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『ハン・ソロ』なぜ賛否渦巻く結果に? 良い面と悪い面から考える、その魅力と問題点

リアルサウンド

18/7/8(日) 10:00

 相棒の“チューバッカ”とともに「銀河一」と豪語する高速の宇宙船「ミレニアム・ファルコン」を駆り、レーザー光線を発射する銃「ブラスター」を巧みに操って、ならず者や帝国軍と渡り合う“運び屋”。皮肉屋だが情に厚い、ハンサムなアウトロー。ハリソン・フォード演じる“ハン・ソロ”は、『スター・ウォーズ』旧三部作で最も愛されているキャラクターの一人だ。そんなハン・ソロを主人公にして、彼がルーク・スカイウォーカーに出会う前の、若かりし頃の物語を描くのが、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』である。

参考:『ハン・ソロ』、『ローグ・ワン』比28%減のスタート 『スター・ウォーズ』の未来を覆う暗雲の深刻度

 ディズニーによる、この『スター・ウォーズ』のスピンオフ企画第2作は、アメリカでは興行収入の面で芳しい成績を収められなかった。『スター・ウォーズ』の権利を取得して以降、爆発的なヒットの連続でビジネスを継続していきたいと考えていたディズニーの経営陣にとっては、苦々しい結果となっている。その一方で、一部では作品の内容に称賛の声があがり、また一部を失望させるなど、事態は混迷している。

 ここではそんな賛否が渦巻く、本作『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』を多角的に検証し、良い面と悪い面を率直に述べながら、魅力や問題を明らかにしていきたい。

■西部劇としての『スター・ウォーズ』

 制作が発表されたときから、ハン・ソロの物語が「宇宙西部劇」として描かれるだろうことは予測されていた。『スター・ウォーズ』は、もともとジョージ・ルーカス監督が愛する、往年の西部劇や、黒澤明監督の時代劇映画を、宇宙を舞台にしたSFの世界のなかで表現し直した作品だった。ルーク・スカイウォーカーが時代劇の要素を担い、同時にオペラ悲劇のような重々しい存在へと成長していったのに対し、ハン・ソロの象徴する無法者のキャラクターは、西部劇の要素を代表しつつ、作品の内容に軽快さをもたらしていた。

 『スター・ウォーズ』第一作が、多くの観客の心をつかんだことの一つに、このような西部劇としての魅力があった。逃げるミレニアム・ファルコンを、帝国軍の戦闘機タイファイターが追撃する構図は、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン主演の『駅馬車』における、悪として描かれたアメリカ先住民と馬車との、走行中の攻防に重ね合わせることができる。もともと馴染みのあるモチーフを、SFとして提出することで、新しい要素を登場させながらも、分かりやすい娯楽性を獲得していたのだ。

 だからハン・ソロを主人公とした本作は、軽快かつ娯楽に徹した西部劇として撮られることがふさわしい。『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』の脚本を書き、西部劇映画の監督も経験しているローレンス・カスダンと、息子のジョン・カスダンによる脚本は、たしかにそのようなものになっていた。

 身寄りがなく育った若きハン・ソロ(オールデン・エアエンライク)は、好意を寄せる少女キーラ(エミリア・クラーク)を救い出すため、売り出し中の犯罪組織の首領に雇われ、無法者の仲間たちと列車強盗や密輸によって大金を稼ごうとする。その旅のなかで出会うのは、奴隷として繋がれていたウーキー族のチューバッカや、ギャンブラーで運び屋のランド・カルリジアン(ドナルド・グローヴァー)らである。このような内容はそのまま、舞台を開拓時代のアメリカに移し替えることも可能だ。

 ちなみにそこでは、ジョージ・ルーカス監督が、ハン・ソロが悪漢を不意打ちによって殺すシーンのある第一作を改変し、後に撃ったように編集し直したことで、ファンのなかで物議を醸した、「ハンが先に撃った」問題への回答となるシーンも用意されている。

■あぶり出された“世代問題”

 紆余曲折あって、本作に職人的な技術を持つベテランのロン・ハワード監督を呼んだのは妥当な選択だと思える。本作を鑑賞して最も強く感じたのは、全体に流れる、無理がなく安定した雰囲気である。

 いままでのディズニーによる新しい『スター・ウォーズ』シリーズは、ジョージ・ルーカス監督の新三部作のような、新技術を駆使して新しい映像を作り上げるというよりは、旧三部作の風合いに近い、レトロな雰囲気を追うようなものになっていたと思える。とくにJ・J・エイブラムス監督は、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』において、往年のスピルバーグ作品へのオマージュ作である『SUPER8/スーパーエイト』同様に、あえて古めかしさを意識した映像を作り上げた。それは、あたかも現在の若い世代の漫画家が、昭和のレトロな絵柄を再現するような態度にも似ているように思える。

 J・J・エイブラムス、ライアン・ジョンソン、ギャレス・エドワーズといった、旧三部作を子ども時代に観客の立場で鑑賞していただろう監督たちは、映画製作という意味では『スター・ウォーズ』旧三部作の時代とは分断された世代にあり、むしろCGを全面的にとり入れたことで現在の映画表現のエポック的存在となった新三部作(エピソード1~3)の直接の恩恵を受けている。

 対するロン・ハワード監督は、ジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』(1973年)に出演し、ジョージ・ルーカスが原案をつくり製作総指揮を担当した『ウィロー』の監督を務めるなど、実際にジョージ・ルーカスのもとで、映画づくりに従事した人物だ。さらにロン・ハワードは、それ以前から子役としてエンターテインメント業界に足を踏み入れており、子どもたち同士で西部劇ごっこを撮影して楽しんでいたりなど、むしろ映画人生は、10歳上のジョージ・ルーカスよりもはるかに長いのだ。

 本作に目立つセット撮影の風合いは、旧三部作から、CG主体となる新三部作(エピソード1~3)まで、「シリーズが途切れずに90年代にも存続していたらこんな感じだったのではなかったか」と思わせる、ミッシング・リンクを埋めるような、シリーズ作品として説得力ある印象を与えられる。それは感慨深くもあり、同時に新三部作よりも後退した、手法的な凡庸さを感じる部分でもあるだろう。

■シリーズに取り戻した“骨太な”魅力

 エピソード7は、『スター・ウォーズ』旧三部作ファンのための作風であり、エピソード8は、それを打ち破ろうとする変革的な意志を感じるものだった。それらは対称的な意味を持ちながらも、ファン目線の感覚をベースとしているという意味では、いずれも同質の作品といってよい。ロン・ハワード監督は、おそらくそのようなファン心理を持ち合わせていないため、作中でファンを喜ばせるような描写をしたとしても、あくまでそれらは作家性とは関わりなく、観客へのサービスとして提供しているに過ぎない。その姿勢はファンから距離をとりつつ、その代わりもっと広い観客に対応していると感じられる。そしてそれは、本来『スター・ウォーズ』が持っていた骨太さではないだろうか。

 その一方で、本作はあまりにドライ過ぎると感じるところも多い。ここで熱をもって描かれるのは、あくまで「西部劇」の要素であり、ある女性とのほろ苦い関係を通し世間を学ぶことで、純粋な青年が“ハン・ソロ”となっていくまでの、内面的成長である。

 『スター・ウォーズ』旧三部作が、様々な価値観を持つ人々によって、これほど支持されているのは、作品のなかに骨太な主題と、度を超えたディテールへのこだわりが同時にあったためだ。一つの作品のなかに多様な価値観があり、どんな角度からも語り得ることができる。だから、それぞれの観客のなかにそれぞれの『スター・ウォーズ』が存在するのだ。そしてそれら幅広い価値観を理解し統率していたのが、ジョージ・ルーカス監督だった。それに比べると、ロン・ハワード監督含め、ディズニーが用意した今までの監督は、あくまで本来シリーズが持っていた魅力の多くを、同時にすくい出すまでの仕事はできていないように感じられる。

■スケールの不足した『スター・ウォーズ』

 ここまで述べてきたような問題に比べ、もっと次元の低い問題も、本作『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』には存在する。それは、全体のなかで映像のクオリティーの高い部分と、低いと思われる部分が混在してしまっていることだ。

 例えば、雪に覆われた惑星での、ロケとCGを組み合わせた映像は美しくスケール感があり、列車強盗でのアクションは楽しい。物資を高速で運ばなければならない、緊迫したシークエンスにも計算された娯楽性を感じる。その反面、奴隷が働く鉱山のある惑星でのアクション、とくにミレニアム・ファルコンが飛び立つまでの攻防は、敵と味方を交互に映すなど、カメラの動きが制限されていることで、不自由な撮影状況が伝わってくる。 犯罪組織の首領の部屋でのサスペンスも、またクライマックスの戦闘における、私設軍隊といいながら、あまりにも少なく感じる敵の数にしても、いわゆる「職人監督」による、余裕のない製作状況をごまかすようなテクニックがふんだんに使われることで成立しているように思われる。本作がアウトローの運び屋の物語だということを差し引いたうえで、それでも『スター・ウォーズ』にあるまじきスケール感の欠如を感じてしまうのだ。

 本作の制作費は、推定で3億ドルといわれている。これは超大作が3本は制作できる予算だ。しかし本作からは、とくに肝心のクライマックス部分において、そこまで大金をかけているという印象は受けない。それはやはり、例によって「監督交代」が行われたという事情が大きいだろう。

■監督交代、撮り直しの影響

 本作は当初、『LEGO(R)ムービー』などで評価されたフィル・ロード、クリス・ミラー監督が抜擢されていた。しかし発表されているように、スタジオと監督の間での「創作上の意見の相違」から、彼らは降板を余儀なくされ、新たな監督ロン・ハワードは、7、8割もの再撮影を行ったのだという。『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』でも、他の監督を呼んで大規模な再撮影が行われたが、今回はもはや映画を二本ぶん撮っているといっても過言ではないだろう。

 問題は、制作が遅延したことで、撮影・編集を短時間のなかで行わなければいけなかったということであろう。そう思えば、そのなかでこれだけの質を維持することのできたロン・ハワード監督の手腕には驚嘆すべきところがある。だが、それはあくまで一般的な娯楽映画における職人的テクニックであり、他の娯楽大作とは区別されるべき「特別」なものでなければならなかったはずの、ディズニーの『スター・ウォーズ』シリーズで行われるようなものではなかったのではないだろうか。監督がここまで追い詰められてしまったことそのものが、本作の最も大きな問題であるだろう。その「スペシャル感」の不足が、興行成績不振に全く関係がなかったとは思えない。

 前述しているように、このような事態は初めてではない。ディズニーによる『スター・ウォーズ』シリーズには、あまりにも監督交代、撮り直しなどのトラブルが多すぎる。それがクオリティーを増す方向に進めば良いのだが、今回のように、複数のシーンを突貫的に撮らねばならないような事態に陥ったというのは、明らかにマイナスであろう。また、本来使われるべき予算が、結局日の目を見ることのない撮影などに分散されているとすれば、会社はもとより、作り手や観客の不利益にもつながってくる。

■失われた『スター・ウォーズ』の可能性

 シリーズのプロデューサーは、インタビューのなかで、監督の交代はその資質にあったということを述べている。だが、そもそも監督を選んだのはプロデューサー自身であるはずだし、失敗したくないのであれば、製作中も綿密に打ち合わせを行い、内容のチェックをしなければならないはずだ。製作が佳境に入った段階でなければ、その出来を判断できないというのは不思議だ。経営陣など、上層部の鶴の一声によって全てが決められているのではないかという気もしてくる。問題なのは、監督交代や撮り直しを、結局のところ誰が判断しているのか判然としないところであり、その人物たちは、作品を正当に評価できる能力が備わっているのかすら、よく分からないというところだ。

 そうなってくると、果たして『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』の撮り直しや、『エピソード9』や本作における監督交代すらも、正しい判断だったのか怪しくなってくる。ギャレス・エドワーズ監督は、『ローグ・ワン』において、ドキュメンタリー風の撮影や演出を行う、実験的な作風を試していたという。そのことで現場に混乱が生じていたということが伝えられているが、そのままこの作品が撮られていたならば、“『地獄の黙示録』のような『スター・ウォーズ』”として、後年カルト的な人気を得る作品になっていたかもしれない。同様に、フィル・ロード、クリス・ミラー監督がそのまま『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』をもしも完成させていたら、一体どんな作品になっていたのだろうか。それを実際に観ることのできない我々には、どちらが良かったのかをジャッジすることは不可能なのだ。

 いずれにせよ本作によって、またしてもシリーズ制作における問題が露呈することになってしまった。複数のトラブルが起こったことから、降板した監督たちや、新たに抜擢された監督たちは、制作体制のしわ寄せを受けてしまったと見るべきだろう。本作の興行的な不振によって、以後に予定されているスピンオフ制作の予定に影響が出るのかは、まだはっきりとしないが、『スター・ウォーズ』シリーズという、文化的な財産の価値を失わせることのないよう、ディズニーは最大限の努力をしてもらいたい。(小野寺系)

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