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なぜ『石門』は“現代の観客”を魅了するのか?

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世界各地で絶賛を集めている映画『石門(せきもん)』が2月28日(金)から公開になる。本作は、中国で暮らす20歳の女性を主人公に、彼女に立ちはだかる“石の門”のように動かすことのできない壁を描いているが、その周囲には現代社会の問題が描かれ、観客を魅了する。

なぜ、本作は世界で年齢やジェンダーを超えて幅広い層から支持を集めたのだろうか?

あらゆる命が“モノ化”する社会

映画の主人公リンは、フライトアテンダントになることを目指して勉強しているが、望まない妊娠が発覚し、それまでの暮らしが一変する。父親は別れたばかりの元恋人で、彼は遠回しに中絶を勧めてくる。リンは診療所を営む両親が死産の責任を追求されていることを知り、自身の身ごもった子を“賠償金の代わり”にすることを思いつく。

『石門』では様々な場面で命が“モノ”として扱われる場面が描かれる。リンは自身の子を“賠償金”として利用しようとするし、彼女が接触する卵子提供ビジネスの現場では、人間が出身や経歴などで分類されている。少しでも良い遺伝子がほしい、条件の良い卵子を手に入れたい。ここでは命が“モノ”として扱われ、優劣がつけられている。

さらにリンの母親は、娘の生まれてくる子を渡す“賠償の相手”から、「当面はその子を育てて欲しい」と依頼されるが、「私たちは決して子育てはしない」と言い張るばかり。

ここではあらゆる命がやりとりの材料になっている。若いリンの身体は時にバイト先で“マネキン”のように扱われ、時には子を身ごもり、出産まで育てる“施設”のように扱われる。すべてが“モノ”であり、条件であり、価値を生む資本であり、マネーの世界で媒介される“証券”になる世界。

映画『石門』はひとりの女性の苦しみや心情の変化を丁寧に描いた作品だが、その背後に描かれる世界では人間は容赦なく資源化されている。この世界に放り込まれる主人公の痛みはいかほどのものか? いや、これは私たちが生きている世界なのではないのか?

過剰な責任と過剰なつぐない。社会の不均衡を考える

本作は、生まれてくる子を“賠償金の代わり”として差し出そうとするところから物語が始まっている。どう考えても“人間の命”を差し出す必要のある賠償というものはこの世界には存在しないのではないだろうか。しかし、リンも両親も、賠償を支払う相手も“生まれてくるリンの子を賠償として与える”というプランを受け入れている。

“つぐないようのない責任”に対して“責任に見合っているのか誰もわからない賠償”が差し出される。この時点で本作がいかに唯一無二で、想像力が無限に膨らむ設定が描かれているかがわかる。

また、女性が望んでもいないのに妊娠してしまう、そのことで身体やキャリアに多大な影響がおよんでしまう。これはどう考えても、“妊娠した責任”とその後に続く責任や結果が釣り合っていない。さらに言うならば、この責任は女性にだけ課せられる。父親である元恋人の無責任ぶり、当事者感のなさは衝撃的なほどだ。

映画『石門』ではさまざまなかたちで登場人物が何かしらの“責任”を追求される。そして、それらはどれも責任とつぐないが均衡していない。人々は過剰なまでに責任を追及されたり、不条理な状況に追い込まれたりする。そもそも、責任とつぐないは“均衡”するものなのか?

本作はリンだけでなく、多くの登場人物の前に重たい石の門のような壁が立ちはだかる。そしてそれらは平等には襲ってこない。女性や、社会的に弱い立場にいる人、声をあげられない人のところに石門はのしかかる。

急進する社会と普遍性

映画『石門』では主人公が暮らす社会が急速に発展し、経済的に繁栄する一方で、格差や急激な価値観の変化が起こっていることが示唆される。大きなビルが建ち並び、暮らしが豊かになる一方で、自分の立っている“地盤”が想像もしないスピードで崩れていく感覚。

現代の観客は本作が描く感覚に共感するはずだ。監督を務めたホアン・ジーと大塚竜治は、社会が急速に変化し、日常が不安定化していくさまを主人公のドラマの“背景”としてさりげなく、しかし余すことなく描写している。わかりやすいセリフやドラマにしなくても、世界中の観客が現代社会の“危うさ”と“もろさ”を感じられる作品となっている。

その一方で、本作はこれから何十年か経ち、社会環境が変わっても観る者を魅了し続ける普遍性も備えている。

どれだけ命が“モノ化”しようと、どれだけ社会が殺伐としようと、女性が不条理な“痛み”に襲われていることは変わらない。望まないままに身体が変化し、どうしようもない痛みが襲ってくる。主演のヤオ・ホングイは全編にわたって繊細な演技で主人公を演じているが、彼女の表現する“痛み”は、どの時代の観客にも伝わるだろう。

夢を追っていた20歳の女性が、身体の不具合や家族の問題などで自分の進むべき進路を休止せざるをえない。起こってほしくはないが、そんな場面はこれからも性別に関係なく若者に起こりうることだ。

映画『石門』は“社会問題”だけを描いた作品ではない。しかし、リアリティのある描写で活写されるひとりの女性の背後に、彼女をとりまく世界に、“現代の観客が無関係ではいられない問題”が潜んでいるのだ。

『石門』
2月28日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほか全国順次公開
https://stonewalling.jp
©YGP-FILM