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水先案内人のおすすめ

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吉田 伊知郎

1978年生まれ 映画評論家

市川崑 初期ライト・コメディの誘惑

『愛人』(3/26、3/30)  新文芸坐「市川崑 初期ライト・コメディの誘惑」(3/25〜3/31)で上映 市川崑の最高傑作を問われたら、躊躇なく『愛人』を挙げる。森本薫の戯曲『華々しき一族』を映画化したもので、ベテラン映画監督の井上鉄風(菅井一郎)を父に持つ兄の昌充(尾棹一浩、後に野村浩三へ改名)と妹の麻納(有馬稲子)一家は、避暑地で舞踏家の諏訪(越路吹雪)と娘の美伃(岡田茉莉子)母娘に出逢い、やがて鉄風と諏訪は熟年再婚。子供たちも同居することになる。邸宅には鉄風の弟子の助監督・須賀輪(三國連太郎)も住み込んでおり、それぞれが思いを寄せる意外な相手をめぐって誤解と駆け引きが繰り広げられる。 本作は越路吹雪のために用意された企画で、フランスへ4か月滞在していた越路の帰国第1作を市川崑が撮ることになった。当初、準備されていたのは『紳士淑女諸君』と仮題が付いたもので、後に『彼女をめぐる五人の男』と改題された喜劇で――まるで『黒い十人の女』の逆転版のようだが――上原謙、三國連太郎、小林桂樹、小泉博の共演が予定されていた。しかし、越路が気乗りせず、別の企画が検討された結果、『華々しき一族』の映画化が浮上することになった。越路は岡田茉莉子の母親という初めてのフケ役に興味を持ったようだ。 一方で市川崑にとっては、本作は特別な1本となった。森本薫がかつて映画用に書いた脚本『花ちりぬ』『むかしの歌』を石田民三が監督した際、助監督に付いていたのが市川であり、モダンな演出処理は石田から大きな影響を受けていただけに、本作には期するものがあったようだ。 原作の『華々しき一族』は、今ではwebの「青空文庫」でも読むことができるが、昭和10年に発表されたとは思えない洗練された会話と、現代でもそのまま通用する普遍的な恋愛感情が見事に劇へと昇華された名作戯曲である。発表時は時局柄、上演されることはなく、1950年の文学座公演が初演である。ちなみに舞台での配役を記しておくと、中村伸郎、杉村春子、加藤和夫、丹阿弥谷津子、倉田マユミ、金子信雄(北村和夫)で、もう1本映画が撮れてしまいそうな面々である。 戯曲は三幕構成になっており、コテージ風の住居の一部のみで展開し、1日の出来事として描いていたが、映画も基本的には戯曲を踏襲しているものの、冒頭の志賀高原のロケーションでは雨や霧の艶が美しく映し出され、中盤の多摩川の水の煌めきなど、映画的な空間描写が存分に取り入れられている。 成瀬巳喜男の作品を多く手掛けた玉井正夫の撮影と、石井長四郎の照明はロケーションだけでなく、室内ではさらに魅力を増す。主舞台となる洋館は、美術監督・村木忍の手による巨大セットが東宝スタジオの第1ステージを目一杯使って組まれたもので、応接間を中心にポーチ、台所、階段、2階部分が細部に渡って作り込まれており、どこからでも撮れるように壁が自在に外せるようになっていた。それだけに、最も良い位置にカメラが来て、美しい光を注ぐことが可能となり。陰影豊かな画面を作り出す。それでいて完璧さを嫌うように、衝撃的な告白を三國が告げた後にとんでもない演出が用いられたり、沢村貞子の電話越しのおかしくも悲しい名演など、細部に至るまで魅力にあふれている。 とっておきの名場面は、有馬稲子がナット・キング・コールの『プリテンド』のレコードをかけて、部屋のなかで哀しみを湛えながらひとりで踊るシーン。流麗なカメラの動きと、照明が作り出す光と影の交錯には何度観てもゾクゾクさせられる。

21/3/25(木)

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