Vol.3『宮田バスターズ(株)―大長編―』
坂田敦哉監督インタビュー
完全自主制作でありながら、宇宙生物と戦うSF映画という壮大なジャンルに挑戦。池袋シネマ・ロサで一般上映されたことをきっかけに、“注目の才能”として「TOHOシネマズ ピックアップ・シネマ」Vol.3に選ばれたのが『宮田バスターズ(株)-大長編-』の坂田敦哉監督だ。現在23歳。『宮田バスターズ(株)-大長編-』の前身となる短編『宮田バスターズ(株)』を作ったときはまだ10代だったという早咲きの才人に話を聞いた。
映画を作り始めたのは幼稚園か小学生の頃
きっかけは『のび太の宇宙小戦争』
── かなり幼い頃から映画監督を目指されていたそうですね。
坂田 『ドラえもん』に映画を撮る話があるんですよ。今TOHOシネマズにいますけど、今日『宮田バスターズ(株)-大長編-』の隣のスクリーンで『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争』のリメイクが上映されていて、奇跡が起きてる思ってるんです。『のび太の宇宙小戦争』って特撮映画を撮るシーンがあって、それを映画館で幼稚園か小学生のときに観て、自分でも映画を作り始めたんです。
── 幼稚園か小学校のときに、ですか?
坂田 そうです。家庭用ビデオカメラで。なので、映像を作るきっかけになったその映画と同時に『宮田バスターズ(株)-大長編-』が上映されていることに感動してます。
── 子供の頃はどんな映画を作っていたんでしょうか?
坂田 人形を撮ってましたね。それこそドラえもんの人形を撮ってました。中学生になると友だちと一緒にやるようになって、高校は映像デザイン科があるところに行きました。『宮田バスターズ』のメインを固めるスタッフは全員高校時代の友だちなんです。
── もう中学生のときに進路は映像と定めていたんですね。
坂田 そうですね。最初はマンガも描いていたんです。でもマンガはムリだっていうか、映像で撮った方が速いって思ってしまったんです。今考えたらどっちも大変なんですけど、きっかけはそれくらい単純でした。
僕は1999年生まれで、2000年から2006年くらいって映像が普通の家庭でも一般化されていく流れがあったと思うんです。僕は8mmとかVHSには触れてなくて、初めてカメラに触ったときから記録媒体がSDカードでした。それを家にあったパソコンに突っ込んで編集してましたね。まだ持ってるんですけど、当時使ってたSDカードの容量って8メガしかなかったんですよ(笑)。
── それから映画を学ぼうと大阪芸術大学に進学したんですよね。
坂田 中退しましたけどね(笑)。でも『宮田バスターズ(株)』のスタッフの8割は大阪芸大で仲良くなった人ですね。
── 『宮田バスターズ(株)』について“学生映画”と発言されているんですが、どの学校に通っているときに作ったんでしょうか?
坂田 大阪芸大は1年で中退したんですけど、その後、特殊造形の専門学校に行ったんです。造形の勉強をすればSF系もできるんじゃないかというのがあって、勉強をしつつこの映画を撮りました。
総予算は400万円ほど
アイデアは大がかりでも考えればできる!
── 『宮田バスターズ(株)』の着想は「自動車で壁をぶちやぶるシーンを撮りたい!」だったと聞いています。まず先に撮りたい画が浮かぶんでしょうか?
坂田 映画を作る者としてどうなのかという話ではあるんですけど、どちらかというとまずは話題になりそうなことをやりたったんです。たぶんセットを建てて、そこに手作りの車を突っ込ませたという事象は、自主映画ではやった人はいないはずで、きっとびっくりされると思ってたんです。そこが突破口だなと思ってました。
── それはいわゆるYouTuber的な発想だったんですか?
坂田 まさにそうです。だから映像作家としてはどうなのかとは思うんですね(笑)。いつも話題をつかまないと話にならないと思っていて、『宮田バスターズ(株)』はメイキングも含めて、ホームセンターで買った材料だけで作りましたみたいなことを売りにしました。前身になった短編版が先にあって、その売り出し方で映画祭に出したら評価してもらえました。「こんなことをするやつ他にいないだろう」という気持ちでやったので、その考え方がちょっとでも合っていたのなら、長編版もイケる気がしたんです。
── 長編版は、完全にゼロから作り直したわけですか?
坂田 そうです。短編版のときはあくまでも名刺代わりで、僕のホンチャンの映画ではないという気分でずっと作っていたんです。仕切り直して、同じキャスト、同じスタッフでもう一度ちゃんと作り直したというイメージです。
── 自主映画には常に製作費の問題があると思うんですが、最初から大がかりなものを作ろうと決めていたんですね。
坂田 アイデアは大がかりでも、ちょっと考えればできると思いました。『宮田バスターズ(株)-大長編-』は総予算が400万円くらいなんですけど、映画プロデューサーの奥山(和由)さんにこの映画を見つけていただいたのも、その400万という数字が大きかったと思うんです。もし10倍の金額で作っていたら、話題にはなってないと思ってます。まあ粗いですけど、工夫すれば400万でこれが作れる。それも僕が造形もやるし、高校時代の友だちとか、みんなが仲間として作ったんで可能だったことですけど。
── 劇中で、宮田バスターズ株式会社の事務所になる20平米のセットを建てる場所はどう確保したんでしょうか?
坂田 1カ月20万円の貸倉庫を東大阪の工場地帯で見つけたんです。むちゃくちゃ寒いんです。ただただデカくて、トイレと電気があった。撮影スタジオを借りると何百万もかかるので。
── 何度も撮り足しながら完成させたということですが、その度にセットは一旦壊したんですか?
坂田 セットはぶっ壊して、追加撮影ではまた一角だけ建てたりしてました。追撮したのは、ことが重大になってきたからというか。劇場公開もされて、自分が当初思っていたよりも多くの人に見られているから、もっと粗を隠さないとって思ったんです。実は今日の上映の前にも追加した部分を足したりしてます(笑)。
── 主演の渡部(直也)さんは、いつまでも映画が完成しないからサグラダ・ファミリアに例えていましたね。
坂田 いやあ、ほんとにそのとおりだと思います。もうさすがに終わった気はしてますけど。
最初は演出のつけ方も分からなかった
『宮田バスターズ』とともに僕も成長した
── 脚本は最初から完成していたんですか?
坂田 脚本はありましたけど、どんどん変わっていきましたね。まさに初めての映画だったんで、映画を粘土として考えて、こねながら勉強してるみたいな。ただ追加撮影をスタイルにしようとは全然思ってなくて、あくまでも勉強を兼ねて、この作品に関してはやれるところまでやろうと。もし次があるならちゃんと一発で終わらせたい派です。
短編を基に長編を撮ったのも、現実的な理由がありまして。1回やったものって2回やったらもっとよくできるだろうという、本当に単純な発想でした。キャストとも仲良くなってるし、一から新しいものを作るよりも、絶対にいいものができるだろうと。今ってすごく仲間内で固めてるんで、追撮も許されるし、うまいこともいったと思うんですけど、次の段階、プロの世界に進めばこんなわがままは絶対に通用しない。さあどうしようかなという感じです(笑)。
── 主演の渡部さんには映画祭で声をかけられて、大須みずほさんは直接メールをくださったそうですね。
坂田 そうなんです。大須さんは本当に学生時代の作品を観て、出たいと言ってくださったんです。渡部さんもそうですけど、俳優さんというものに出会うこと自体がほとんど初めてだったんで、出たいと言ってくださる方がいるだけで、もう「即一緒に作りましょう!」ってなりました。
── 演技指導はどうしていましたか?
坂田 最初は演出もつけてなかったですし、つけ方も分からなかったです。でも、だんだん演出するようになっていって、『宮田バスターズ』とともに僕も成長したんだと思います。最初は「演技ってなに?」ってところから始まって、よくその状態で映画を撮ろうと思ったもんです(笑)。渡部さんの紹介で宮崎美子さんに出ていただけたのも本当に特別なことでした。
直近で追加撮影したのが半年くらい前なんですけど、その頃にはすごく演出してましたね。最初は本当にYouTuber的なものだったのが、自分で言うのもなんですけど、僕もチームも映像作家らしくなってきた気はします。
── 短編を長編にするにあたっての苦労は?
坂田 わりとすんなりでしたね。だいたい書き始めたらささっといけちゃうんです。ただ、最初に書いた脚本を元にした初号って、追加撮影を繰り返しすぎてほとんど原型が残ってないんです。例えば冒頭のプレゼンとか、ライバル会社のシーンは全部まるごとなかった。だから脚本家としては失敗してますよね。
── ストーリーを語りたいという欲求は元々あったんでしょうか?
坂田 それはありました。真田幸村が大好きなんですけど、『宮田バスターズ(株)』もがんばったけれど負けましたみたいな切ない系の話にしたくて。伝えたいことは短編のときから同じですね。忘れ去られていくものに対する哀しみというか。
── そういうノスタルジーが、手作りの作り方にも繋がっているんでしょうか?
坂田 それは別かもしれないです。手作りなのはあくまでも技術的な問題というか、もし発注できるおカネがあるんだったら発注しちゃいますね。手作りにこだわってるわけではなく、自分で手を動かさないと400万円ではできないからやったというイメージですね。造形物に関しても、本当は僕よりも専門のプロの方がやった方がいいだろうと思ってます。
僕、『宮田バスターズ』撮る前にめちゃくちゃB級映画を観て勉強したんです。B級というか、手が届く範囲の映像をたくさん観ました。勉強になったのはアサイラム(B級パニック映画を量産するスタジオ)です(笑)。アサイラム系のメイキングにはかなり助けられました。アサイラムのなんだかよく分からないサメ映画はかなり観ましたし、真似できそうな気がするんですよね。
── アサイラム系のソフトって、低予算なのにちゃんとメイキングがついてるんですね?
坂田 むしろメイキングを含めて売りにしてるんだと思います。SF映画を作りたい人は、みんな観て教科書にするといいんじゃないかな。でもアサイラムも全然レベル高いと思うんです。日本のちょっとした商業映画よりも全然クオリティは高いと思います。アサイラムにすら手が届かないんだから、洋画のもっと大きな映画のレベルになると参考にすらならないですね。
次回作は現代を舞台にした忍者映画!?
“失われゆくものの哀しさ”がこだわり
── 奥山(和由)さんがが関わることになったきっかけは?
坂田 たぶんシネマ・ロサでご覧になったんだと思います。奥山さんがロサで『ベイビーわるきゅーれ』をご覧になって、そこでシネマ・ロサという映画館に興味を持たれた。で、(『ベイビーわるきゅーれ』の)阪元祐吾監督が『宮田バスターズ』の物販についてツイートしてくれたので、奥山さんが『宮田バスターズ』を観てくれて、一緒にやりましょうとなって今に至るみたいな感じです。
── じゃあ、次回作の企画が進んでいる?
坂田 それはまだないです(笑)。今は『宮田バスターズ(株)-大長編-』の全国公開が先かなと。具体的には決まってないですが、奥山さんにおまかせして配給と宣伝をやっていただくことになります。
── 次回作の構想はあるんですか?
坂田 忍者映画をやりたいですね。忍者映画って、日本で成功することが難しいジャンルだと思うんです。でも時代劇ではなく、あくまでも現代を舞台に展開する忍者劇をやってみたいですね。
── コメディっぽい感じですか?
坂田 いや、真面目にやりますよ! それもまた“失われゆくものの哀しさ”ですね。『宮田バスターズ』もコメディっぽく見えるとは思うんですけど、実は意外と真面目だったみたいなのが好きなんです。忍者映画も、扉を開けてみたら実はまともだったという作品にしたいですね。たまたまアイデアを思いついただけで、まだなにも決まってないですけどね。
── ちゃんとした製作費をかけて『宮田バスターズ』をリメイクしようとは思いませんか?
坂田 それはないですね。僕の10代の時代と一緒に『宮田バスターズ』は終わりました(笑)。これからが新たな出発です。
── 坂田監督にとって、どこまで行ければゴールだと思われますか?
坂田 今はCMなどを作っている映像制作会社で働いているんですが、まだ社会人1年目でなにも分かっていない状態なんです。今後映画が撮れるのかは分かりませんが、ゴールはやっぱり“TOHOシネマズで全国公開”でしょうか。王道のエンタメで、どこかグッと来るような映画をいつか撮れたら嬉しいです。
取材・文:村山章
撮影:源賀津己
『宮田バスターズ(株)―大長編―』
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