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【追悼】常に才能を磨き、前進を続けた名監督 篠田正浩

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「クリエイター人生」取材時の篠田正浩監督 写真撮影:源賀津己( 表現社にて)

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植草 信和(元キネマ旬報編集長)

3月25日、他界された篠田正浩監督へ哀悼の気持ちをこめ、長年親交があった、元キネマ旬報編集長 植草信和さんの追悼文を掲載させていただきます。篠田監督のご冥福を心よりお祈りいたします。(ぴあ編集部)

ぴあアプリ版の「クリエイター人生」で篠田正浩監督にインタビューしたのは2018年夏のこと(https://lp.p.pia.jp/article/lifestory/16381/index.html)。タイトルは「僕の映画探検旅行」で、全10回。3日間、1回3時間ほどだったから、のべ10時間くらいになっただろうか。ご存じの方も多いと思うが、篠田監督は大変な能弁家で、映画から始まって藝能、演劇、果ては歴史、思想、芸術とテーマが次々と展開。その弁舌は巧みで知的、情報量が豊富で、聞き手を飽きさせない。与えられたスペースには限りがあるので、どの部分をカットしようかと悩まされるのが常だった。今思えば、何という贅沢なインタビューだったことか。篠田監督の訃報に接して、まず思ったのは、「あの知的でユーモアにあふれた弁舌」にもう接することができなくなった、という喪失感だ。

篠田監督が早稲田大学の駅伝選手だったことはよく知られている(1950年第26回大会で花の2区を完走!)。松竹入社は1953年。その翌年には大島渚と山田洋次、翌々年には吉田喜重が入社、実に人材豊富な時代だった。篠田、大島、吉田の三人が監督として活躍するようになった1960年代には「松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手」として脚光を浴びた。その松竹時代には『乾いた花』『暗殺』『美しさと哀しみと』などなど傑作・佳作が多い。しかし時期と理由はそれぞれだが、三人の監督は松竹を退社、自分のプロダクションを立ち上げる。

1967年、松竹を退社した篠田監督は終生のパートナーとなった岩下志麻さんと「表現社」を設立、“映画探検旅行”PART2が始まる。その「表現社時代」は、篠田監督の黄金期だ。代表作は69年の『心中天網島』。詩人の富岡多恵子の脚本(篠田、武満徹と共作)、成島東一郎のカメラ、武満徹の音楽、岩下志麻の演技、加えて自身の学生時代からの歌舞伎研究が混然し、エロティシズム表現の最高峰に到達。伝統的な時代考証を踏まえつつ、前衛的な映像表現を取り入れた名作として内外の映画祭で絶賛され、「世界のシノダ」になる。その他『沈黙』『はなれ瞽女おりん』『夜叉ヶ池』『鑓の権三』など、挙げればキリがないほどの名作を生んだ。

篠田監督と最後にお会いしたのは2021年。『夜叉ヶ池』がカンヌ国際映画祭クラシック部門で特別上映されるのでそのお祝いを伝えるために表現社をお訪ねしたのだ。出迎えてくれた篠田さんはちょうど90歳だったが、とてもそんな年齢には見えないほど若々しく、相変わらず能弁だった。「この映画が世界の映画史の中で“古典(クラシック)”になったのかと感慨深いよ」と嬉しそうだった。別れ際に、もう何回も聞かされた「僕は表現社を30年以上経営しているけど、ただの一回も赤字を出したことがないんだよ」。「表現者といえども経済が大事」が口癖だった篠田さんは、やっぱり現代の井原西鶴だなと改めて感動した。

映画監督としては2003年の『スパイ・ゾルゲ』で引退宣言。映画界から離れた篠田さんは母校の早稲田大学の特命教授として教鞭をとり、著述家としても『河原者ノススメ ── 死穢と修羅の記憶』で泉鏡花文学賞を受賞するなど華々しい活躍だった。常に才能を磨き、前進を続けた篠田正浩、94歳。まさに「以って瞑すべき人生」だった。

<プロフィール>
植草信和(うえくさ・のぶかず)

フリー編集者、元「キネマ旬報」編集長。日本映画を中心に、映画関連の出版物を多くプロデュース。ぴあ水先案内人としても活躍。