科学者の決断が歴史を動かす……。映画『オッペンハイマー』を取り巻く時代背景とは
クリストファー・ノーラン監督の最新作『オッペンハイマー』がついに日本で公開になる。本作は、20世紀を生きた物理学者ロバート・オッペンハイマーが主人公だが、彼の物語と彼が生きた激動の時代は切っても切り離せないものだ。
ノーラン監督が映画でどのようなドラマを描くのはスクリーンで確かめたいが、まずは実在のオッペンハイマーが生きた時代を振り返りたい。
第2回
新たな戦争が始まった
人類史の始まりから戦争には“知の力”が必要だった。星の運行から時の流れを知り、鉱物を研究し武器を進化させ、レンズや火薬を発明する。科学が進化することで戦争の姿は少しずつ変化していった。
中でも第一次世界大戦(1914-1918)は戦争の姿を大きく変えた。それまでの戦争は、かたちは変われど、侵略の局面を除いては、兵士が戦場で対面で争ったが、この時期から戦争に科学技術が大胆に導入された。飛行船による爆撃、毒ガスの使用、無線を駆使した情報戦、潜水艦を用いた攻撃……戦場は市街地にまで拡大し、市民を巻き込んだ大量殺戮の時代が到来したのだ。
結果、それまで以上に大学などで研究を続ける科学者、特に物理学者が戦争に与える影響が大きくなった。彼らの成果(科学)は、職人たちの技(技術)と混ざりあい“科学技術”として認識されるようになり、それは“軍事技術”への転用が期待されるようになる。それまで自身の知的好奇心や探究心のままに行動していた物理学者や研究者たちは、時代のうねりの中で戦争に巻き込まれることになったのだ。
本作の主人公J・ロバート・オッペンハイマーは1904年生まれ。幼い頃から学問に興味を持っていたというが、10歳のときに第一次世界大戦が始まり、戦後の混乱の20年代を学生として過ごした後、大学で教鞭をとるようになった1929年に世界は大恐慌時代に突入する。
やがて、第一次大戦で敗れ、賠償金が重くのしかかったドイツではヒトラー率いるナチスが勢力を伸ばし、オッペンハイマーが35歳のときに第二次世界大戦が勃発。そこでもまた最新の科学技術を駆使した新兵器が投入され、大量虐殺にも科学技術、情報技術が積極的に使われるようになる。
そこに関わった物理学者たちはみな、最初は自分の学問を極めたいだけだったはずだ。興味のある分野を学び、新たな問いを立て、未知の領域を研究と仮説と証明で広げていきたいと思っていただけだった。しかし、彼らの営みは結果として戦争に、人を殺すために、国境線の引き直しに利用されてしまう。
オッペンハイマーもそんな20世紀を生きた物理学者のひとりだ。
戦争が終わっても“争い”は終わらない
第二次世界大戦が終結したとき、オッペンハイマーは41歳になっていた。ユダヤ系アメリカ人の物理学者であった彼は、ナチスドイツに対抗するために、アメリカの国家プロジェクト「マンハッタン計画」に参加することになったが、映画『オッペンハイマー』でも、このあたりのドラマが描かれることになるだろう。
世界史に目を向けると1945年に第二次世界大戦は終わり、世界にひとときの平穏が訪れた。しかし、その瞬間からアメリカを中心とする西側陣営と、ソビエト連邦を中心とする東側陣営の勢力争いが幕を開けた。彼らは直接、どこかの戦場で武器を交えることも、銃弾を放つこともなかったが、その対立は激化。世界中の誰もが、もし第三次世界大戦が起これば世界が破滅するほどの争いになるだろうと確信していた。世界の終わりはもうすぐそこまで来ていると思った。時にそれぞれの陣営が別の争いに介入する代理戦争が繰り広げられ、人々はこの状況を“冷戦”と呼んだ。
好むと好まざるとに関わらず戦争に巻き込まれていた科学者たちは、今度は冷戦の波に翻弄されることになった。資本主義・自由主義陣営の西側では、国内に共産主義・社会主義を支持する者がいるのではないかという疑心暗鬼が巻き起こり、あらゆる分野で告発や尋問、監視、職場やコミュニティからの追放が行われた。共産党の支持者を“赤”と呼ぶことから、この流れは“赤狩り”と呼ばれ、時にはまったく言われのない罪や理由で職場を解雇されたり、追放される人が出現した。
J・ロバート・オッペンハイマーも、50歳のときにソ連のスパイではないかと容疑をかけられてしまう。彼はそれを否定するが、疑惑が晴れることはなく、62歳で亡くなるまで監視の目が注がれたという。その死後、彼への疑惑や迫害は不公正なものだったと発表されたが、この世を去ったオッペンハイマーはその言葉を聞くことはなかった。
大きなふたつの世界大戦を生き、戦後には冷戦構造の歪みの中に巻き込まれてしまったオッペンハイマー。映画でも、彼が生きた時代が重要な背景として描かれることになるのではないだろうか。
科学者が向き合った“最大の問題”とは?
かつて、知の探究者は自身の良心(時には信仰心)と向き合い、ひたむきに研究と学問を続ければよかった。しかし、あるときから、多くの科学者たちが自分の研究の成果が戦争に利用されること、自分の知的好奇心が世界の姿を変えてしまう可能性があることに向き合わねばならなかった。
自分の追求しているものは、善の知なのか? それとも悪の力なのか? そもそも、善と悪をどうやって見分けるのか?
この問題はおそらく人類史が始まってから普遍的にあるものだろう。いま我々の生きている時代は、オッペンハイマーの時代からさらに進み、軍事技術はさらに高度化・複雑化し、その範囲は戦場、市街地だけでなく宇宙やネット空間にまで及んでいる。
テクノロジーによって私たちの暮らしは便利になる。でも、その技術が戦争に利用されるとしたら? あなたはこの問題に瞬時に答えを出せるだろうか。
本作を手がけたクリストファー・ノーラン監督はこう語る。
「私が(この映画で)したかったのは、歴史の大転換期の絶対的中心にいた人物の、魂と経験の中に観客を導くことだ。好むと好まざるとにかかわらず、J・ロバート・オッペンハイマーは未だかつてない最重要人物だ。彼は良くも悪くも私たちが生きる今のこの世界を作り出した。彼の物語を信じるには、それを目にするしかない」
私たちは映画館のスクリーンを通じて、今のこの世界を作り出したオッペンハイマーと、彼の魂、そして彼が生きた時代と向き合うことになるだろう。
『オッペンハイマー』
3月29日(金)公開
公式サイト
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Photo:Aflo
第2回