品である。(飯田一史)

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